「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から
(21) 「不幸の原因がこころというのは、為政者に贈るエールですか?」(2001.10
Q:巻頭法話76 を読んで質問です。
不幸の原因は他人のせいではなく、大抵は自分の心の問題です。
と書かれてありますが、これはある意味、為政者(会社の上司・社長)にとって都合がいいのではありませんか?景気が悪く、社員の給与が上げられない。人を減らして残った者にしわ寄せをさせるのに、表面だけ謝って、最終的に「不幸に思うのはあなた自身のせいですよ」で通してしまう。えん罪的宗教裁判で「それはあなたの前世の行いがいけないのだ」と言って都合の言い判決にする。
たしかに、その為政者は来世か現世でも報いを受けるかも知れませんが、方便として通ってしまう気がするのですが?

A:不幸か幸福かはその人のこころが決めるのです。溢れるほど金があっても不幸な人もいます。
貧乏なのに幸せでいる人もいるのではないでしょうか。幸不幸は金で、財産で、地位で、権力で、家族親族などで決めるものではないと思います。
これらさえあれば幸せではないかと人が思っているかもしれませんが、だからといって真理だと言い切れません。
それらすべてがこころに喜びを感じさせる道具に過ぎないのです。腕が上がってない職人が、いくら立派な道具を揃えておいても意味がないのです。能力のある職人が道具に文句を言わず揃っているもので素晴らしい仕事するのです。ですから幸せになりたいと思う人が自分のこころを育てた方が良いということになるのではないでしょうか。
 
 この言葉が悪政治家、独裁者、搾取、賄賂、不正、脅し、脅迫などを認めましょうと言う意味にならないと思います。
 
このような人は遅かれ早かれ自分の行為に対する相応しい報いを受けるということはただの信仰、迷信ではないのです。
悪政治家、搾取者達が悪いことをしているとき、泣き寝入りしてそれを黙って認めて不幸になるのであるならばその被害者のこころが弱い、暗いということにもなります。

悪政治家たちの被害者、搾取の被害者たちが何かをして不正を正して幸せになれば如何でしょうか。それらは社会問題、政治問題、経済問題です。社会的な問題に社会レベルの解決方法見つかるのです。
政治的な問題に政治レベルの答えが必要です。政治家が悪いから皆、坐禅でもしよう、荒行でもしよう、と言っているのではないのです。しかし、社会的な問題に答えがあっても実行できない場合も多々あります。テローを根絶すれば我々の豊かな生き方を保たれるとアメリカが思っているがこれはなかなか大変でそう簡単にはいかないと思います。
 
 旱魃、地震、洪水、竜巻き、山火事などで親しい人々、すべての財産が消失する場合もあります。それらには抵抗することができません。
「それでも泣き寝入りはダメですよう」と言いたいのです。
 
 暗いこころで落ち込んでしまえば、一生悲しみに陥って生活することになったならば何の得があるのでしょうか。
不幸が増すだけです。
 
怪我一つすればそれを治すのであって、その怪我を癌になるまで発達させるのではないのです。
怪我ではなく足一本無くなったならばもう一本の足も切断してもらうべきだと思わないのです。
無くなったものは戻らないので、偽足でがんばるしかないのです。
 だから、幸福か、不孝かは自分のこころ次第、アプローチしだい、対応のしかた次第ということになるのです。
 
 肝腎なのは私たちは、生きると言うトラブルばかりしかないこの海をどのように渡れば良いかと言うことです。
  生きている上では願いが叶うより叶わない場合が多い。
  楽しみよりは苦しみが多い。ついていると言えることよりついてないと言える場合が多い。
  数々の夢が叶うよりも夢で終わる場合が多い。
  どのように踏ん張っても年をとる。
  病気にもなる。
  必ず死ぬ。
誰かに文句言ったからといってこの問題は解決しますか。
「あなたのせいで私が病気になった」と言って問題は解決しません。
 
確かに誰かのせいで病気になってしまっても、治療を受けるべきなのは自分であってその加害者ではありません。
生きることは終わりのないチャレンジです。工夫次第で、巧みなアプローチで何が起きても乗り越えられます。
 
 幸不幸は外の世界にあるものではありません。外から得るものでもありません。
こころで感じる喜びです。こころで感じる充実感です。こころの安らぎです。こころの平和です。
もしも人のこころが限りのない欲望で燃えているならばこころの平和がありますか。
怒りで、憎しみで病んでいるこころに平安がありますか。
降っても晴れても文句を言う性格の人にこころから笑えますか。
 
 「お金さえあれば幸せになる」などを言う人が幸福を否定しています。脅しでも、銀行強盗でもして金を取ったら幸福なるということになります。幸福はすべての人の権利です。
金や権力などは違います。金持ちになりたい人もなりたくない人もいる。
権力を欲しがる愚か者も権力を嫌う人もいる。
残酷な行為をしてでもこれらを得ることもできる。
 
ですから、こころの安らぎ、充実感が幸福だと仏陀が語るのです。
それは皆が希望するもので、無智さえ破れば皆に得ることができるものです。
 
後書き:
 日々怯えて、不安で、ごまかし・からくりすることで精一杯で生きている為政者たちは幸福ですか?
悪政治家たちが胸を張ってリーダシップを取っていますか。
国民に愛されて尊敬されていますか。
皆自分の悪行為の結果日々苦しんで、悩んでいると思います。
ごまかし、インチキ、詐欺だけの生き方自体が苦ではないでしょうか。
彼等の日頃の苦しみは序の口です。悪がばれたら?
 
人の服装見て、家を見て「幸せだ」と決めつけるのは早すぎです。
 繰り返して言います。「幸不幸」はこころ次第です。
 
以上
Sumanasara

Q:
さっそくお答えありがとうございます。
 
> ですから、こころの安らぎ、充実感が幸福だと仏陀が語るのです。
> それは皆が希望するもので、「アホ」でないかぎり皆に得ることができるものです。

 
愚問だと思いますが、この「アホ」と言う表現が、御著作や仏典に出てくる「愚か者」にダブって見えてしまいます。そうだとすると、我々のほとんどが「愚か者」なので、今のところ幸せになれないと言うことでしょうか?
 皆に得る可能性はあれども、皆がまだ「アホ」=「愚か者」なので、道のりが遠いと言うことでしょうか?

A:
 
仏典でよく出てくる「おろかもの」の換わり言葉として「アホ」と言う言葉をユーモアを混ぜるために使いました。「愚痴、無知、愚か者、愚者」などのことばも仏典を翻訳する時、使っていますが、実際の会話では堅すぎではないのでしょうか。
 
> そうだとすると、我々のほとんどが「愚か者」なので、今のところ幸せになれないと言うことでしょうか?
 
 違います。「苦しむなかれ、早く幸せになれ、やってみろ」という意味でお釈迦様が語ったのではないでしょうか。こどもに「馬鹿ではないか」と叱るとき「馬鹿なことをやって欲しくない」と言う意味だと私は思いますが。加えて申し上げますが、「愚か者」と言う仏教用語は差別語でも、他を貶すために、侮辱するために使うことばでもないのです。大事な概念です。このことばでこころの普通の状態を表しています。人に向かって「あなたは人間だなぁ」と言うことと同じです。当たり前ですが、何か変。もう一つ言いたいつもりでしょうという気がするのです。
 
人に愚か者だと仰ってから、お釈迦様が幸福の道を教えるのです。
 
> 皆に得る可能性はあれども、皆がまだ「アホ」=「愚か者」なので、道のりが遠いと言うことでしょうか?
 
「アホでないかぎり」と書いた私のことばが間違っていました。それを注意してくれて本当にありがとうございます。これからことばに気をつけるように努力いたします。確かに私の書き方では誰も幸せにならないと言ったことになりますね。お詫びを申し上げます。
 
★(管理人注)この部分は訂正をしていただきました。

Q: こんなに早くお返事ありがとうございます。仏教に関しては独学の門外漢なので、とんちんかんな質問もあるかも知れませんが、お許しください。

掲示板に戴くご質問により、役に立つお話が聞けますので、このような形でコーナーに追加させて戴いております。(管理人)

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