「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOME「ブッダの智慧で答えます」(Q&A) →(10) 植物人間1:生の定義(2001.6月)
釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から
(10) 植物人間1:生の定義(2001.6月)
 私は印刷職人でしたが、昨今の出版不況で廃業。妹が重度身体障害者で介護経験がある事もあって、介護職に転身し、公立特別養護老人ホームでケアワーカーとして勤務しています。
 特別養護老人ホームとは、常時介護が必要で在宅生活が困難な寝たきり老人を入所させて、日常生活上の世話を行う福祉施設です。2000年4月施行の介護保険制度以前は、措置(行政の権限による強権発動)によって入所が決定される事もあって現代の姥捨て山≠ニの陰口も聞かれましたが、社会的に居場所のない老人の受け皿・終の棲家として、一定の役割を果たして来た事は確かです。
 しかし介護保険施行以後は、国家財政逼迫の影響で施設経営の効率化が求められたため、教養娯楽費のカット・職員のリストラによって、入所者に提供できる介護サービスは必要最低のものに限られつつあります。そのような情勢下で入所者は、寝たきりで、出されるものをただ食べて、オムツを替えてを繰り返すだけの日々を余儀なくされており、余生を充実感をもって悔いなく生き切るという理想とはかけ離れた現実を目の当たりにして、介護者としては、人の生きる意義について疑問を抱かずにはいられません。
 とりわけ重度痴呆によって意思表示ができず、栄養も自力摂取できずに経管(チューブ)摂取で露命をつないでいる方に身近に接すると、これでも「生きている」と言えるのか、との思いに駆られてしまいます。栄養を注入すれば肉体を維持しようとするメカニズムが働くのだから、生命活動が認められる事は確かです。従って本人の意思・精神活動の有無に関わらず、ただ生きている事自体に存在意義がある、また私に自分が生きる事の意味を省みる契機を与えてくれたという一点でも、その存在に価値があると考えるようにしているのですが。
 脳死の植物状態にある患者で、人工呼吸器等で肉体の維持のみを図っており、自力で「生きようとしている」とはいえない場合も、「生きている」とみなすべきなのでしょうか。こんな疑問が生じるのは、自由意思をもって生産的に精神活動する事に価値を置き過ぎて、それだけが「生きている」証だと狭量な考えを持っているからではないか、と自問自答しています。
 「テーラワーダ」では、植物人間は「生きている」と考えるのでしょうか。


A:
生命とは何ですか?

仏教では存在を物質(ルーパ)とこころ(ナーマ)という二つの働きに分けています。
無限の宇宙を構成している物質について科学の世界でよくがんばって探求しています。仏教でも人の解脱に必要なところだけ説明しています。
こころという働きが生命、いのち、魂、霊魂、SPIRIT,LIFE,SOULなどのことばで世間でよく知られている「生命」です。引いて言えばこころの働きが生命です。
☆: こころという働きが物質を媒介して機能しているとき「からだを持っている」生命になります。
☆: 物質を媒介しないでこころのみ機能する場合もその働きが「生命」です。身体を持たない生命とは特別なレベルです。こころのエネルギーを最高位まで育てたときのみ可能です。専門用語で「無色界」といいますが、またレベルも四つあります。冥想の究極の達人でないと経験できないレベルなので「極めて稀なケース」だと理解してもかまわないと思います。
 
普通に生命は身体を持っています。(神も、霊も、いるならば幽霊も、お化けも、鬼も、他の云々も。)
こころが身体という物質を通して機能してこころに刺激を与える。この刺激によってこころという機能が回転するのです。(回転といってもある一つのものが回転するわけではなく、生、滅、生、滅という流れ、波、波動が起こるのです。)
外からの刺激がなくてもこころは自分で自分を刺激させることもできるのです。ですから無限にこころは回転することが出来るのです。(用語:輪廻)
生きるということの意味は「こころが刺激を受けて限りなく回転する」ことです。
繰り返します。
生きるということは只、こころが刺激を受けて回転することです。
こころにとって刺激であれば何でも良いのです。貪りでも、怒りでも、無知でもかまわないのです。怠けないことでも、施しでも、慈しみでも、知識でもかまわないのです。しかし、貪瞋痴は努力しなくてもついているものだからその方から刺激を受けるのです。
こころが刺激を受けて流れるだけのことだから輪廻のなかでいくら長い間、生まれ変わりを繰り返しても成長、進歩、発展ということがないのです。天に生まれようが、地獄に落ちようが、刺激は「楽」か「苦」かだけの違いで、所詮輪廻の中で回転していることには違いありません。
 
こころとは何ですか
認識する働きはこころと言います。

これを説明するために私はこのような例えを使います。わたしの前に机が一つあります。それで、こちらに私もいます。机と私の身体がただの物質です。地球の物質から生まれたものです。全くも同じです。
しかし、私の場合何かが違うのではないかという気がします。
その違うところをリストアップしてみましょう。
机が自分のことも回りも認識しない。私は認識する。
机が壊れたら自己修理しない。わたしの身体が壊れたら自己修理する。
それで、私は食べる、動く、感情を持つ、考える、寝るなどもする。私の体の物質は次々外へ逃げていく。わたしは換わりの物質を入れる。などなど沢山の機能があることが分かってくる。無数にあるけれども、まとめて言えば「私は生きている」、「机がただの物体です」ということになる。食べる、歩く、怒るなどの全ての生きる機能が
「認識する」 という一つの言葉にまとめられる。 認識 さえしなければ生きる機能 がひとつもないのです。
ゆえに、
「こころ」はただの機能であって「もの」ではありません。
 
人間だけありがたいか
認識機能が生命(いのち)とするならばミミズもゴキブリもアミーバも人間も同じことをやっているとわかるのです。微生物も同じです。
高層ビルを建てる人間がミミズより偉いのですか。ミミズに高層ビルは要りません。ですから作らないのです。造れないのです。でも必要だから土を掘るのです。人間にも「アリ塚」を作れないのですが、宇宙船なら造れるのです。それは必要とするからです。空を飛べると言って鳥が威張ることも、水の中で生活できると魚が威張ることも(やってはないが)馬鹿馬鹿らしいし、人間が自分たちこそ高等だと勝手に思っているだけで、もっとアホらしいのではないかと思います。
こころが身体という物体を媒介して刺激を受けています。(=生命)。このポイントにおいては一切の生命は平等です。またそれぞれのこころがそれぞれの身体を通して違う刺激を受けているのだから全く同一といえる生命もいないのです。アリ2匹でも違う生命二つです。
 
Q: 「テーラワーダ」では、植物人間は「生きている」と考えるのでしょうか
 
A:植物人間という概念は現代技術進歩が生み出したものです。テーラワーダ仏教にはそれほど関係ないかもしれません。初期仏教の立場から説明できないものでもないのです。以上述べた生命の定義に基づいて考察しましょう。
こころが何かの物体を媒介して刺激を受けているならば正真証明の生命です。生きているのです。見る、聞く、話す、考えるなどのこころの一部の機能がなくても生きていることには変わりありません。(と思います)。ミミズも微生物も考えたり話したりしないが外の世界を自分の意志で認識して、自分の意志で生きているのです。
人間の場合は自力で生きていられないとき機械を使って強引に生かして上げるのです。いわゆる他人が他人の意志で強引に死なせないのです。
基本的にはいかなる生命でも、自分の力で、自分の意志で生きるべきだと思います。
身体を持つ生命は他人の力、協力がなければ絶対生きていられないという事実があります。しかし、こころが自力で刺激を受けるべきです。
 
技術進歩のジレンマ(dilemma)
なにか新しい技術を開発したならばそれを使わないで人が死ぬまで待つ訳にはいけませんね。人に使用するために開発する技術です。風邪に効く薬を開発したら、それを風邪を引いた人には上げないと決めたらどうなることでしょう。ですから呼吸困難に陥ったら機械に入れる。摂食できなくなったら管を入れる。
将来性がある人に機械を使うが、あとは長くない人には使わないと決められません。決めるべき瞬間で患者二人もチャンと生きていますから。だれの後が短いかもわかりません。ですから医者は勝手に死ぬまで何でもやるのです。結果として完全他力に依存して死ぬことも出来なくて、その自由もなくなってしまうこともよくあることですがそれは医者が知ったことではありません。親戚に患者を死なしてくれと頼むことも権利のない話です。殺生の罪にもなってしまうのです。
技術進歩の恩恵を散々受けながら、「技術さえなければ良かったのに」とも言えないのです。人生はどうがんばっても苦で始まり、苦で生きて苦で終わるという仏陀が説く真理は変わらないのです。
 
老化の問題、痴呆の問題などについて
人間は道徳を実践するべきです。「私さえよければいい」と言う悪魔的な生き方は当然良くないのです。
人はだれでも老いるのだから、先輩たちに親切に接することは当たり前です。もしそれは「嫌」と思う人がいれば精神異常者です。
とにかく人が自然に死ぬまで親切に、慈しみで、感謝の気持ちで面倒みることが正しいのです。
「生きることはいかに無意味で、無念で、苦の続きであるのか」と観察しながら看病をすると智慧が発達して看病する人を解脱へ導かれますからこの上無い有り難いことです。寝たきりには生産力がないから「何で生きているの?」と思うこと自体があまりにも間違いです。元気な人々も何かを本当に生産しているのでしょうか。生産したからといってどうにかなるのでしょうか。ほとんどおもちゃ遊びではないでしょうか。
 
痴呆の人々のことを親切にしてあげて忍耐と慈しみを育て見ましょう。
我々も痴呆にならないように冥想でもして智慧の開発しましょう。
貪瞋痴が全ての問題を作り出しますので貪瞋痴をなくすほうへ努力いたしましょう。
 
人の生きることの価値について云々と考えるのはおかしいです。自分に生きる価値があると錯覚してそうするのです。生きるも死ぬのも、そのそのこころの自由意志で起こる出来事です。(この自由意志も結局は無知ですが)。我々はただ、ひたすら、一緒に生きている仲間の面倒を死ぬまで見て上げる。他人の生に対して余計な口も思考も手も出してはいけないと思います。(いのちの尊厳という訳もわからないことばを使いたくはないが、働きとしてみると同じことです。)
姥捨思考も自己利巧主義で恐ろしいです。苦労しながらでも、損をしながらでも人生の先輩の方々の最後を平安で過ごせるようにしてあげることは道徳です。
 
三宝のご加護がありますように。
Sumanasara

 
→疑問質問のページへ

(11)植物人間2:アニミズムと仏教/自由意志と無知/神の存在(2001.7月)
 ご多忙の中、早速ご回答下さった事に感謝します。
 進歩した医療環境の中でどのように死を迎えるか、どこに治療の終結点を設定するか、は現代人にとって切実な課題です。確かに「植物状態」「安楽死・尊厳死」は現代医療技術の進歩が生み出した今日的問題ですが、初期経典が教える仏教の死生観には時代を超越した普遍的真理があり、この問題を考える手がかりを与えてくれるものと信じて質問した次第です。以下、長老のご教示について私のよく理解できない点と思うところを記してみたいと思います。補足説明して頂ければ、幸甚に存じます。
 まず先の質問で「植物状態」と「脳死」との違いについて、私の認識に曖昧な点があったので、訂正させて下さい。「植物状態」は大脳が死んで脳幹・脊髄の機能は残存している病態を指し、「脳死」(「全脳死」と脳幹だけが死んだ「脳幹死」で、死の判定基準とされる)とは区別される。人間としてあるべき高次機能(欲求の発現・情動反応・自発運動・言語活動)は失われているが、呼吸・血液循環・消化・排泄などの植物性機能は認められ、非常に乏しいものの、外界の刺激に対する防御反応があり、自己修復機能が働きます。

●こころ(外界を認識する働き)が身体という物体を媒介して刺激を受けているならば、生命である。従ってこころの機能の高次・低次に関わらず、植物人間も「生きている」とみなす事ができる。
★こころが外界を認識する働きだと定義する「机と私」の例えは、生命があるかないかの区別を説明する点で疑問があります。そこでは「地球の物質でできているという点で同じ机と私の違いは、机は自分も回りも認識しない事である」と述べられています。一方「見る、聞く、話す、考えるなどのこころの一部の機能がなくても生きている事には変わりない」とも述べられています。確かに机には自己修復という生きる機能はないように観察されますし、泣いたり笑ったりしたという話も聞いた事がありません。だからといって、机に外界を認識する働きが全くなく、意思がないとどうしていえるのでしょうか?机に話し掛けても人間なんかとはコミュニケーションしたくないから金輪際答えないだけかもしれません。私がこんな馬鹿馬鹿しい屁理屈をこねるのは、日本人の思考にアニミズム(有霊観)の影響があるせいで、生命の有無についての区別が曖昧なのではないか。外界を認識する働きが認められない脳死体でも、生命維持装置をつないで心臓が動いている内は死亡を認めなかったり、移植用の臓器提供を嫌悪するのではないかと思ったからです。

アニミズムと仏教
A:
ぬいぐるみもお人形も生きていると思う立場からは真理を語れません。
日本人がアニミズムだから事実をそれに合わせて下さいというのも良くないでしょう。世界的な偉大なる力を昔からもっているカトリック教会のために「地球を再び平らにしてもらうことはカトリック教会も望みません。 気持ちはわかりますが、日本人の感情だから机にも霊魂、魂があると普遍的な真理として認めなさいと言われても困ります。
 
私は「私]という実感を土台にしてお釈迦さま仰るmateriality and mentality(純粋物質とこころの働き)を区別して理解していただくために「机と私」の例を申し上げたのです。机が机なりのアイデンティティをもって生きているかないかは私はわかりません。「私」の認識手段の範囲で机が私とコミュニケーションしない。故に私がどのように調べても机が生きていないという結論になるのです。
 
私の認識手段(means of knowledge)と軽く言いましたが実際は生命が持っている認識方法を意味します。ですから全ての人間に机が生きているとは言えないというassumptionに論理的に達することができると思います。
 
そちらには「机が生きている」と示す証拠が何一つもありません。百パーセントの証拠がないかも知れませんが、私には状況証拠は無数にあります。ですから限りなく百に近いのです。(百ではありません。)ゼロ対一でも一のほうが有効です。
 
(仏陀によると)真理を知りたいと願う者は、以下の感情で理性を揺るがせてはいけません。
  1. (chanda)好み、好き嫌いなど
  2. (dosa)怒り、嫌という感情、「仲間の意見ではありません、敵の意見です」、などです。
  3. (bhaya)脅威感、恐怖感−相手が怖いから意見をねじ曲げること。
  4. 無智
   です。芯が強くなければ真理には縁がないということです。
 
アニミズム:
古から色々と形を変えながら世の中に存在する現象の一つです。日本の場合は気に入っているものに魂はあると思いますがあまり気に入らないもの、またかわいくないものに対して霊的な力があると思っていないようです。また善悪感も、幸不幸感も、ものに物体についているようです。
現代では子供たちを迷信に、不幸に走らせるために漫画の世界でよく使われている概念です。
 
紀元前5−6世紀あたりで、インドの宗教界でも特定のアニミズムが発展したのです。それは万物に同一の霊、魂が宿っているということです。Upanishad哲学の主な思想です。「真我一如、一切は一、梵我一如」云々のことばで今でも信じている概念です。Sanskrit語でtat tvam asi; etad mama; などの言葉で表現しています。
 インドのJaina教でもすべての物質に魂があると硬く信じています。
殺生を恐れてjaina行者がホコリ(塵)は少々あるところにも座らないのです。身体を洗うことも、歯を磨くことも禁止です。
これらの思考は私によると、アニミズムの哲学化です。「思考(妄想)可能なものは全て事実だ、証拠は要らない」という立場ではないかと私が思います。故に[哲学もどき]です。
 
全ての西洋文化の中にもアニミズムが見出せます。
アニミズムを信じたい人は信じればいいのです。
仏陀の立場は違います。善悪、幸福不幸、云々はこころの働きであって物質の特色ではないのです。しかし仏教徒のなかにもある程度でアニミズムが存在することも知っています。
 
私が言います。
「机に魂がない、霊魂がない、意識がない、外界を認識しない」 と。
反論者がこのように述べます。
「それは机があなたとコンタクトを取らないから言っているのであって「ない」ということにならない」 と。
 
私が言います。:コンタクトは全くもない。皆無です。
ですから生きているかないかは断言できないのは確かです。認識主体である私は自分の物体の中にある認識機能を区別理解する上で対照して見ると
  1.私にも机にも共通するもの
  2.私にはあるが机にはないもの
 と言う二つが成り立ちます。
 
自由意志と無知
Q: ★
老化・痴呆の問題等についての段で「自由意志も結局は無知」「いのちの尊厳というわけもわからないことば」と述べられている箇所があるのですが、長老は「自由意志」や「生命の尊厳」という概念を怪しいと考えておられるのでしょうか。実は医療福祉の世界では、これらの概念は介護の理念を支える重要なキーワードとして金科玉条の如く、かつ無批判に用いられているのです。介護保険制度施行以後「恩恵の福祉(措置)から権利の福祉へ」と意識改革が唱えられました。介護サービス利用者(老人)は天賦の「自己決定権」に基づき、サービス提供者と契約して個人の「自由意思」によって自らの余生の過ごし方を選択する事ができるとされた。またターミナルケア(終末期医療)の現場においては、末期患者のQuality of Life(QOL:生命の質)を重要視する観点から、生物学的延命至上主義よりも「人格の尊厳」を維持した上での安らかな死の方に価値を置き、Living Will(患者が生きている内に自己決定した、末期になった時に法的に発動する遺言)を前提としたDeath with Dignity(尊厳死)を容認する方向にあります。この思潮は一神教を背景にした西欧個人主義的人間観に基づいたものらしいので、個人主義と自分中心主義の分別もない日本社会に無批判に輸入するのは如何なものか。そもそも私たち自身が貪瞋痴の支配下にある事に無自覚なまま、自らを省みることなく無条件に「自由意思」「自己決定権」などと概念を振り回せば、エゴイズムに堕するだけではないか、と私は疑問を抱いています。

 
コメント:
前半:
自由意志も結局は無知です。私たち初期仏教を語る人々は自由意志は「智慧、悟り、解脱、涅槃」だと思っていません。輪廻転生している衆生の自由意志は無知です。無明です。(失礼なことをいっていろのではないのです。殺人を犯す人の自由意志は善だと我々はいわないのです。)貪瞋痴でありながら、「人の自由意志は無知です」と認めたくならない気持ちは(あるならばの話)無知もいいところです。
 
いのちの尊厳:
我々は論理的に、合理的に、具体的に、客観的に、普遍的にものごとを観察して、「人はどのようにして生きていれば良いのでしょうか」という倫理の問題を解いています。
−−衆生が幸福でありますように。互いに罵り合ったり、軽視したりしないように−− などです。衆生と言えばall inclusiveであって一つの生命でもexclusiveではないのです。いわゆる文字通りの 「全て」 です。
 
結論は、「仏教は命の尊厳を語っています。」ということになります。
この立場から大変深く研究、勉強をなさって命の尊厳を語っている質問者の話は曖昧で、訳もわからないことになってしまいます。
魚を殺して食べると魚には生きる権利がなくて食べる者にのみ生きる権利があるのです。戦争するときは敵には生きる権利がないのです。
この世の中で言われている「命の尊厳」は比較的、対照的なものです。何かの命に何かの命を比較して一つには尊厳なし、もう一つには尊厳ありということです。
 いのちとは何なのかと具体的な普遍的な定義もないのです。あるときは一部の人間だけに価値があったのです。時代が変わると他の人間にも何かの儀式によって命の価値を得ることが出来るということになったのです。
又時代を経ると人間には普遍的に命の価値を与えられたのです。また現代になってくると動物にもそのときの気持ちによって価値がある、また無いということになっているのです。その時、その時の感情でしゃべっているのではないかとも思わずにいられないのです。
 
現代は全てを決める、定める神様が「金(カネ)」です。少々品のある言葉を使いましょう。「何かを決める時、そのことをもたらす経済的効果は重大なポイントになります。」Death with dignityは恵まれた方々の特権です。ほどんどの人々にあるのはchance to die early です。QOLについて語る必要もないのです。AIDSを抑える薬はありますがアフリカの人々にそれを使う権利がないのです。何人かの開発者の権利は(理由はどうであれ)多数の人々の命より重いのです。(徐々に変わるだろうとは思いますが)
私の意見をこのようにまとめます。
尊厳云々という方々は「命」定義をもってない。曖昧です。命の価値は対照的に決めています。(a relative value for life).仏教の立場は以下の通りです。
  1. 命の価値は全ての生命に平等です。生きる権利は一切の生命に平等にあります。
  2. 一つ一つの生命は個ですので生命は等しいではないのです。
  3. 生きるという行為自体は「苦」の回転です。故に、生命が必死で生きようとしても何の特別な意味もないのです。「無意味」と言うことです。
  4. この生きるという悪循環を乗り越えようとするならばその生き方は有義です。
     以上。
後半:
異論はありません。老人に対するケアは嫌で、でもやらなくてはいけないので、納得するために理由探し?このような態度にならないように気をつけたほうが良いと思います。死ぬまで生きるために協力してあげることは道徳です。仏教はゴチャゴチャ考えないのです。ゴチャゴチャ考えることは偽善です。


神の存在
Q: 神の存在について

帰国を控えてご多用の長老に、無知丸出しの質問メールを度々送り付ける事をお許し下さい。今をおいていつ疑問を解決する機会があるのかとの思いが強いため、非礼を顧みず質問する次第です。
 先日福祉先進国<Xウェーデン在住の福祉関係者と、介護の理念を支える北欧文化の宗教的背景について話し合う機会があり、その席で北欧のキリスト教(プロテスタント)教義と私が聞きかじったテーラワーダの教えとの比較論議になりました。私が彼をやりこめるつもりで、長老の受け売りで「唯一絶対神がこの世界を創造したのなら、そもそもその神を創ったのは誰ですか?」と問い質したところ、彼に「では輪廻転生のシステムを創ったのは誰なのか?」と問い返されました。私がうっかり「誰が創ったというものではなく、人間の時間概念では計れない昔≠ゥらあり、答えられない」と言うと、彼は「神もそれと同じで、誰が創ったというものではなく、人間の知り得ない初め≠ゥらあるもので、答えられない」と逆襲されてしまいました。その場は「そんな小事にこだわらず、倫理・道徳的に善いところを認め合って仲良く協力していけばいいのではないか」という結論に落ち着きました。私には彼の論理が正しいと思えるのですが、一神教に対する根本的疑義と信じていた「万物創造神は誰が創ったのか?」という問いは無効なのでしょうか。
 

解答:
絶対神を信じる専門家との対話が違います。私は普通の方々に言っている論理だけで彼らは納得いかないのです。あなたは簡単に他人の理屈に乗せられたのです。対話するときは意見は誰のものかとしっかりしておかないと「ただのアホどものおしゃべり」になります。
 
「創造しなくては存在はない」これは一神教教の立場です。仏教の立場ではないのです。最近創造論者も輪廻を信じることにしているのだから、この点では恐らく日本人より強いかも知れません。いかなる概念を出しても「創造しなくては存在しない論者」は「それを作ったのはだれですかと聞くのです。宇宙の生命のありようをどのように、証拠をだして説明しても「それは神様が作った」と返すのです。自分の教えの間違いがいくら出てきても彼らは行き続けるのです。…一つ以外は全てのものは創造したから存在するのです。…いたちごっこです。…神の存在を証明するための証拠は一つもありません。…という立場も彼らのおかげで永久的に生きているのです。
 
仏教の立場:
何一つも創造する必要はありません。諸因諸縁そろったら結果です。新幹線も飛行機も誰かが創造した訳ではありません。人間の思考、能力、物質などが物質の法則にしたがって集めた、揃っただけです。いまだかつて無かった新幹線がある日突然創造された訳ではありません。何かから何かが生まれるのです。創造というのは無、皆無状態から有を作ることです。一神教はこれほど明確ではないのです。かれらが絶対的「有」が無から現象的な有を作ったというのです。その時、絶対的「有」と「無」の関係が消えますが、彼らはこのことを無視するのです。これからはhair splitting philosphyになりますから止めます。
 
「輪廻は誰が作ったか」と伺った人も並みの「アホ」ではないと思います。その人は輪廻は「ある」、実体として存在すると勘違いしているのです。すべてが「ある」という立場でしか考えられないひとです。輪廻は独立して「ある」ものではなくあり方の説明です。方程式です。方程式はどこにも存在しません。故に、作る必要はないのです。
 
例:三角の面積を計算できますね。私は1/2*base*heightと覚えています。(日本語ではわかりません)それがだれかが作ったものではありません。どこにも存在しません。具体的な三角形があるときこの真理で、方程式で面積の計算するのみです。衆生の運命も輪廻の方程式で理解するのです。だれかが勝手に方程式を作っても三角形の面積の正しい計算できません。頭の良い一人があるものを発見しただけです。三角形の面積を計算する方程式をだれが作ったのですかとその人に聞けばよかったのに。
 
例2:無常はどこにありますか。どこにもないのですが普遍的な真理です。ここにリンゴがあります。このリンゴが無常です。いかなる現象でも(神でも)あるならばそれは無常です。無常はあるもののあり方の方程式です。独立して存在しません。
 
Q: その場は「そんな小事にこだわらず、倫理・道徳的に善いところを認め合って仲良く協力していけばいいのではないか」という結論に落ち着きました。
 
その通りです。仏教徒は無駄話をしないで時間を有意義に使います。得られる物を得て互いに理解して仲良く終われば良いのです。反論と言うのは一方的に攻撃されたときのみするものです。とにかく、車の運転免許をもっているからといって飛行機操縦をしないほうが安全です。
以上
スマナサーラ

→疑問質問のページへ

  ご回答、ありがとうございました。「老人ケアは嫌な事だが、やらねばならないので、納得するための理由探しに陥らないように」とのご忠告に感謝します。私は初期仏教の哲学が正しく、私の知る限りの他の宗教・哲学と比較して最も明解で納得できるものだと考え、選び取ります。従って全ての生命に平等に生きる権利があり、慈しみの心を持って接するべきだという道徳を支持します。それにケチをつけるために、ゴチャゴチャと偽善的に(うわべを飾って、心や行いが正しいように見せかけること)、為にする異論を唱えているつもりはないのですが。
●私が植物人間の生命の価値について質問した動機は、敢えて人倫の根源を明らかにしておきたいと感じた事にあります。若い世代から「なぜ人を殺してはいけないのか」「命はなぜ大切なのか」という世間を挑発する問いが発せられて、親世代が上手く答えられなかったという事が、一時マスコミで話題になりました。この事に表されるように、普通に平和な秩序に支えられて生きている大多数の人にとって、 道徳は基本的な共同体のルールであるにも拘らず、その倫理規範の根拠について問い詰めて考える事は自らの生き様を真摯に検証するエネルギーを要する作業であるため、 私たちは日々の暮らしのスピードに流される内に、その手続きをいつの間にか棚上げにして済ませてしまっていたようです。 無批判的に当たり前と思われていた人倫が世代交代する間に上手く語り継がれなかったためにその意義が曖昧になり 、崩壊の危機に瀕した今、その根源を改めて問い直される状況 にあるのではないでしょうか。

A:●●●
突然世の中のことに興味を抱いた事が幸いでございます。以上お語りになっている全てのポイントに対して初めからも、皆の批判を受けながら語ってきたつもりですが、皆様方の耳にもやがて届くことを祈願いたします。今、同じ話のreplayをしたくないのです。
 
私の話に納得が行かないかも知れません。それは単なる私の日本語能力の乏しさによるものでもないのです。単語の定義にも大きな原因があります。
 
 以下私の辞書の一部を書きます。
道徳は基本的な共同体のルールである : これは「井戸の中の蛙の論」ともいいます。道徳を否定する人々の謳い文句です。 理由:共同体のルールである場合はその時その時、人々のご都合によって変えるものです。ですからある社会の人間が「人を殺して何故悪い?」と思っても非道徳ではないのです。道徳そのものです。
道徳に二つの側面があります。
1.Universal aspect. (Morality is natural law of living and no any living being can change the natural laws. Therefore morality is independent and unconditional)
普遍的な側面:生命の基本的な法則で変えることは不可能です。道徳の有効性は独立しています。 例:殺すなかれ、怒るなかれなどです。(生きることは生命の目的ですから殺すことは逆方向への行為になります。)
2.Social aspect. (A society sets rules and conditions for the members of that particular society aiming the benefit and progress of that particular society. Therefore other people are not bound to adhere to these rules and conditions. On the other hand that particular society can change their rules as they wish. Therefore the morality of the second type is dependant and conditional.)
社会的側面:社会がその社会の繁栄のために決める道徳です。別社会がそれを守る必要がないし、道徳を作った社会にもそれを適宜に変えることもできます。
例:仏教の出家社会では皆に性行為を禁止しています。他の人々がそれを守るべき義務がないのは当たり前です。
 
私たちは日々の暮らしのスピードに流される : 先進国々だと自称している人々の悲しい泣き声です。目隠しをしたサルの尾っぽに布を巻いて油に浸けて火を付ける。それからお尻を強く叩く。この場合のサルの生き方を人間がするときこの言葉を使います。本人にとってはすばらしい生き方ですが、後進国々人々にとっては面白い出来事です。(巻き込まれるアホもいますが)
 
無批判的に当たり前と思われていた人倫が : 単なる嘘つきです。昔からも人は道徳を理解もしなかったし、認めてもいなかったのです。隙を見つけて犯してきたのです。その歴史的事実を観察しようとしないで感情的にうそをついているのです。昔の人々は腰抜けで、「地獄に落ちるぞぉ」、「閻魔さんに舌を抜かれるぞぉ」、「罰が当るぞぉ」などを信じて悪いと思われることを犯すのは恐れ怯えたのです。腰抜けではなかった人々は正々堂々と人殺しもその他の悪事も犯してきたのです。子孫である現代人は「地獄に落ちるぞ」などの考えを笑い飛ばすのです。しかし昔の人と負けないぐらい 道徳的です。現代人はたいしたもんだなぁと思う。
 
世代交代する間に上手く語り継がれなかったためにその意義が曖昧になり : 語り継がれなかったのは確かです。意義は昔からも曖昧でした。いまさらではないのです。
 
その根源を改めて問い直される状況 : 忘れ去った過ちに戻そうとする思考です。火遊びをして焼傷した人に再び火遊びを推薦することみたいのです。
 
私の辞書を開けてみるとかなり隔たりがあることがお分かりになるでしょうか。


Q:
●私が「机と私」の例について抱いた疑問は「アニミズムを否定する(無生物と生物を截然と区別する)根拠はあるのか」という事でした。「観察の結果、机は心を持っていないように見える(心を持っている証拠が一つもない)から無生物である」と結論を出すのではなく、「初めから机は無生物であると先入観を持って観察したせいで、心を持っていないように見える」おそれもあるのではないかと思ったのです。それに対するご回答の主旨は「アニミズム否定説(机は無生物であると断定する)の確証はないが、否定説の方が状況証拠が多い分有効である」だと受け取りました。理解不足の点があれば、ご指摘下さい。

A:●●●
学術的な社会の普通のモラルに従って自分の結論を発表する方法です。知識人は「はっきりと否定している」と理解するのです。

Q:★ご回答の内「私の認識手段(means of knowledge)と軽く言いましたが実際は生命が持っている認識方法を意味します。ですから全ての人間に机が生きているとは言えないというassumptionに論理的に達することができると思います。」 の所が良く分かりません。「私の認識手段」イコール「生命が持っている認識方法」とは言えないのではないでしょうか。私が持っていない認識手段、たとえば霊感やテレパシーと言う認識方法を持っていて、木や石などの無生物とコンタクトした(アニミズム)と称する人々がいるようですから。


A:●●●

あなたにEpistemologyの講義をするつもりは毛頭ないのです。自分で勉強して見てください。初期仏教のEpistemologyについてProf. K.N. Jayatilleke, Theory of knowledge in early Buddhism という本があります。それに勝るテキストは恐らくないと思います。また日本語で各宗派の認識論について研究した本も沢山ありますが今思い出せるのは水野弘元教授の『認識論』と言う本です。西洋の思想の場合はいくらでも調べられるでしょう。
 
石とコンタクトした人々がEinsteinよりも、Jesus様よりも、仏陀よりも信頼できて智慧があるとするならばその言葉を信じるしかないのです。私は個人的に反対ですが信じたい人は信じてください。その霊能力を持っている天子たちが自分の奥さんと、又子供とチャンとこころを通じているか調べて私にも報告してください。
仏教は「人がこういう、ああいう、あなたはいかがですか」と尋ねるとお相手をしないのです。本人の意見ではないから何を言っても無駄でしょうし、本人には関係ないでしょうし、ただの無駄話に、噂話になることで終わってしまうのです。
高度な教育を受けている、インテリの方々がよくなさることですが私たちにとっては付いて行けないのです。
スマナサーラ 

HOME「ブッダの智慧で答えます」(Q&A) →(10) 植物人間1:生の定義(2001.6月)
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.