「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
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(75) ・釈尊の修行について慈悲の瞑想食事の前預流果という目標姿勢瞑想中の集中力について病気中の瞑想

 

Q: 釈尊の修行について
仏典『聖求経』などでは、お釈迦様が二人の仙人から禅定を習うがそれに満足せず、苦行へと向かわれており、禅定修行→苦行→成道という修行の過程が書かれていますが、やはりお釈迦様はある程度禅定・サマタ瞑想に見切りをつけられ、成道時にはヴィパッサナーを行っておられたのでしょうか。経典ではなかなかそこまで読み取りずらいのですが。

A: 
釈尊はその二人の仙人の教えを完璧に学びました。先生たちと同じ修行経験にも達しました。それはその経典に記録しているのです。
苦行は禅定瞑想と関係の無い、特にJaina教が教えた道です。当時インドであった宗教は殆どお釈迦様が試して見ました。−もしかするとなにかありそうだなぁ‐と思われたものを全てです。論理的にも成り立たないものは試す価値はありません。
ですから、当然お釈迦様にsamadhiの経験は悟りを開く前からもあったのです。仏陀はsamadhiを否定・非難してない。ただ、サマーディだけでは、解脱になりませんと説かれただけです。


Q: 慈悲の瞑想
お釈迦様の時代の修行者の方々も今協会が教えているのと同じ文句で慈悲の瞑想とヴィパサナー瞑想をしていたのでしょうか?それとも協会のやり方はアレンジされているのでしょうか

A: 
Vipassanaはアレンジ出来ないが、修行者自分の母国語使用するので国同士で微妙な差が現れます。
慈悲の瞑想はアレンジしたものです。
ー協会のやり方ー
と言うより、一般日本人に理解できるようにと思って複数の人々の協力・感想・観察を得て作られたものです。


Q: 食事の前
テーラワーダの国々で在家の人は食事の前にはなんと唱えているのでしょうか。
(テーラワーダでの在家の唱える言葉としては特に決まったものはないのでしょうか。)

A: テーラワーダの国々の全てのことは知りません。スリランカ島のことなら、一部知っていると思うのでお答え致します。
在家の人々は何も唱えませんよう、食事前。しかし、食べる前に、又は後、自分の皿に入っている自分が食べる分の一部(一握り)を残して動物や他の生き物に上げます。(食べ物に対する愛着をなくそうと言う気持ちと布施です。)テーラワーダでは自由に何か唱えても構いませんが、それは一般習慣にすることはできません。
出家には釈尊に定められた文句があります。唱える必要はありません。頭の中で念じるだけで十分です。
テーラワーダには食事とは「命を繋ぐための材料」以外何ものでもありません。だから、西洋・日本で見られるような「お食事文化」、「お食事祭り」はありません。
命を支える大事なものではないか、感謝して食べるのは礼儀ではないかと思うことも可能です。では、命を支える為に最も大事な行為は呼吸です。呼吸をするたびに何か唱えなくてはならなくなります。命そのものも無常で苦です。支えるものも無常で苦です。


Q: 預流果という目標
ぼくは、「今生で預流果になる」ことを目指して瞑想や善行為に励んでいます。しかし、長老の著書などを読みますと、「目的を持ってしまうとかえって遠くなる」とあったり、「善い人間になろうと思わない方がよい。思うと結果は最悪です」と説かれていたりします。
自分なりの解釈では、目的に執着してしまうことを戒められているのだと理解していますが、どうも自信がありません。修行するための心構えなどアドバイスがいただければ幸いです。

A: 
先ず、頑張ってくださいと応援いたします。
目的について明確に(?)カヤの木会館で(12月24日)説明いたしました。目的は純粋に善なら、期待を上回って成功する。悪なら期待に達する前に自己破壊でつぶれるということでした。そこで、問題は目的は善か悪かと判断することです。
  1.行為は悪なのにいいことをやっていると勘違いする人もいる。
  2.目的は善だと思って入るが、実は悪意が隠れていることもある。これが、ややこしくて、理解するのは難しいです。
1.の例は子供たちのために、徹底的に厳しく躾するぞうと思って、怒りたい放題、叱りたい放題、体罰も惜しまない親や指導者、教師などの場合です。
2.例は:周りにバカにされて、悔しくなって、「では、悟ってやるぞうと」覚悟してがんばる。しかし、バカにされた周りに対する攻撃態度なのです。怒りと高慢が隠れている。目的は純粋善ではありません。

目的は純粋に善なら確実に成功する。(精進すればの話ですが)。善も悪も混じっている目的の場合は失敗かまぁまぁの結果です。

目的がしっかりしないと人間に精進することも難しい。こころは中途半端で、曖昧で揺らぐ破目になります。だから、目的、正確に言うと「請願」が必要です。自分の請願は純粋なものか、まじりっけのものかと定かでなくても「悟りたい、解脱したい」と言う目的は悪くないと経典・仏典などで説明されてあります。

目的だけに執着・固執するとその目的に達する道・方法について不注意になるのです。それでは結果なしです。それから、凡夫の私が推測して請願する悟りと煩悩無くして達する本物の悟りは違うかもしれません。上達する過程でそれはわかってくるなら善い。しかし、殆どの人は「そんな筈ではなかった」と途中で諦めるケースもある。とにかく、このポイントははっきりしない。
素直に、悟りたいと請願をして、冷静に、怠けることなく、しかし、極端にやり過ぎにもならず、常に善い結果が出るようにと調整しながら、修行を進んだほうが、誰にとっても無難だと思う。
三宝のご加護がありますように。


Q: 姿勢
瞑想のとき背筋がのびているのが大切であると書かれてありましたが、背筋が反るぐらいの限界ぎりぎりまでのばして固定するのでよいのでしょうか?

A: 身体の骨組みは正しく伸びていることです。
地の引力に合わせて骸骨を立てることです。その時、筋肉にかかる負担は最小限です。姿勢を維持するために注意・気づきも必要でしょう。注意が弱くなると骨組みはバラバラに落ちる。(自分は骸骨だと想定して観るとこの意味はわかるでしょう。)従って、姿勢を正して維持すると集中力は強化します。
やり方:腰骨が骸骨の中心点だと思って腰骨から回転させて同体を上げることです。体重は腰骨にかかるようにと。胸と肩の筋肉を引っ張って背筋を伸ばす方法は(皆やっている方法)正しくない。腰骨の上に1個つつ背骨の骨を重ねていって、最後に頭蓋骨を置く。肩に力は入らないし、要らない。
「限界ギリギリ」はだめです。感覚的にやってください。客観的に観ると正しくなくても、最初は感覚的に伸びているのだという気持ちでもよい。徐々に姿勢は直っていきます。


Q: 瞑想中の集中力について
どうしたら気合を入れて瞑想が出来るようになりますでしょうか。
 妄想について、また妄想の恐ろしさについて、お釈迦様はどのように仰っておられますでしょうか。

A: 
瞑想とは何かと理解していただきたいのです。
一般的には集中力を高めることです。
Vipassanaではそれと共に智慧を開発することを目的にする。「瞑想中切れた集中力」なんかは理論的には成り立たない。では、答えは瞑想中、瞑想をさぼったということです。
解決策:ある時間を瞑想すると決めたなら、中途半端でやるのではなく、やり通してください。
瞑想ではなく、妄想すると集中力は切れる、疲れる、気合がなくなる。瞑想は妄想を退治する挑戦です。気合をいれて行わないとできるものだと思えない。
Stop motion:ストップモーション:
瞬時に集中力を上げるために善い方法です。一分から二分ほど身体動きを、呼吸以外に完全にストップする。座ってやる場合は、「座っている、感じている」と実況する。立ってやる場合は、「立っている、感じている」と実況する。三回ぐらい繰り返すと集中力が高める。


Q: 病気中の瞑想
扁桃腺が腫れて高熱が出ている者です。
薬を飲んで療養中なのですが、頭がボーっとしてうなされ気味です。
こんなときは慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想とのどちらが適切でしょうか?
それとも修行はお休みしていいのでしょうか?

A: 
修行するより素晴らしいことがあるならば、病気中それを行うことは当たり前だと思います。
植物である肉体に、肉体のことを任して、理性のある病人は清らかなこころ、精神的な安定を保つのです。ヴィパッサナーでも、慈悲でも気分しだいで、どちらでも構いません。身体だけではなく、心まで治すから素晴らしいことです。
仏教徒なら臨終の時でさえ、瞑想するのです。(参考のために)


三宝のご加護がありますように。
Sumanasara
  

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