「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOME「ブッダの智慧で答えます」(Q&A) →(70) 智慧と慈悲  その他5件
釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から
(70)智慧と慈悲勧進聖は真の聖か?サティについて仏教の実践 説法の土台となる経典

Q. 智慧と慈悲。
 
悟ると智慧が自然と現れてくるそうですが、慈悲はどうなのでしょうか?
努力しないと現れないのでしょうか、それとも自然とあらわれるのでしょうか?
また戒律についてはどうでしょうか?
悟りを開くと戒律をまもろうとする努力はないのでしょうか?

A.悟りと智慧:
悟りが智慧だと理解したらいかがでしょうか。ありのままの真理を発見したことによって、こころが煩悩・束縛から解放されたならばそれは解脱だと申せましょう。別に単語なんかに拘らなくてもいいけど。

慈悲は:
自然に現れるものとは思えませんね。本来、皆がわがままでしょう。自我中心的でしょうね。自分のことばかりを気にして生きている。それはそれで構いませんが他人に迷惑をかける、害を与える、が、それはそれで良いと思っている。結果がヤバイと思う人は他人に迷惑をかけないでしょうが、それも自分の事をかわいがった上の行為です。
慈悲は新たに育てるものなのです。エゴイスト的な感情を慈悲で置き換えるのです。

戒律:
煩悩・こころの汚れを制御するための行為で、生きる上での規則なのです。俗世間的な立場で言うなら、道徳・倫理でしょうね。仏教は社会的な振る舞いよりも、己のこころが清らかになることをより大事にする。
悟りを開いた、解脱を体験したと言うならばこころの煩悩が消えている状態ですね。
その人にとっては、戒律の賞味期限が消えたのです。守ったからといって別にこころが成長することもない。しかしですね、こころはもともと清らかなので、道徳を破ることはありません。普通に生きているがそれは完全な道徳的な生き方なのです。
こころに煩悩・汚れがあるから普通の人の戒律・道徳は「完全無欠」ではありません。しかし、普通の人だからこそ道徳を守らなくてはならないのです。では、さようなら。


Q 勧進聖は真の聖か?
 精舎建立のためにお布施を集めようと思うのですが、自分の社会的立場を利用して相手から義理でお布施を引き出すことは善行為に当たるでしょうか?精舎に対するお布施はとても大きな功徳があるらしいですが、義理で出した場合、義理であることを差し引いてもそれなりに功徳があるのでしょうか。もしそうなら、つまり相手のためになるならば、少々押し付けがましくてもお布施を募ろうと思った次第です。ご教示を宜しくお願いします。

A.お布施を引き出すという概念を後回しにして考えましょう。善い事に人々の興味を引き起こしてもらうために自分の社会的な立場、影響力をつかうことは「悪い」ことになりません。
仏教伝道にお釈迦様の在家の時の社会立場が役に立ったこともあるし、人間平等論を語るときは自分は最高位の釈迦族であったことも役に立ちました。王様達が仏教徒になると、国民も遠慮なく、躊躇なく法をききました。社長は仏教徒で社員にも仏教を学ぶことを進めても悪にはならない。
しかし、強引はだめです。脅しはだめです。悪です。人は自由でなければいけません。判断は自由意志でなければいけません。今もこの協会で起きていることですが、「友達は友達に案内をする。仏教を進める。しかし、その友達は自分の意志で仏教を学んだり、止めたりもする。善い行いをするために、皆が参加していただくために個人の社会的立場、影響力を使用すること自体が決して「悪」ではありません。
良い品物を作っても宣伝しなくてはだれも知らない。宣伝して知らせても買うか買わないかは人の自由。強引に買わせることは違法行為。個人の影響力を使うことも「宣伝」と同じ機能です。


Q.サティについて
 想初心者です。こちらのHPや長老さまの本を拝見すると、サティということがよくでてきます。
「サティを入れる」という表現がよくでてきますが、意識的にするものなのでしょうか?また妄想とサティの違いはどうやってするのでしょう?
実は昔にTM冥想というものを習っているのでマントラを唱えるくせがなかなか抜けません。目を閉じるとマントラが出てくるので「妄想、妄想」と追っ払っています。


A.
   > 「サティを入れる」という表現がよくでてきますが、意識的にするものなのでしょうか?また妄想とサティの違いはどうやってするのでしょう?


 Satiとは気づきと言う意味です。Vipassana瞑想では「実況中継」するように言っているのはこの sati の実践なのです。
英語で言えば、awareness, mindfulnessです。「今の瞬間を知っていること」だとも言える。幻想・現象の世界で生きている我々は徐々に幻想も現象も破って「真理に達する」道の「歩み方」です。
論理的に説明すると、結構、複雑になるが、このシンプルなやり方で、智慧が開発するので自分自身で真理を発見できるようになるのです。(指導された通りにやれば問題なし)

   > 実は昔にTM冥想というものを習っているのでマントラを唱えるくせがなかなか抜けません。目を閉じるとマントラが出てくるので「妄想、妄想」と追っ払っています。

 何かを唱えると集中力が現れます。落ち着きます。しかし、「真理を理解する、発見する」ということになると??です。
マントラの代わりに普通な言葉で今の瞬間を実況してみてください。マントラを浮かんだら「妄想・妄想」と言えばよい。
皆、固く信仰しているが「マントラ」に神秘的な力なんかはありません。ただ、こころから雑念がなくなるので色々効き目はあるのみです。


Q:  仏教の実践
仏典を覚えることは、仏教の実践の一部として考えることができますか?それとも覚えるだけでは実践とはいえないのでしょうか?
また、生活の中で仏典の内容と関連することがあったとき、その仏典を思い出すことは、仏教の実践の一部になっているといえるのでしょうか?

A.
   > 仏典を覚えることは、仏教の実践の一部として考えることができますか?それとも覚えるだけでは実践とはいえないのでしょうか?

*断言的にyesではありません。一概にはいえないということです。
仏典を覚えても、理解しない、理解できない、納得がいかない、認めない、欠点を探すために学ぶ(他宗教の方々のように)、「物知り屋だ」と他人に褒めてもらいたくて学ぶ、ただの知識欲に刺激を与えるために学ぶなら、決して実践の一部にはなりません。
 仏教を学ぶものは先ず覚える。次意味を理解する。自分の人生と世界の人々の生き方と対照しながらこの教えに疑が無く納得できるか無いか調べる。次に、納得する。納得したところで実践に挑戦する。実践に成功したところで、真理を自分自身の経験、発見になる。このような順番です。

   > また、生活の中で仏典の内容と関連することがあったとき、その仏典を思い出すことは、仏教の実践の一部になっているといえるのでしょうか?

理解する上で、これがとても必要です。学ぶことも実践の一部にしたいと思う方々は必ずやらなくてはならないことです。

Q: 「説法の土台となる経典」
「人生力をつける本」の読者です。2週間ほど前、本の表紙にあるメアドに質問メールを送ったのですが、返事をもらえませんでしたので、この場を借りて同じ質問をさせてください。
この本のエピローグで「土台となった経典は専門家でも見出せないかも」とありました。
是非、その経典を教えて頂けないでしょうか?
和訳が出ていれば、自分なりにじっくり読み進めていきたいと思っています。宜しくお願いします。
このような有り難い本をお書きくださったことにとても感謝しています。有難うございます。

A. 返事か大変遅れてしまって申し訳ありません。
実は一つの経典ではなく、沢山の経典の内容を省略して使っています。ピッタリと引用できる場合はそのように致します。又、読者は、「これ本当に、仏陀が言ったことなの?」と疑問を持つだろうと推測できる場合も経典から引用いたします。
専門的に調べる場合は完全に一致するところを探すのは普通なやりかたので、見つからないだろうと言っておいたのです。仏教専門家なら、私が言っていることの意味を理解できると思います。「これはある一つの経典の狙い打ちではなく仏陀の教えを全体的に把握して話していることだ」と。

私は、私の話、例え活字になっても、「説法」だと言っています。説法と言うのは我術的にセミで発表する研究論文ではなく、日常生活に、いかに役に立つか、どのように実行すればよいのか、という具体的な、実践的な話です。説法があったからこそ、仏教は今まで、行き続けているのです。研究も大いに役に立つが、実践性はありません。仏教研究だけでなら、考古学と同じくなってしまいます。
従って、一つの経典を示すことはできません。皆様の手に入る初期仏教経典のどちらをお読みになっても似ているところが見つかるでしょう。
ありがとうございます。


三宝のご加護がありますように
スマナサーラ 

←目次へ戻る
HOME「ブッダの智慧で答えます」(Q&A) →(70) 智慧と慈悲  その他5件
© 2000-2005 Japan Theravada Buddhist Association.