「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から
(74) ・非生存欲YOGA人間の幸不幸歩行瞑想病気について悟りの素質怒りと欲のおさめ方

 

Q: 非生存欲
ちょっと信じられないですが非生存欲は生き物に自然な感情だそうですが、どう対処したらいいのでしょうか?一般的に怒りの一種だということなのでまきこまれても幸福になることはないと思いますが。

A: 
本能としてこの煩悩は(渇愛)あるが、一般人には、殆どの生命には機能しないのです。パソコン用語で言えば、「log in」してないだけです。必要なときlog inするでしょう。
仏陀の時代で、真剣真面目な行者たちがいました。修行の結果、身体も、心も苦そのものだとわかってはいました。それで、至った結論は「存在は苦なら、非存在は楽」だということでした。これも人間の常識的な思考パターンです。(寒いのは嫌なら、暖かいのは良い)物事は白黒に分ける分別は仏教では極論だとしています。極論は実際に生きている生命のなかにあるものです。超越論(中道)は智慧ある人の世界。
ですから、生きること嫌になった人が自然に至る極地です。普通は快楽を目指すという局地ですが、たまにこの局地にも陥る。非存在欲にlog inしている人々は数少ないだけです。
一般的に欲を喜んで生きている人々は怒りに注意すると潜在的に自分にも「非存在欲」があることの理解がなんとなく出来る。
怒りは嫌だから欲にならない?と思うでしょう。
でも怒る人にはそれを止められない。刺激です。生き甲斐です。自殺も刺激です。止めなさいといったら、「これしかない。止められません」というでしょう。非存在欲に達している。
ちなみに、仏道は五欲にも、存在欲にも、非存在欲にもlog inしない道です。Log out しています、覚者は。


Q: YOGA
仏教の立場からみて「ヨガ」はいい修行になりますか?
そんな暇があったらヴィパッサナー瞑想をやった方がいいのでしょうか?それとも仏教の修行の妨げになってしまうのでやらない方がいいのでしょうか?

A: 
Part I; 定義

Yogaは良いか悪いかは定義に、理解によります。Yujは結ぶ(bind)と言う意味でこころをわがまま好き勝手に彷徨うことを止めさせてひとつの対象に結んでおくという意味でyogaなのです。Bhagavat-giitaaと言うテキストにあるyogaは神様に定めた義務(生まれによって決まっているそうです)を「私がやっている、私がやらなくては」という個我的な気持ちを捨てて行うことです。全て生まれとともに定めているという考えは、仏教では邪見です。知識も、能力も、技術も、資源も、財産もあるインドは永遠貧乏でしょう。金持ちは金持ちで、使用人はずうっと使用人で文句を言わず頑張っている。
神に、永遠の霊魂に自分を結んでおく修行(yoga)は仏教から観るとやるもんではありません。

Part II; 中身
しかし、何か一つの対象にこころを集中させて、雑念を控えることで、集中力が現れてきて、こころも綺麗になります。欲や怒りがあるとこころは混乱状態なので、集中力がる場合はこの汚れが機能しない状態にはなります。Samadhi(禅定)が現れるこのyogaは邪行ではなく修行の一つです。仏教徒もやります。何に集中するのかと決めないと大変ですよう。神様、マリヤさま、Allah様、大日如来様などに集中するとろくな結果にはなりません。自己暗示だけです。しかし、仏陀に集中することは正しい。なぜなら、実在した人物であるし、仏陀の超越した能力、智慧、道徳などが思い浮かぶのでこころが清らかになります。(この瞑想の場合は対象になるのは仏陀個人よりも、仏陀の9徳なのです。)
汚職することに、ゲームに、可愛い異性に集中するとどうなるかと言わなくてもよいでしょう。仏教のyogaでは、光、色、土、水、火、風などの中立的なもの、又、慈、悲、喜、捨という四つの気持ち、仏、法、増という三帰依、戒、不浄、死、無常、無我なども集中するための対象になります。これらの対象は断言的に正しい。こころは清らかになるし、修行はある程度に進んだら、解脱の法へと案内してくれます。

Part III; 結論
Yogaという単語に仏教は拒絶反応を起こしません。単なる修行と言う意味です。Vipassana修行する人々にも現地では(ミャンマ、スリランカ、タイなど)yogiiと言います(Yogaを行う人)。健康のため、長生きをするため、痩せるため、落ち着くため、流行に乗るためなどの目的で現代、西洋でも、日本でもやっているyogaという体操方法は仏教の管轄ではありません。それは俗世間の要求です。良い結果を得られるならば、実践すればよいのです。智慧の開発とこころを清らかにすることには関係がないだけです。(肉体が柔軟になって、病気にかかり難い体調は悪くないでしょう。)



Q: 人間の幸不幸
人間の幸不幸の割合は業によって決まっているそうですが、やっぱり幸福の割合が多いほうがいいのでしょうか?

A: それは、まぁ、当然なことでしょう。人間の次元は幸福の割合が高いほうです。一般的に人間の生まれはsugati(善い生まれ)といいます。徳のパワーが天界に生まれるパワーと同じです。人間に生まれた同じ徳で天界にも生まれることが出来たのに、損しちゃったかなぁ?いいえ、違います。人間には人格向上が出来る。修行が出来る。智慧を開発することが出来る。悟りを開いて輪廻を脱出することができる。天界ではなく人間に生まれてよかった、仏教に出会ってよかったとおもわなっきゃ損ですよ。
では、なぜこの世は苦しいことばかりでしょうか?向上できるということは、逆も(向下?)出来ることでしょう。人間は苦しむ道を選んでいる。子供たちにその道のみを教えている。それで、私たちも、怠けもので、言われたことを鵜呑みにする。(知ったことじゃない)(一等賞が当たった宝くじをもっているのに、それをグシャグシャにしてしまって、賞金は貰いません)


Q: 歩行瞑想
歩行瞑想してると肩と首と延髄あたりが凝るんですけどこれは問題ないんですかね?

A: 
背筋を伸ばして、同体を派手に揺れないように歩く。しかし、筋肉を硬直したりしてはいけません。筋肉をリラックスさせてあるくことです。歩行瞑想といっても、歩き方は単純な、自然な歩き方でなくてはならないのです。妄想・雑念を減らすことと身体の感覚に気づいていただくことは目的です。


Q: 病気について
長老は精神科医の薬物療法やカウンセリングでは心の病は治らないとおっしゃっていますが、どうすれば直るのですか?

A: 世間では『病気』というのは正常と判断しているレベルが下がった時です。精神病の時も同じ基準:正常がなくなり、異常になったことを意味します。
肉体であろうが、こころであろうが「正常」に機能しなくなったら、そのその分野の専門家が何とか方法で「正常」に戻してやろうとする。それが、治療でしょう。社会の「正常」を維持するために、「警察組織」が必要と同じく、それらの治療方法も社会の「正常」を保つために必要です。

仏教の大きな問題は社会で認めている「正常」も「病」(異常)として扱うことです。ですから、奇跡のごとく発達している世界のあらゆる治療方法は「一時的な」解決策として見ているのです。「手当て治療」は必要ですが、本格的な治療ではないと言う意味でSumanasaraの本に「治らない」という言葉を使っています。

どうしたら治る?
精神病にかかった原因を根こそぎに取り除くことです。無明を頭とする煩悩は原因です。
一般的なレベルでいうならば:妄想をやめることです。有効的な、論理的な思考は良いのです。しかし、そのときもよく注意する、実行できる思考かないかと。

感情に気をつける。感情は非論理的なものです。現れたら、理性がなくなる。感情が人を支配する。感情の判断は正しくない。また、感情が妄想を引き起こす。命を守るために最低限に必要な、食欲、家に鍵をかける、財布を守る、蚊取り線香を使用する(欲と怒りのことです)などの感情ではなく、要らない、余計な、無くても問題にならない、異常な感情を制御する。
智慧があるとそれは簡単に減って行くので、智慧の開発にふんばります。脳を「瞑想」で活性化します。(慈悲の瞑想で最清な善たる感情で悪の感情を入れ替える)
以上で精神病は完治します。


Q: 悟りの素質
前世までの業の積み重ね方によって、悟るために必要な修行の量は違うように思えます。
その分の努力をすれば誰でも今の人生で悟ることが可能なのでしょうか。それとも、人によっては時間的に限界があるものなのでしょうか。

A: > 前世までの業の積み重ね方によって、悟るために必要な修行の量は違うように思えます。
**釈尊の言葉によると輪廻は過去を辿ると無限ということになります。それから、推測するといかなる生命の過去の業の量もほぼ同じではないかと言える。
しかし、一切の過去の業は今の生まれに機能するのではありません。今の人生は生まれと死までの寿命の管理する1個の業とそれにおまけに付く小さな業(複数)で構成されています。人の差異はここで現れる。
論理的に言えば、解脱するための修行の量も皆同じです。

  > その分の努力をすれば誰でも今の人生で悟ることが可能なのでしょうか。それとも、人によっては時間的に限界があるものなのでしょうか。
**生まれを司った業の知の力が強いなら修行のスピードも速い。
不貪の力は強い場合は修行を成功するために時間がかかります。
不瞋の力は中間ですね。この世での生を司った過去の善業はいやいやで、他人に進められたから、義理で、断れなかったからなどの衝動で行ったものなら、修行もその分、踏ん張らないと進まない。過去の業は自分の納得、理解があって、前向きに、喜んで行ったものでしたならば修行は楽々に進みます。
それに、仏陀の教えに納得していること、過去でヴィパッサナー瞑想か他の仏教的な瞑想の経験があること、過去で無常に無我に気づいたことがあること、欲・執着を制御したことがあることなどは今生の修行のスピードを加速します。

 こんな説法は何の役にも立ちませんよう。正直なところ、過去の業なんかは知ったことではないでしょう。(自分の性格を分析すると解らない訳でもないが)過去の業のことを置いておいて努力するしかありません。ヴィパッサナー瞑想は一方通行の道なので、進んだ分は自分の収穫、止まることがあっても逆戻りはありません。

私の主観から言えば、日本の皆様に過去の業は決して邪魔しているのではありません。強力な善業によって生まれているのです。やれば出来る筈です。
では、問題は?今生で蓄積した知識と性格です。今、溜まっているストレスや不満、悩みなどです。今の業は最新のものだから、影響力は最大です。この影響力も修行によって消えるのです。弱音を張らないで頑張りましょうよう。


Q: 怒りと欲のおさめ方
怒りや欲などの感情を観察している時に、途中から、怒りでもなくて、体のだるさなどを観察していることに気付くのですが、これは、怒りによって体が影響を受けているからですか。それとも、別のものでしょうか。
また、怒りや欲が湧いた時、数を数えると収まることが多いのですが、このやり方でも根本的解決になっていますか。

A: 
***
怒りによって身体にだるさが生まれてくる。怒りを観察することも、身体のだるさを観察することも同じものではなく異なった対象なのです。
***
数を数えて怒り欲を抑える。観察ではどうにもならない場合は悪の感情でいるよりは、この方が良いと思います。しかし、この機能は「話題を変える」、「臭いもの蓋をかぶる」やり方です。対象を変えることです。緊急処置として釈尊に認められている方法の一つです。「根本的解決」ではありません。緊急手当てです。


三宝のご加護がありますように。
Sumanasara
  

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