「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から
(48) サティの必要性・涅槃への疑問(2002.10月)
Q:
僕は釈尊の教えに立ち返るという原始仏教に興味を持っていますし、真摯な修行者に対する敬意も持っています。
しかし、そこには幾つかの疑問点があります。
 
先ず、サティですが、サティするには、ゴウンの中の、行(意志)を用いて、識へ自分を引き戻すことが必要ですよね。
意志をいつまでも働かせていたら、ゴウン皆空にはならないと思うのです。
つまり、解りやすく説明すると、サティとは観察することですでしょう、観察を繰り返していたら観察者であり続ける、すると観察する者と観察されるもの、という二元性から自由になれないのです。
 
ここから、サティというのは究極の技法では有り得ないと思うのです。
また、ここからサティに固執することはある意味で危険な行為であると。
勿論、サティの必要性は理解しています。しかし、それを究極の技法とみて何時までも繰り返すのはどうでしょうか?
 
次に、原始仏教では、涅槃へ至ること、解脱ですね、そればかりが強調されていて、そこへ至ることが唯一絶対の悟りである、というような説明がなされているように感じます。
 
僕はこれを自分なりにですが極めてみましたが、涅槃とは意識以前の虚無であって、そこへ一歩踏み込んだら、消滅なんですよ。その時の記憶すら残らない、だって誰も居ないんですからね、認識も起きない、だから、体験とも言えない訳です。
 
これは誰も望んでいる境地ではない、というのが今の僕の理解です。
 
ですから、もし、原始仏教の説くとおり、それだけが悟りであって、他はない、という考えに固執してしまえば、自分が望んでいないようなことを追い求める矛盾に苦しむ人も多く出るような気がします。
 
多くの人が、悟りということで、愛や幸福を求めているように僕は思います。
また、無我を悟ってハートが覚醒すればそれは可能です。涅槃に至る、ということは必要条件ではありません。
 
また、涅槃へ至るには、徹底的な苦諦が絶対的に必要です。
 
ここに一人でも、そのような苦諦に達した人が居るでしょうか?
居たら教えて下さい。


Q:

僕は釈尊の教えに立ち返るという原始仏教に興味を持っていますし、真摯な修行者に対する敬意も持っています。
しかし、そこには幾つかの疑問点があります。
先ず、サティですが、サティするには、ゴウンの中の、行(意志)を用いて、識へ自分を引き戻すことが必要ですよね。

A:
このような訳もわからないことはサティを実践する人はやりません。ものごとを客観的に見られるようになる訓練をしているのです。存在の一部を切り外して存在のほかの一部を見るような方法だと理解していらっしゃるようですが、「目を取り外して自分で自分を見るようなことはおそらく無理でしょう。また、下の文書で見えるように、サティ=意志だと思っていらっしゃるようですね。気づき=サティ;意志=チェータナーです。
仏教用語では、行の意味は複雑です。五蘊の中の行の場合は複数の心理的な様相が入っているのです。


意志をいつまでも働かせていたら、ゴウン皆空にはならないと思うのです。

「五蘊は皆空になれ」と誰が瞑想するのですか?それは、先入観です。「神の姿を見たい」、「不二を体験したい」、「梵我一如を体験したい」云々の概念を前提として何かを念じるとこころはその幻覚を作ってしまいます。ですから、「神の姿を見た」十人がいればその形が十種類になります。サティは残念ですが、一切の先入観を取り除く過程です。
もともと、空である五蘊は再び空になる必要はありません。問題は、空であるはずの五蘊をそのように見られない我々のこころの働きです。こころは情報を合成してから認識するのです。(用語を使えば、パパンチャと言います。)合成する以前、情報をありのままに観ることができれば、無常やら、苦やら、無我やら、空やら発見できるのです。
五蘊は空だと修行する以前設定して置くと、それは一般人の単なる思考、概念に過ぎないのです。真理を発見した人の知恵ではありません。その人は何らかの修行するとそのこころが以前イメージした「空」を体験させてくれることは大いにあり得る。ありのままの真理を知りたい人は最初から何もイメージを作らないで観察し続けるのです。
 
 人と言うものは概念、先入観、イメージなどの塊です。また、あらゆることを勉強したりして新たな概念、イメージなどを増やしていきます。ですから、一見単純すぎのように見える仏教のサティの実践は大変難しいだと思います。

つまり、解りやすく説明すると、サティとは観察することですでしょう、観察を繰り返していたら観察者であり続ける、すると観察する者と観察されるもの、という二元性から自由になれないのです。ここから、サティというのは究極の技法では有り得ないと思うのです。

サティの実践しないで、サティについて考える方々がよく疑問に思うところです。二元性やら一元性やらいろいろ形而上学的な概念が世にありますが、「だからどうした」ということです。何論でも、何概念でも人を束縛するのです。一切の概念、束縛、煩悩から脱出するために、これらの問題はどのように現れ、どのように消えるのかと観察する必要はあります。ものごとの因縁関係を知らないと何の解決もできません。
Vipassana のやりかたは「病気は何ですか、原因は何ですか」と見極めてその原因を取り除く方法です。それもまたグルの話にそのまま乗せられてしまうのではなく自分で発見するものです。
 
 ですから、矛盾になりますので、言いたくはないのですが、サティは究極の技法です。

また、ここからサティに固執することはある意味で危険な行為であると。

何にも執着しないよう。サティどころか悟ったなら法も捨てているのです。仏教は固執その物は危険だと言っている教えです。仕事が終わってない間は道具を大事にするでしょう。仕事が終わったら道具はいらなくなる。病気は完治しているのに、延々と治療しつつける人はいないと思うけどね。
 ですから、サティに固執するのでは?と心配するのはサティについて想像のみをする人ではないかと思います。


勿論、サティの必要性は理解しています。しかし、それを究極の技法とみて何時までも繰り返すのはどうでしょうか?

修行というものはサティから始まるのです。初心者がいくらか成長するとサティの実践仕方がさらに進むのです。もしも実践をはじめてそれなりに成長したならば、次にどうすれば良いかと先生に聞いてみることです。もし何の成長もない、あるいは実践しないで、サティについて思う存分妄想ばかりしているなら、誰に聞いても「繰り返しなさい」と言うでしょう。

次に、原始仏教では、涅槃へ至ること、解脱ですね、そればかりが強調されていて、そこへ至ることが唯一絶対の悟りである、というような説明がなされているように感じます。

 それはその通りですね。しかし涅槃こそが唯一の悟りと言うと問題があります。世には色々な瞑想方法がありましてそれらを実践するとそれなりの超越した経験を感じられる事実を否定することになります。涅槃というのは最終解脱でもう二度とやるべきことはない状態です。すべての煩悩の滅尽です。人間の言葉を用いるならば究極な幸福だと言える状態です。

僕はこれを自分なりにですが極めてみましたが、涅槃とは意識以前の虚無であって、そこへ一歩踏み込んだら、消滅なんですよ。その時の記憶すら残らない、だって誰も居ないんですからね、認識も起きない、だから、体験とも言えない訳です。
これは誰も望んでいる境地ではない、というのが今の僕の理解です。


涅槃を経験したことには敬意をはらいます。しかし、シャルマ仙人まだ不満をお持ちでいらっしゃるようですね。ということは、シャルマ仙人が体験した涅槃は釈尊に語られた涅槃と同一なものではないということですね。まだいっぱい煩悩があるようですね。特に、存在欲は激しいみたいですね。
煩悩はいっぺんに消えないものです。悟りを経験した人は瞬時に、自分に何が起きたか先ず観察する。それから、煩悩が消えたか否かを観察する、消えたならどの煩悩が消えたかと観察する、それから、どれぐらい煩悩がまだ残っているのかと観察する。さらに、勤めなくてはと思う。
 
 それから、悟りの第一のステージに到達した人はその瞬間に「これこそが究極の幸福である、これこそが皆探し求めている苦の脱出である」とわかるのです。しかし、自分の煩悩も完全に消えたわけではなくまだ幾つか残っていることも理解する。
 
 仏教のガイドラインに沿って修行するとこのような結果になります。決して修行は不満で終わらないのです。ですから、シャンカラ仙人の涅槃と初期仏教の涅槃は同語異義になります。
(Nirvanaはインドの普通の単語です。仏教だけ使う言葉でもないのです。ブッダ以後のヒンズー教もヨーガの中でやたらに使うことになったのです。ですから、言葉を聞いただけで同じものだと単純に決めつけるのは良くないのです。言葉は同じであってもcontentsは何ですかと調べないとね。)


ですから、もし、原始仏教の説くとおり、それだけが悟りであって、他はない、という考えに固執してしまえば、自分が望んでいないようなことを追い求める矛盾に苦しむ人も多く出るような気がします。

 固執と言う言葉がお好みようですね。悟りたくもない、苦を脱出したくない、煩悩から離れたくない、俗を乗り越えたくない、と言う気持ちがあるにもかかわらず、ただ自分が偉くなりたくて「悟りの道を教えてぇ」と初期仏教を訪ねる人は偽善者です。その人は「望んでもないのに悟ってしまった。どうしよう。」ということにはなりません。悟るどころか、悟りまがいの経験を得ることもできないのです。ですから、シャルマ仙人がおっしゃるような問題は決して起きません。
 
 強いて申し上げますが、涅槃と言う悟りの経験は妄想で理解できる世界ではないのです。厳密に科学的なプロセスです。やたらにやってみても、自分勝手な解釈に固執してやってもうまく行くはずがないと思います。
 
 また、仏教は他宗教の経験を無批判でことごとく否定している訳でもないのです。特に瞑想の場合は方法は何であろうがそれなりのこころの成長が現れる筈です。それは、仏教ではこころの統一レベル(サマーディ)として区別しているのです。初期段階のサマーディさえも汚れたこころには起きませんと強調するのです。サマーディの一つとして「何も無い-アキンチャナ」と言う経験のレベルもあります。そのときは主体も客体も無いのです。そう簡単には引き起こせる経験でもないし、まじめに瞑想をし続けなくてはならないのです。しかし、その人にさえ、存在欲が付いてきて不満な気持ちにさせるのです。
 
このサマーディ体験ある人は、欲、怒り、疑、後悔、昏沈睡眠などで悩みませんが、それから「修行は成功しました」と思って(慢)、怠って生活すると元に戻ってしまいます。何故なら、煩悩が消えた訳ではなく機能しなくなっただけです。原因が揃ったらまた現れてしまうのです。この状況はブッダの時代だけではなく、現在もよく観られます。ですから、修行によって「皆無」を体験しても存在欲と非存在欲がある限り煩悩を滅尽したことにはなりません。しかし、このような経験でさえも、誰にでもできるわけではありません。真剣真面目に修行する、知恵の素質ある人にはできることです。
 
 ですから、仏教は出世間レベル(supra mundane)(この場合はあらゆる存在に対する執着を乗り越えたと言う意味です。)のvipassanaを最終解脱の道として説くのです。ですから、vipassanaでは宗教、哲学、思考などの概念を足枷にしないで、客観的な観察をし続けて物事のありのままの状態を発見しようとするのです。解脱はその知恵から生まれる結果です。

 
多くの人が、悟りということで、愛や幸福を求めているように僕は思います。
 
そうだと、思います。
だからと言って、真理をねじ曲げて一般人の好みに合わせてセールやる必要もないのです。無知な人、欲に溺れている人は自分にとって幸福だと思っているものは、本当にその人にとって幸福ですか?子供は遊ぶことが最高に楽しい、勉強は嫌だ、と思っているのは当たり前の事実です。だから、「勉強を止めて一生遊びなさい」と言って良いわけでもないのです。
 
 仏教は教えを大衆の気持ちに、希望に合わせる興味はもっていません。だから、人気がないのもよく知っています。とにかく、ありのままの事実を語ります。理解しなかったからといって別に困ることもないのです。確実に理解する人はいます。実践した人々皆「やって良かった」と思っています。
 
 人気が欲しい人、弟子が欲しい人、認めて欲しいと思う人は大衆の機嫌に合わせて自分たちの教えを語るでしょう。
 

また、無我を悟ってハートが覚醒すればそれは可能です。涅槃に至る、ということは必要条件ではありません。
 
 シャルマ仙人が理解している涅槃に入る必要はないと、私も思います。仏教で説く涅槃に入る必要もありません。しかし、異論があります。愛や幸福を感じるために無我を悟らなくても結構だと思います。愛は生命に対する一種の感情です。愛情を目指す人には、反対に、無我を悟れないとも思います。
 
 皆、軽々く愛だの、loveだのと言いますが、本当に解っているのですか?愛は幸福だけではなく、悩み苦しみも作るのです。ですから、悩み苦しみの原因にならない愛を求めるべきです。そんなのはあるならば、「愛」と言う言葉が相応しくないのです。ブッダは、むちゃくちゃな、曖昧な「愛」のかわりに、慈悲喜捨と言う四種類の感情を育てることを勧めています。(慈は友情、悲は他の苦しみを無くしたくなる気持ち、喜は他の幸福を喜ぶ嫉妬の反対の感情、捨はすべての生命に対して平等心を持つこと)これらの四つも見返りを期待しないものです。見返りを期待すると俗世間売買と何のかわりもありません。それからその気持ちを無制限に無量に育ててみるのです。そのときも、自我を超越した幸福の経験を体験することができます。たとえ、成功しなくても幸福に満たした生き方を味わえます。

 
また、涅槃へ至るには、徹底的な苦諦が絶対的に必要です。
ここに一人でも、そのような苦諦に達した人が居るでしょうか?
居たら教えて下さい。

 
 先ず生きることは絶対的に幸福だと思っている正気の人がいるならば私に教えてください。
「苦諦に達する」− いい加減に言葉を使わないほうが宜しいと思います。苦を理解するものであって達するものではありません。生きることそのものが苦です。それは「地球が丸い」と言うような事実です。目だけで判断する人が大地は平らだと言っても、それは正しく観察してないからです。
そちらは、「苦」はもう一つの概念だと思っているようですね。ですから苦に達した人に会いたければ鏡の前にお立ちになったらいかがでしょうか?
会いたがるなら「苦を乗り越えた人」に会えるように努力しましょう。

Sumanasara
 

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