「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から
(13) 先祖供養について/協会活動と金銭(2001.7月)
先祖供養について
Q:古来、日本では仏壇を設え、位牌や戒名などをお寺さんからいただき、供物をおそなえし、仏壇の前で、読経供養(大乗経典など)をさせていただき、ご先祖さまの成仏を願うとともに、子孫である私たちの無病息災、あるいは事業の成功をお願い(お祈り)させていただくのですが、テーラワーダでは、このような先祖供養(行為)についてどのようにお考えでしょうか?(例えばまったく意味がないとか)
よろしくお願いいたします。

※長老からの回答を戴くまでに、HP管理人が返信〜再質問、又、返信と数往復がありました。流れがわかるように、その返信も入れるようにとのご指示を受けて、編集してみました。(管理人)

 質問に答えて。  管理人(笛)
 ○○ ○○様
 私は、日本の古くからある仏教寺院の中の、一つの地方寺院で住職をしているものです。
 一口に日本の寺とか、日本の先祖供養といっても、宗派により、地方により、寺々により、住職の性格により本尊仏から、供える物から、位牌から、飾りつけから、着るものから、読むものから、法事の仕方から、他所へ行ったら役に立たないほど違うものです。同じ宗旨の同じ宗派の同じ地方の寺同士でないと通用しないこともあります。その寺だけのやり方も有るほどです。
 だれも、自分のやり方こそ正しくて、貴方のやり方は違いますよなどとは言いません。
 テーラワーダの国々でもそれぞれの国にそれぞれの文化、それぞれの習慣、その一つの国にもまた、その地方により、寺ごとの伝統により、随分違っているもので、それぞれの違いはお互いに尊重して、神の祭りごととか仏祀りとかも文化としてお互いに認め合って、協力するところは適当に協力して祭り事や供養をしたり、仲良くやればよいと思います。各国の色々な仏教やその他の宗教がそれぞれの寺や教会を建てて、結構仲良くお付き合いをしておられるようです。まあ、それぞれの意味を持って古くから伝わっている行為ならば、お互いに大らかな受取り方で尊重し合えば良いのではないでしょうか。
 テーラワーダ仏教で、お釈迦さまの元々の教えを学ぶという話ならば、伝統や、信仰や、感情などは置いておいて、冷静に客観的に、現存するお釈迦さまの言葉のパーリ経典を基にして実践し護り伝えてこられた実物見本の長老方により教わることができれば、一番間違いの無い方法だと思います。
 あちらこちらに、いろいろ有ります。管理人のオススメはどこでしょう。
 お気軽にごゆっくりHPをお読みいただけたら嬉しく存じます。
 来訪有難うございました。
 

Q:回答ありがとうございます。私の言葉がたりなかったようです。
公では差し障りがあるかも知れませんので個人的に伺います。
1つめは、テーラワーダでは先祖供養をしているのかと言うことです。
2つめは、大乗経典は直接お釈迦様が説かれたものでは無い(精神においては釈尊の教えが当然はいっていると思われますが)ので、それを読経供養して意味があるのでしょうか?と言う疑問があります。
 
率直なご意見をお願いします。宜しくお願い致します。
○○ ○○

○○ ○○様
メールを有難うございました。

 
 
> 一つめはテーラワーダでは先祖供養をしているのかと言うことです。
 
 書いたようにその人その人が思い浮かべている「先祖供養」という言葉の意味がみな違うのですね。
 お聞きになりたいことは、だいたい日本のように葬式をして、決められた年回法事をしていますかということだとは思うのですが、そこには霊魂とか先祖代々を祀るという日本の文化でものを考えているのですから、違う文化の国々で、そこのものの考え方からの亡き父母や祖父母、我が子などに対する供養の気持の表し方、そこの宗教のやり方などは、想像もできないものだと一応思ってから、想像した方が良いと思います。
 そこで、テーラワーダの国々もたくさんあって随分性格も違いますが、私の聞いたホンの一部分では日本と同じような先祖供養はしていません。しかし形としての先祖供養よりも、供養になる??お釈迦さまの説かれた教えによる生き方をしているのかも知れません。
 
 
> 2つめは大乗経典は直接お釈迦様が説かれたものでは無い(精神においては釈尊の教えが当然はいっていると思われますが)ので、それを読経供養して意味があるのでしょうか?と言う疑問があります。  
 
 お釈迦様が直接説かれた初期仏典を読んでいるからといって、こころが育たないならば何の意味も無いかも知れません。お釈迦様が説かれたものでなくてもそれが真理であって、それによって心が清らかになるものであれば、意味は在り過ぎです。
経典という「もの」の何か目に見えないような力などを想像してしまうと話がずれると思います。供養というのが、欲のために為されるものならば、お釈迦さまの教えは欲を捨てる教えですから、意味の有る無しもその立場によって正反対ですね。
 ややこしい言い方をしてしまいました。日本の先祖供養のような形の供養をしたいというならば、日本のお寺のお坊さんにしてもらって、テーラワーダ仏教では死者の供養でなく、自分の今生きている生き方、心を清らかに育てることを学ぶということでどうでしょうか。
 長老は7月1日までお留守です。  
できれば、冥想会、講演会などに参加なさってみてください。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
管理人

Q:ご丁寧に回答有り難うございました。
またまた私の言葉がたりなかったようです。  
 
、お釈迦様は先祖供養についてどのようにおっしゃっているのでしょうか?
(なにかしら経典で先祖供養についてふれている箇所があれば教えていただきたいのですが)  
 
、実は私は毎日読経供養(法華経)しているのですが、先ほども申しましたが、大乗経典は釈尊が直接説いたものでは無いと言う事を知ってから、何だかバカバカしくなってあまり読経供養する気になれません。先生がおっしゃる通り、それが誰が説いたものであっても真理であるならばよい事は頭では解かっているつもりですが、騙されていたような気持ちが拭いきれないような、何か釈然としません。  
 
以上あまりまとまりませんが、もし宜しければご返信のほど宜しくお願いいたします。

満足な答えが出来なくてご免なさい。  
 
>1、お釈迦様は先祖供養についてどのようにおっしゃっているのでしょうか?
>
>(なにかしら経典で先祖供養についてふれている箇所があれば教えていただき
> たいのですが)
 
 
これは、長老が帰られて時間が有れば回答していただくほか有りません。
 私の私見では輪廻転生するということは、亡くなってすぐに他の生命として生まれ変ることです。
 解脱はもう生まれ変る輪廻から逃れて、死んだきり二度と生まれ変らない状態。
 先祖の霊魂のようなものがどこか知ることのできないあの世というところに溜まっていることを前提としてそれを供養するという話は、お釈迦さまが教えられた元のお経にあるとは思われません。
 仏教以外の多くの宗教、ヒンドゥー教などのような、霊魂不滅の教義では先祖供養は当然大事なものでしょうと思います。日本の仏教は色々な教義が一杯有るのですね。一つの文化でしょうか。
 それはともかく、亡き父母や先祖の恩を忘れずに慈しみの心遣い、感謝の思いで、それぞれの形で追善の行動をして、全ての生きとし生けるものが幸せでありますようにと願うならば、その行為は善行為でしょうし、輪廻があっても無くても、霊魂があっても無くても、人間のするべき善い行為だと思います。  
 
>2、実は私は毎日読経供養(法華経)しているのですが、先ほども申しましたが、
> 大乗経典は釈尊が直接説いたものでは無いと言う事を知ってから、何だか
> バカバカしくなってあまり読経供養する気になれません。
> それが誰が説いたものであっても真理であるならば
> よい事は頭では解かっているつもりですが、騙されていたような気持ち
> が拭いきれないような、何か釈然としません。  
 
 折角二度と戻らない時間を潰してお経を唱えるなら、唱えて自分の心が落着き、教えられ、清まるものを選んで自由に自分の責任でしてみてはどうでしょう。人に勧めたりはしませんが、私の場合は寺でのお勤めはパーリ語の経典をここ数年読んでおります。木魚などの鳴らしものは滅多に使う機会がありません。
 まあ、関係者や周りの迷惑に成らないところで目立たないようにやれば良いのではないかと思っております。怒りの想いで社会や人の所為にするより、軽く楽しく、善いと、うなずけることをどんどん実行してみて上手く行かなかったらまた替えればよいと思います。  
 

生きとし生けるものが幸せでありますように。
管理人(笛)

Q:返信遅れてごめんなさい。ご回答ありがとうございました。
少し理解できたように思います。
回答にもありましたが。是非、長老のご意見を伺って欲しいと
希望いたします。
また、お伺いさせていただきたいと思っております。
今後とも、よろしくお願いします。
ありがとうございました。
○○○○

スマナサーラ長老より。  
 
A:全ての人間は死者を敬うことを昔から行ってきたと思います。仏教徒も(自分たちも人間の仲間だと思っているから)死者を弔うために何かメモリアル式を行うのです。  
 
■社会の習慣と仏教
仏陀の教えを勉強して見ると社会に逆らうことは認めてないように思われます。基本的には平和な教えです。人々と調和を保つことが大事です。 ですから人々の弔う式に反対する必要が全くないのです。
 客観的に調べようとも観察しようともしないで、無批判的に何でも認めることだけはしないのです。他宗教に対しても批判をして間違いを示しはしたが非難、誹謗中傷、軽視することはしなかったのです。皆と仲良くしたのです。
 仏教または仏陀を誹謗中傷されたときに限って二度と言えないように反論したことは事実ですが、それらのエピソードを誤解して仏陀は排他的でしたというならば、それは間違いです。社会の日常的な習慣ついても何でも認めたわけではなく、意味のあるものだけ認めたのです。  
 
以下のような習慣は否定したのです。
 社会の差別感を認める、
 人々が搾取される、
 脅しがかかる、
 生命に害を与える、
 理性を失う、
 迷信を養う、
 経済的なダメージを与える、
 和合を壊す、
 罪を犯すものです。  
 
 社会の和合を保つ、
 平等観を強める、
 善を行う、
 理性を発展させる、
 精神的な落ち着きをもたらす  
 
 (以上のような)仕来り、習慣を認めたのです。
 良いと思われた習慣は他宗教のものであっても改良して仏教にも取り入れたのです。  
 
■例:
 カースト制度に基づいた習慣は厳しく批判したのです。アンタッチャブル(不可触)の人々に出家を認めて、「人は平等で誰でも悟れますよ」と社会に訴えたのです。
 昔からヒンドゥー教でバラモン達は三つの聖なる火を作って一生大事に守って「護摩供養」する習慣があったのです。お釈迦様にとっては火に薪を入れる修行は無意味でした。ですから、両親、家族と行者達が聖なる火だと仰って、それらを大事にしなさいとある習慣を直そうとしたのです。
 Jaina教では行者達が雨季になったら一箇所に留まって修行をするのです。これは良いことだから比丘たちにも雨季安居(あんご)をするようにと命令したのです。
 宗教儀式に動物を生贄にすることを止めさせたのです。
 朝沐浴をして身を清める習慣について、[身体ではなくこころを洗え]と説いたのです。  
 
 葬式と供養の場合は反対しなかったのです。
 恩を知ることは仏教におけるとても大事な道徳の一つです。葬式供養などは今までお世話になっていた方々に対して恩、感謝を表すことになります。特に[親が亡くなったら供養しなさい」と説かれています。それで仏教には仏教的な先祖供養がなければいけなかったのです。仏教の供養は仏陀の教えにしたがって簡単に行うものです。  
 
 「善因善果、悪因悪果」と日本で簡単に理解している業論があります。
 功徳を積んだ人が幸福になり、悪を積んだ人が不幸になります。業は行為ではなく行為を行うこころの意志です。(気持ち?)ですから自分で良いことをしなくても他人が行った良いことについて賛成することも、認めることも、共に喜ぶこともできるのです。それは自分の意志です。ですから自分の功徳です。
 ですから、業の(功徳)転送できるということになります。仏教用語は回向です。ものを分けたら減りますが気持ちを分かち合うことで減るのではなく増えるのです。ですから功徳を回向すると受ける側にも功徳になります。回向した側にも功徳がさらに増えます。仏教とは人の死に関係なく毎日親しい人々に、神々に、先祖に、また全ての生命に回向するのです。
 先祖供養に対しても業のこの法則を使用するのです。亡くなった方のためにと思ってお布施をしたり、修行したり、また他の良いことをしたりするのです。それでその功徳を先祖に回向するのです。「この功徳は私の先祖に回向します。先祖が幸福でありますように。」と、三回唱えるのです。それで終わりです。  
 
■葬式儀礼と仏教
 これについてHPの管理人の解答は完全だと思います。参考にして頂きたいのです。
 葬式儀礼は人間が勝手に考えて作っているものです。国によっても、時代によっても違います。日本でも昔の葬式の習慣と今の習慣はかなり変わっています。儀礼に深い意味があれば変わるわけにはいけません。でも人間の都合によって変えてしまうのです。豊かな人は有名な人は葬式を派手に行ったり、力がない人は葬式を出来るだけ地味にしたりするのです。どのような葬式か供養かということは行う人々の気持ち次第です。それによって死者の成仏?は左右されないのです。
 仏教徒の先祖供養は回向ですから、それと同時に葬式儀礼に関しては自分が属している社会、宗教、お寺などの習慣にしたがって「遺体の処理」をして皆に挨拶すればよいのです。全てがうまく行きます。テーラワーダ国々では回向は皆同じですが、葬式儀礼は国によって甚だしく違います。
 が、無意味なこと、無駄なこと、余計なことを止める権利は仏教徒にいつでもあります。
 
 
■読経は?
 読経に経典を選ぶポイントは、大乗かテーラワーダかではないのです。一時的ですが、こころの貪瞋痴が消えて不貪不瞋不痴の気持ちが現れてくる文書を読み上げれば自分のこころが清らかになって功徳を積むことになります。その中でも仏陀の言葉を意味を理解しながら読み上げることは最高だと我々の立場から言えるのです。(慈悲の冥想の文書を皆で読み上げれば修行したことの功徳が積めます。)  
 
 仏教の読経の意味が二つ考えられます。
 <1>内容を理解すること :こころがこの行為によって清らかになっていくので修行の一部にもなります。様々な冥想方法の中で読経も(法随念)一つです。
 <2>後の時代になって、呪術的な力が言葉にあると信じるようになったから、声を出して経典上げることに呪術的効能が期待されます。もともとは魔術、呪術が仏教的ではなかったのです。仏陀に否定されたものです。時代を経ると(密教の時代)言葉に魔力があると信じていた原始思考に遡ったかもしれません。でも、プライド高い仏教徒はヒンドゥー教を受け継ぐのではなく、仏典に魔力があると思ったのです。結果として「密教的な思想」も仏教で発展してヒンドゥー教にも世界にも貢献するようになったのです。
 
 葬式で供養儀式で<1>を取るか <2>をとるかによってアプローチが変わるのです。
 
 
 <1>の場合: 読経は死者に聞けないことが確かですので、自分のこころが清らかになること、自分が功徳を積むことを考える。後で、死者にその功徳を回向する。その場合は読経する人が経典を決めた方が効果的です。真理を語る文書であるならば仏典でも、自作文でもかまいません。
 <2>の場合: 魔力のことをよく知る呪術師が読経文を決めるでしょう。我々に勝手に決めることが出来ないのです。葬式供養の場合特別な経典を上げなくては「ほとけさまに成仏できない、供養にならない」と思うならば魔術を信じる <2>に入ります。  
 
■葬式、供養儀礼などについてのテーラワーダ仏教的な規則:

  1. 人が自分が行った業によって輪廻転生します。ですから、自分の死後のことは供養に頼らず自分で考えるべきです。
  2. たとえ良い人であろうとも心が瞬時に変わるものです。臨終の時こころが暗くなる可能性もあります。したがって死後の将来は心配になります。ですから亡くなる皆のために回向儀式を行うのです。
  3. 親戚が回向しても先祖側には受ける気持ちがない場合は功徳は上げる側のみです。
  4. 亡くなる全ての人間に回向の功徳を受けることも又出来ない。功徳の回向を受けられないところにも生まれ変わるのです。
  5. 人間の、親戚の回向の力によって幸福になるしか他の方法がない生まれもあるのです。そこに生まれ変わる命は親戚の回向を期待します。(Paradatta upajiiviiという名の餓鬼道の一部として経典に記しています。)
  6. 身近な親戚のために回向の供養をしてもその狙った親戚に受け入れられない可能性は大いにあります。が、回向の供養は無駄な法事にはなりません。
  7. 無始なる過去から輪廻転生して来る我々には無数の(無限の)親戚が回向受けられる次元にいます。その生命が供養を受けて幸福になります。
  8. 親戚が二種類です。〔1〕今生の親戚。(先祖)〔2〕自分個人の輪廻の中で一緒になった親戚。
    〔1〕先祖の場合は親しみは過去に戻れば戻るほど薄れていきます。ですから過去どこまででも先祖が供養を受けると言うことはないのです。何代までかは決められません。
    〔2〕輪廻の親戚というのは過去生での自分の父母、伴侶、子供、兄弟などです。親しみが深いので誰でも、過去はいくら遠くても回向の供養を受けやすいのです。
  9. 習慣的には皆〔1〕今生の親戚に供養しますが、〔2〕輪廻の親戚にも一緒に供養するべきです。
  10. 回向の供養は特別な儀礼ではなく日常の習慣にするべきものです。回向をする度に自分のこころも清らかになります。結果として幸福になるのです。
■Ceremony/祭りについて
---ceremony/festival/ritual/practice/等に学術用語として使用します---
 人間には冠婚葬祭などの祭りが沢山あります。葬式も一つの祭りです。祭りは人間が好みで、その時その時の思想に基づいて創作するものです。祭りとこころの法則との関係がとても薄い。供養の場合も決め手は祭りの仕方ではなくこころのあり方です。
 ですから、「この経典読まなければ」、「この日でこの時間で行わなければ」、「この場所でなければ」、「この服を着飾っていなければ」供養にならないと思う必要はないのです。これぐらいで、質問者の全ての疑問点に答えを見つかるとありがたいのです。
以上
Sumanasara

協会活動と金銭
Q:
恐れながらお尋ねいたします。テーラワーダ仏教協会では、瞑想会、講演会、勉強会等で、料金を徴収していますが、スッタニパータの「蛇の章」の田を耕すバーラドバージャのところで、詩を唱えて得たものを私は食うてはならぬと言っていますが、協会のやりかたは、これにそわないと思われますが?見当違いの質問でしたらご容赦ください。
宜しくお願いいたします。

●協会の運営は、ほとんど自分の仕事を持つ人々が自分の時間を、力を、金銭を、このような教えが一人でも多くの方々に拡がると良いなと言う願いで、お布施をして続けられているのですが、本でも会場でも事務所でも無料で出来るものは一つとして無いので、料金を戴く方法を取っているのだと思います。色々な意見もあります。今後も変わり続けていくと思いますが、何とか日本にこの初期仏教が定着して平安の教えが理解されるようになるまで、協会が続けられると良いが……という願いで仏弟子会のメンバーは努力していると思います。(以下略)管理人(笛)  
 
以下、スマナサーラ長老より。  
 
 この問題について管理人さんの返事が十分だと思います。協会という組織が会費を頂いていると言うことで、出家比丘が仏陀の教えに逆らっているという結論にはいたらないのです。
 Bharadvajaバラモンが「仕事をしないあなたに布施をしたくない」と、きつい言葉でお釈迦さまを罵ったのです。お釈迦様も「あなたより遥かに優れている仕事をしているのだ」という立場で真理の道を弁解なさったのです。  
 
「私が勝ったのだからご飯をくれ」と言えるほどお釈迦様も仏教も仏弟子たちも惨めではないのです。  
 
 仏教は「歌って、踊って食べ物を貰ってお腹を満たす」哲学ではないのです。 当時のインドの心清らかな、経済的にも豊かな人々がお釈迦様にお布施をしたい、面倒をみてあげたいと思っていたから、互いに競争までしたのです。  
 
「一匙のご飯にケチをつけたならその人のご飯を受け取らない」。経典に似ているケースまたあります。  
 
 私も他の比丘たちも食うために説法しているのではないのです。
 三宝を信仰している信徒たちの清らかな布施のお陰で生きているのです。
  「説法をしたから、指導をしたから」という一言葉を言って私個人にも誰かがものを上げようとしても絶対受け取らないのです。もしも置いて帰ったならばそのものを捨てます。  
 
 協会の運営にお金が掛かります。印刷にもお金が掛かります。光熱費も掛かります。郵便局も無料で郵送してくれないのです。それは日本国の(だけではないのですが)問題です。自分たちにかかる費用も私に払えと言われても恐らく無理でしょう。
 協会は料金を徴収しているのは現代社会で全て有料だからです。比丘たちがお金払わないと説法しないからではないのです。協会の仏弟子たちが法を売って生計立てている訳でもないのです。
 財布をやりくりしながら、楽な生活をぎりぎりまで削りながら、協会の活動のためにお布施をなさる方々に深く深く感謝を致します。三宝の祝福がありますようにと誓願をいたします。  
 
布施を出来る人にも、出来ない人にも平等な慈しみで説法しますので、遠慮なく聞いて下さい。
Sumanasara

 先祖供養についての長老の回答ありがとうございました。先祖供養は、人間として善い行いであることが理解できました。細かい感情などにはあまりとらわれないで供養していきたいと思います。仏壇の前で慈悲の瞑想をさせていただいています。
 後、お金のことですが今のシステムでは、この教えが広まるのには多少、問題があると危惧するものであります。と申しますのは例えば1ヶ月1万円の小遣いしかない場合いそれが障害となって瞑想会などに参加できない場合いもでてくると思われます。私、個人としては、釈尊の本当の教えが広まって欲しいと願うものであります。
 願わくは長者さまの様な人が会員となって、早くシステムが改善され、一人でも多くの人が、テーラワーダの法縁に触れて欲しいと思います。その内に、協会の門を叩いてみたいと思います。
 ありがとうございました。  

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