「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から
(36) 釈尊は自殺を容認された?(2002.2月)
Q: 古い経典のなかに、釈尊が自殺を容認された、というような内容が記されたものがあるのでしょうか?
聞いた話ですが、テーラガーターか何かの中に、ある弟子が自分はもう教義を充分理解したので涅槃に入りたいと言い、釈尊がこれを容認された(あるいは引き止めなかった)というくだりがある、とのことです。
もしあるとしても、対機説法の加減で全否定されなかったことが曲解されて伝わったのか、とも思えるのですが、ご教示下さい。

A:人から人へと無数の人々の間で流れた噂話のように、最後に聞いた人と最初に言った人の間にはびっくりするほど隔たりが生まれるのです。ですから「この話もここまで変わるのか」と驚くほど変わっているような気がします。
 
 テーラガーター(阿羅漢たちの言葉)にもテーリーガーター(悟った尼さんたちのことば)にも聖者たちがいかに悟りを開くことで安らぎを味わっているのだと偈(詩)で述べているのです。
大体最終悟りを開いた聖者たちは自分の寿命を良く知っているのです。心と体の管理を完璧にできるのです。
ですから、自己で死ぬ、殺される、ポックリ死ぬなどは起りえないものです。自分に対するすべての行動は気づいた上で起るものです。解脱するために説かれた「気づき」という修行の完成者たちです。現代風に言えば無意識的に何も起らないということです。
 
 それで、悟りを開いた聖者たちが寿命が来たら、「そろそろ、亡くなる時にもなりました」と明確に知っているのです。それで、本師釈迦尊に会って、最後の挨拶するのです。
 
 このような感じだと思います。
「尊師、私ももう寿命です。あと二日、三日ぐらいでしょう。涅槃に入らせていただきます。仏陀に出会ったことで、悟りを開く無限の苦しみから脱出することが出来ました。感謝いたします。」
 
お釈迦さまも、「あなたは、偉大なる方です。修行の完成者です。知恵がある人は正しく自己を戒めて平安を体験することでしょう。」のようなことばで聖者の挨拶を受けるのです。そしてその聖者が自分が住むところに戻り最後の息を止めるのです。
 
私は昔の出来事を少々(かなり?)現代的に変えたみたのです。テキストをお読みになれば、昔の表現で読めることでしょう。
 
このような挨拶して別れることは、「自殺の容認」にはなりません。
それこそが、この世でだれにも出来ない素晴らしい生き方です。
我々はいつ死ぬかは全くわかりません。「死にたくはない、絶対死ぬはずがない」と言う気持ちで生きているのです。自然に死が訪れると、「まあ、びっくり、恐怖、怯え、忌み嫌い、逃げようとする、悩む、悲しむ、不安になる、…」
私達俗人が素晴らしいと思っている死に対する恐怖感が聖者にはないのです。
 
オリンピックで選手が金メダルを獲得したとしましょう。その瞬間から楽しいのです。最高の目的に達しているのです。それで、式典がありまして、皆の前で国歌を奏でて、国旗を揚げてその人の首にあの金メダルを掛けるのです。それは金メダルを郵送で贈ってもらうよりは美しいと思います。
 
お釈迦様の弟子達が輪廻と言う無限の苦しみと戦って勝ち抜いたのです。
生きると言う競争で悟りという勝利を(金メダル)獲得したのです。ですから弟子の努力と成功を讃える仏陀の言葉は「弟子の首に金メダルをかけてあげる」ことなのです。仏弟子たるだれでも羨ましがることです。これは自殺容認だと普通は解釈しないのです。
 
 今まで、悟った人は一人も自殺したことはないのです。
なんとでもして一日だけでも寿命を延ばして欲しいという、あまりにも愚かな希望もないのは当然なことです。
 寿命になったら、「では皆様、さようなら、皆様もしっかり修行をがんばりなさい」という挨拶のことです。
これは俗世間では想像もできないことなので記録してあるのです。
悟った人は自殺するほど無知でもありませんし、早死にもなりませんし、一日でも寿命を延ばそうともしない。ただそれだけです。
 
自殺は悟ってない凡夫の行為です。悩み、苦しみ、絶望、失望の結果です。負け犬の行為です。
 
しかし、仏陀の弟子も自殺したことがありました。
「悟れないと、知恵がないと」絶望感で覆われたのです。
かみそりで首を切って息が止まるまで修行をがんばってみたのです。結局は悟ってから最後の息を引いたのです。(それでメダルを獲得でしょう。)
 
 人間も命を懸けてくだらんことに頑張るのです。北極圏を歩いて渡るとか、酸素ボンベなしにヒマラヤに登るとか、いろいろあるでしょう。そのような人々が目的に達することが出来なくても皆英雄として褒め称えるのです。
 
Godhikaという仏弟子が首を切っても、力を絞って最後の瞬間までも頑張ってみたのです。成功したのです。それで、お釈迦様が、「Godhikaが成功しました。彼の跡は誰にも解らない」と讃えたのです。これも自殺の容認ではないのです。
原典から観ると説明は以上のとうりです。
 
★ 無知な人は長生きしても罪を犯す人生なので、たいしたことではありません。
★ 自殺しても人生の負け犬で、来世も不幸になることでしょう。
★ どのように踏ん張っても、天皇陛下もホームレスも死ぬのです。
★ ですから、生きている間は罪を犯さず、善を行いつつ生きているのかいないかは真剣に観察するべきです。
★ 生まれはどうであろうとも、死ぬときは無知で、怠け者で、悩みに苦しみに陥って死なないようにとチャレンジすることです。
★ 人の生も死も仏教にはそれほど尊大な問題ではありません。

ありがとうございます。
三宝のご加護がありますように。
Sumanasara

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