「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から
(24) 「執着と慈悲心」(2001.11月)
Q: 職場の知り合いの女性が子宮癌に罹り、私は家族と見舞いに行ったり、電話で励ますよりほかにしようがありません。
慈悲の瞑想も、いままでさぼり気味でしたが、朝と寝る前に必ず行うことを日課にし出しました。
しかし、彼女の病状や、仮に一定の障害は残っても回復したのちの生活の心配などをしているうちに、私に執着心が出てきてしまったように思います。慈悲の瞑想で「私の親しい人々」として彼女の姿を思い浮かべ、(病状が良くなりますように、とか、心の悩みや体の痛みを克服できますように)と祈っているのですが、街で健康であったり幸福そうな女性を見かけると、当該女性の今後の予想される心身の障害や経済的困窮を想起し、心が沈みます。また、他人に癌であること知られることを極端に嫌がっているのですが、私の不注意が原因で一定範囲の女性職員に知られるところともなっていますので、軽いのりで「ペチャクチャ」他人の噂話を大口を開けて行っていたり、数人の中年女性が車座になって噂話をしている姿を見ると幻滅します。
ふと気付くと私の目の前にその女性がおらず、最近は、病状や治療の副作用・心理的疲労ゆえにか、又は思考の幅が「自分と子」のみに狭窄し、癌である事実を漏洩した"前科者"である私に対する警戒心のいずれからか、極く希になってきた電話での会話でも、ヒステリックな言葉を投げつけられることが多くなってきています。
ここに至り、私も、朝晩の慈悲の瞑想とは逆に、心が体に及ぼす好悪の各影響から、彼女の回復はないのではないかと加虐的な思考をしたりすることもあります。
また、私自身の体調も少しあやしく、半日人間ドックで検査をします。仕事は手間暇とアイデアを多く要求されることに力が入りません。
困っている人と同一状態に入ってしまったかのようです。
そこで、広島県の医者がホームページを開いていましたので、自分の立場が分からなくなったと相談してみました。患者から少し距離を置きなさいとの回答が1〜2週間後位にくるかと思っていたところ、質問の翌朝次の回答がきました。
 
「ガンは自分で治すものですので、本人の心の持ち方次第だと思います。医療スタッフや家族、親友は、それを支える立ち場です。病気のことは、本人のプライバシーですので、第三者には伝わりません。本人にとって、あなたがどのような立ち場にあるかによって、かかわりかたは違ってくると思います。マルセ太郎は言いました。「愛とは、相手のことをもっと知りたいということだ」と。あなたの気持ち次第だと思います。」
「色々な立ち場での思いがあるわけですが、分類すると三つの立ち場が考えられます。まず本人の立ち場、次に家族や身内の立ち場、それから第三者の立ち場だと思います。これを人称で表わしますと、一人称の立ち場、二人称の立ち場、三人称の立ち場と云うことになると思います。私たち医療者は、できれば二人称の立ち場に近い気持ちで、患者さんや家族の人と接するように心掛けていますが、中には三人称に近い気持ちの人もいます。柳田邦男さんは「2.5人称の視点での医療」という言い方をされています。色々な立ち場があると思います。ではまたいつでもメイルを下さい。」と。
 
大変含蓄のある言葉に思え、回答の早さを見ても親切なお医者様だと感謝していますが、単純に彼女からサヨナラすれば楽になると考えていた私には恥じ入るばかりです。特に文中引用されているマルセ太郎(5年の闘病生活の後肝臓癌で死亡したパントマイム俳優)は言いました。「愛とは、相手のことをもっと知りたいということだ」と
「2・5人称」「あなたの気持ち次第です」は難解です。マルセ太郎の言う愛=慈悲の意味でしょうが、しかし、私がその女性に対する執着心を持っていて、病気以後それを顕在化させたまま、慈悲の瞑想の際に、その女性を頭に浮かべながら行ってることがいけないのではないかと考え出した次第です。その女性は全国的に有名な病院で高度な医療を受けてはいるのですが、私としては、その女性に何か役に立つことしたい、出来れば慈悲心を育てながら、かつ執着しない心を持ちたいのです(鈴木一生氏の著書の中で、ミャンマーのマハシセンターで慈悲の瞑想の訓練を受けた際に、執着心のある人に対しては祈ってはいけないと担当セヤドーより言い渡されるくだりがありましたが、やはり上記のとおり当該女性を慈悲の瞑想の対象とはしないほうが良いのでしょうか。)ご教示下さい。

A: どれほど説明してあげても解っていただけないのは「慈悲」のこころです。
私が冥想会などで慈悲について語らなかった日が無いほどです。
「またかいなぁ」という気持ちで聴いていると話す気持ちさえも…
「つまらなくしてはいけません」と言う自己戒めにより消えていきます。
 
もし人が慈悲の実践によって精神的に悩むことに、ストレスが溜まることに、他人に嫌になるような結果になるならば、「本当に慈悲か」と疑問が生じます。心理学的に絶対あり得ないことです。
 
 慈悲は無執着のこころです。見返りを求めないこころです。
どちらかというと、過去から今まで無数の生命のお陰で生きてきたことに恩返しのようなものです。
借りのお返しです。自分の業という借金の返済です。
汚れたこころで慈悲のことばをオウム返ししても、悪くはないのですが、又余計な期待をするのはいかがなものでしょうかと私が考えます。
 
 慈しみを実践する人が相手は叱っても実践をする。相手に殴られても実践をする。相手に敵扱いされても実践をする。口を利いてくれなくても実践をする。相手に知られないように実践をする。自分の性格の汚さ、未熟さを正す目的で実践をする。怒る、叱る、嫌に思われる相手に対してより感謝を込めて実践をする。
 
 何かを期待すると言うことは「精神的な修行まで商売」ということでしょうか。商売をする、得をする、儲かる、勝ち取る、などの思考から例え瞬間でも脱出できない人々のことを私にとっては「憐れむ」しかないのでしょうか。
死ぬ時でも医者に「治療代をまけてくれませんか」と頼むつもりでいてはならないではないでしょうか。
 
 気持ちだけでもよいのですから、何かを他のために見返りを期待せずにしてあげてはいかがでしょうか。
 
 慈悲は知恵を刺激する、知恵を開発してくれる冥想です。
そう簡単にできるとも思えないのです。
自分のわがまま、執着、期待感、
「何でアイツに慈悲をしなくてはいけないの?」と思う怒り、
慈悲をしているのだから皆私に親切にするはずなのに結果は逆ではないかと思う欲望、
「あの人は可愛い、色々とお世話になった、一緒にいて楽しかった、などの訳、理由などをつけて何かをする」ケチ(物惜しみ)感と戦ってやらなくてはならないのです。
これはある面で人格者の生き方です。ある面で厳しい修行です。人生観の次元を破ることです。
(人間には己の利益しか見えない。人が己しか可愛いものは存在しない。己のためにならないと何もしない。この人生観を破るのです。自も他も単なる妄想概念で苦しか作らない思考だと理解するのです。)
 
 本物の慈悲の実践者に、他人の体の状態もある程度和らげてあげる能力があるのですが、必ず腐る、壊れる肉体に余計な、あり得ない期待をしないのです。
でも確実にこころを清らかにしてあげること、明るくしてあげること、悩めないようにしてあげることはできます。万が一相手が病気でいた場合は、「自分のこころが明るく、活発になったのでこころの治癒力が働きだすこともあります。しかし体の壊れた状態が大きくて、治癒力が間に合わないケースもあります。突然思い出した「慈悲の思考で世界制覇しようと思っても「早過ぎ」ではないかとも思います。
 
 誰かに特別な感情を持ってなさる慈悲は慈悲ではなくて「欲」です。
自分の子供、伴侶を対処にして実践する場合も「本物に慈悲」となりにくいのです。(かなりの腕前のプロ-でない限り)「欲の」冥想するとそれなりの結果がでます。
ストレスが溜まる。感情的になる。落ちつきが消える。眠れなくなる。イライラする。体調が悪くなる。他に嫌われる。高慢になる。理性がなくなる。罪になる。などがその結果です。
慈悲の結果はそれらの逆です。
 
 慈悲の実践から悪い結果も出ると思うより、「時々太陽が西からも昇りますよ。」と思ったほうがマシです。法則違反です。(このポイントの説明は仏教心理学の難しいところですので、遠慮します。)
 
 なにかアドヴァイスっぽいものも書きたいのですが、広島県の先生方みたいに、納得いけるように、素晴らしいことを書けないのです。私が仏教の事以外何も知らない無知なものですので、(仏教も知っているつもりになる恐れもありますが)知識的なことは言えません。
 とりあえず、誰かを狙い定めて「慈悲みたい」なものを実践することを止めて欲しいのです。あまりにもケチです。人に箸で取れるぐらい食事あげるより、上げないほうが良いのです。それぐらいでも「ご飯ではないか」と言えるのですが、貰う相手を侮辱したような気もします。恐らく喜んでくれません。相手の役にも立ちません。悪い印象を買ってしまいます。
 
 本物の慈悲を実践して見たいとお思いになるならば、「生きとし生けるものが幸せでありますように」というセットだけやって見てください。
 
どうしても親しい人にも実践したいと思うならば、両親、恩師、目上の人々(お爺さま、お婆さまなど)、先輩などを対象にして下さい。一人、二人だけでは足らないのです。一人か二人ぐらいを狙ってイメージしてやるとあなたは精神的に苦しむことになりかねません。慈悲が欲に転回する恐れもあります。(親しい人は両親だけだとするならばかまいません。両親に冥想して問題が起こりません。−−でもあまりにも淋しいですね。−−)
例え両親でも他界しているならばやらないで下さい。止めて下さい。禁止しています。死んだ人を慈悲の冥想の対処にしないのです。そちらにも厳密な訳があります。
 仏陀の冥想も薬と同じです。使用法を間違えないように。疑問があったら専門家に聞くこと。
 
 失礼な態度でお返事を書いたことに申し訳がございます。
こころのことは遊びではありません。仕事よりも何よりも真剣に考えるべきです。建前の言葉は単なる気休めだけです。
とにかく、慈悲を実践したいという気持ちでおられるならば以上の指導を参考にして下さい。
三宝のご加護がありますように。
 
Sumanasara

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