「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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【99】 真理の世界は「100%」

Q: 嫉妬や怒りなど自分の悪い感情に気づい た時、「雑念」という言葉で確認しているのですが、いつもちょっと迷いがあるのです。イヤな感情だから「雑念」という言葉でごまかしているようにも思うし、もっと具体的に「怒り」とか「嫉妬」と確認した方がいいようにも思います。そういう時はどうすればいいでしょうか。

A:  ヴィパッサナー冥想で確認する時には、 「100%」の確実性、単純性が必要です。「迷う」というのは良くないのです。100%確実でないと智慧は育ちません。

 世の中で、たいがいのことは不確実ですね。「これは100%確実だ」と言い切れることはほとんどないのです。ところが仏教では、100%確実でないと認めないのです。例えば、仏教では、「悟ったつもり」は認めません。本人が「こういうことだからおそらく私は悟っているだろう」と思っても、それは「だろう」という推測にすぎません。100%の確実性がないと本物ではないのです。誤って悟ったつもりになることほど迷惑で危険なことはありません。100%で修行していれば、悟ったかどうか自分ではっきりとわかるのだから、問題は全く起こりません。仏教の理解も、説法を聞いてわかったような気になっただけでは、100%確実とは言えません。はっきりした体験もないのに「やはりすべては無常だね」と口で言っても、100%わかってないのです。自分で経験して100%確実にならないと、役には立ちません。

 お腹が膨らんだら「膨らみ」、縮んだら「縮み」、痛みが生まれたら「痛み」。これらは、すべて「100%」の体験でしょう? そのように、「これだ」と言い切れる確実性で修行するのです。何か聞こえたら「音」と確認して、そこで止めるのです。「音」は「100%」です。「車の音だ」「鳥の声だ」などと思うのは、もう推測になってしまって、100%確実ではありません。

 皆、そこが納得いかないのですね。例えば、修行中に、「半年ほど前に足をくじいた影響だと思いますが、足が痛かったです」などと言う。それは100%の確率性で修行してない人の言葉です。痛みが生まれたら「痛み」で止まるはずなのです。「こうではないか」という推測はいりません。「痛み」で止まれば、100%確実でしょう? 誰かが「それは痛みではありませんよ」と言うことはできません。「100%」とは、そこに異論は成り立たないということです。ヴィパッサナー冥想で「100%」の訓練をして、いつでも解釈してしまうという悪い癖をやめるのです。「100%」で冥想すると、こころは自然に成長していきます。問題は起こりません。

 ですから「100%」ということは、とても大切です。実況中継の時は、それが100%確実かそうでないか、すごく気をつけてほしいのです。曖昧なラベリングで冥想しても、あまり良い結果を出してくれないのです。

Q: では、どういう感情か完全にはっきりしないなら、やはり「雑念」とした方がいいのでしょうか。

A: それは、そうとも言えません。やはり、嫉妬していたならば、正直に「嫉妬」と確認した方がいいのです。正しく客観的に確認できれば、その感情を確認した瞬間に、その感情の悪い影響はなくなるのです。

 修行が進んでいる人は、こころが落ち着いていて、激しい怒りや嫉妬はあまり出ません。しかし、やはり何かおもしろくないと感じることはあります。もしかしてそれが嫉妬であるならば、「嫉妬」とズバリと正しく確認できたならば、かなり効き目があります。効き目とは、サティの力で、その感情による悪い業がこころにたまらず、その場で消えてしまうということです。

Q: そういうのは実践することで理屈はどうでもいいのかもしれませんが、怒りでも嫉妬でもはっきりと正しく気づけば悪影響が消えてしまうメカニズムというのはどうなっているのでしょうか。

A: 正しく気づいた瞬間は、だまされてないのです。その瞬間で無知がなく、瞬間的に智慧がはたらくのです。智慧とは、「ありのままにわかる」ということです。

Q: なるほど。「バカなことをしているな」と 自分でわかったということですね。

A: というよりも、「ありのままに見えた」ということです。「怒りなどバカなことだから何とかしようではないか」というごまかしのようなことではありません。「怒り」とありのままを見るだけ。それで終わりです。「ありのままに見える」というのが智慧の能力なのです。

 実践の世界は、道徳の世界とは違います。善悪判断はせずに、ありのままを確認するのです。道徳の世界でこころを直すのは難しいのです。「怒ってはいけない」と説教されても、うるさいなあと感じるばかりで、それほど良い結果は出ないのです。修行の世界では、「怒ってはいけない」とは言いません。怒りが出たら「怒り」と確認してください、と言うだけです。そうすると智慧が生じるのです。

 おっしゃるように、これは実践すればわかることで、理屈は必要ないのです。しかし、理解するために、一つたとえ話を言いましょう。上手なマジシャンの手品を見ると、皆、すごく驚きますね。でも手品の種というか、仕掛けがわかったら、「なぁんだ」と、別にどうということはなくなってしまうでしょう? なぜ種がわかったらおもしろくなくなるのかと聞かれても、仕組みがわかったのだからもう驚かないというだけなのです。それと同じ機能です。

Q: ズバリと確認できたら、その感情はもう消えてしまうのですか。

A: それほど簡単ではありません。例えば、何かで腹を立てた時に、その怒りをズバリと確認できたとしても、すべての怒りが永久的に消えるわけではないのです。ただ、その場では、その怒りは問題を起こさなくなります。客観的に「怒り」を観察した瞬間に、その怒りに打ち勝てるのです。

 それができるようになると、ふつうだったら怒るような場面でも、落ち着いていられるようになります。職場でも、家庭でも、怒りを客観的に観ることさえできれば、怒りに振り回されないで淡々と生きていられるのです。

 そうすると「我ながらけっこう人間ができてきたではないか」という実感が起こるかもしれません。自信も出てきます。そこで、「これはすばらしい、これこそ仏教だ」と修行が終わったように思ってしまったら、またちょっと困るのです。確かにそれは、ふつうの人には決してできないようなすばらしいことかもしれません。しかし、まだ、ただ一時的に感情を管理できるようになったという段階にすぎません。怒りが生まれるカラクリは発見していないのだから、そこで満足せずに、さらに修行を続けていく必要があります。

 さらに修行を続けていく時も、とにかく100%の確率性で確認していくことだけは忘れないようにしてください。それを厳密に守らずに、いつでも可能性にかけているならば、せっかく冥想しても、あまり進めなくなります。100%の確実性で、シンプルにチャレンジしていくと、こころは成長していきます。

 「100%」の生き方をした方が良いのは、冥想の時だけではありません。世の中のほとんどの問題は、推測や感想による妄想から出てくるのです。「ああではないか、こうではないか」という妄想を止めれば、スゴく楽に生きられます。100%の確実性、単純性は、我々の人生を幸せにするためにも、とても役に立つのです。

Q: 常に「100%」で生きるというのは、とても難しいように思います。

A: そうかもしれません。だからこそ、ヴィパッサナーの修行で、「100%」で生きる性格を育てるのです。それは、仏道修行の過程で出てくる性格改革です。真理の人間になるように、人格を改革するのです。「100%」で修行していると、中途半端な曖昧さがなくなって、イエスかノーかはっきりと決められる人間になります。そうやって、一人一人が、推測の世界から脱出するのです。「こうではないか、ああではないか」という世界から脱出して、真理の世界に入るのです。

 一般の世界は推測の世界、好みの世界です。「こういう世界が好きだ」と思って、そちらに行こうとするのが、普通の生き方です。そういう自分の好き嫌いで進んでも、真理に出会うことはできません。

 修行の世界では、好みで修行してはならない。好き嫌いは置いておくのです。例えば「我々日本人はこういう育ち方だから、こうします」という態度は、「自分の殻を破りたくない、自分の好みで生きていきたい」ということです。そういうやり方で修行しても、成長はありません。死ぬまで同じ考え方の中でグルグル廻るだけで終わることになります。固定概念を捨て、解釈をせずに、「100%」の真実を見つけることだけを積み重ねていく。その方法でこころが成長していくのです。感情や好みには関係なく、現実的、デジタル的、解剖学的な態度で実践するのです。好みであろうがなかろうが、100%の真理に行く。そうすると初めて、智慧の世界に進めるのです。

 少なくとも悟りの世界は「100%」しか認めない世界です。ヴィパッサナー冥想では、そのあたりに気をつけてがんばればいいのではないかと思います。

(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)(編集 早川瑞生)

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