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☆特別連載  最新の仏教研究で解き明かすパーリ三蔵の成立過程
パーリ聖典の源流  (釈尊の言葉は失われたのか?) 
 藤本 晃(慈照)文学博士・誓教寺住職 

第一回  ◎パーリ聖典の編纂・第一結集         -2005.03.16-up
第二回  ◎第一結集で何を編纂したの? 律と経    -2005.05.02-up
第三回  ◎教団の分裂・第二結集と第三結集       -2005.05.22-up
第四回  ◎無常の世界に不変の真理 (最終回)   -2005.06.22-up
 (patipadâ 2004.12月号掲載)

第一回  ◎パーリ聖典の編纂・第一結集

1. パーリ語聖典?
   パーリが聖典?

 二十一世紀を生きる私たちに、今から二千五百年も前の一人の人物に端を発する、膨大な智慧の宝庫が脈々と受け継がれています。
 その人物に名前はありません。いいえ、その人がインド北部、ガンジス河上流の釈迦国の王子であった頃には、ちゃんとゴータマ家のシッダッタという名前がありました。でも出家した時に、王家の地位も財産も、妻も子も、名前までも、全部捨ててしまったのです。
 出家して六年後に悟りを開いて覚者(ブッダ)となったその人を、当時の人々はただ、先生とか尊師などと、一部の人はゴータマさんなどと出家前の苗字で呼んでいました。今ではゴータマ・ブッダ(ゴータマ家出身のブッダ)とか、釈尊・釈迦尊(釈迦国出身の尊者)とか、釈迦牟尼仏陀(釈迦国出身の尊者[牟尼]であるブッダ)などと呼んでいます。
 その釈尊と呼ばれる人が、悟りを開いてから亡くなるまで四十五年もの間、休む間もなく説き続けた教えが、悟りに導く智慧の宝庫として、現代にまで受け継がれているのです。その宝庫は、釈尊当時の言葉で、ただ、聖典(パーリ)と呼ばれていました。
 そういうわけで、本当は「パーリ」がそのまま「聖典」という意味なのです。「パーリ(聖典)語」などという言語はないのです。釈尊の当時にもありませんでした。

 釈尊は、自分が主に活動したガンジス河流域のマガダ国やコーサラ国の人々が日常使っていた、マガダ語という言葉や、説法の聞き手に合わせて他にも五、六種類のインド諸語(方言)で、教えを説いていました。
 その教えがそのまま、釈尊と同じく完全な悟り(アラカン果)を悟った弟子たちによって、テープレコーダーに吹き込まれたように一語一句も漏らさず加えず間違わず、聖典(パーリ)としてまとめられたのです。

 釈尊が語った説法の言語は五、六種類のインド語全てに亘りますが、弟子たちがその教えを聖典(パーリ)としてまとめた時は、言語上の統一を取るためでしょう、釈尊が語っていた各種の方言のままではなく、一つの言語に統一されていました。聖典(パーリ)に採用されたその言語は、釈尊がおそらく最も多く語っていた、マガダ語です。そしてそれが、そのまま現存パーリ聖典に保存されているのです。
 パーリ聖典を読んでいますと、時々、パーリ(マガダ)語でなさそうな言葉に出くわします。それは特に、当時の一般の人々の会話文の中に見られます。各地方の人々がそれぞれの方言で喋っていた何気ない言葉は、パーリ(マガダ)語に直し難かったのでしょう。原意を損なわないためにも、その音のまま保存したものと思われます。

2. これが聖典の編纂だ!
    第一結集

 聖典のまとめは大事業でした。でも素早く、確実に行われました。釈尊が亡くなったその時にもう、教えが散逸するのを懸念した高弟たちが、マハーカッサパ尊者を中心に協議し、聖典をまとめる段取りを決めていました。そして仏滅から僅か三ヶ月後に、インド中から五百人ものアラカンたちが、マガダ国の首都ラージャガハ(王舎城)に集まり、ウパーリ尊者が律を、アーナンダ尊者が教え(経)を、覚えているままに唱え、その内容を五百人ものアラカンたちがチェックし、お互いに覚え間違いも遺漏も余計な付け加えもないよう、確定しました。
 これが聖典の第一結集です。経・律・論の三蔵から成る聖典の中、経と律はこの時確定したことが分かります。論(アビダンマ)については、史書には第三結集の時まで何も記録されていません。

 第一結集で定められた聖典がどんなものであったのか、現代の学問の世界(学界)では、まず、「分からない」と言います。聖典をせっかくまとめたのですが、筆記用具や紙などで書いて記録する古代中国や古代西洋の文化と違って、古代インドでは、説かれた言葉を丸ごと耳から覚え、人に伝える時も、聞いて覚えたそのままを口で唱える口頭伝承の文化でしたから、書かれたものが何も残っていないからです。
 しかし学界では、「分からない」に留まらず、現代文明人である我々の基準を当てはめて、「口伝えでは覚え間違いやもの忘れ、言い間違い・聞き間違いが必ず出てしまうはずだから、釈尊の説法もそのまま正しく保存されているはずがない。現存するパーリ聖典は、西暦紀元前後にスリランカで筆記されて以後のもので、そこからは間違いもほとんどないかもしれないが、それまでの約五百年間は、忘れたり間違ったりでお経の内容が失われたり付け加えられたり、あれこれごちゃ混ぜになっていたはずだから、現存パーリ聖典は結局、釈尊の直接の教えとは言えないだろう」とまで言います。

 これは、一般に我々がよくやってしまう、でも学界など厳密な論理の世界では決してやってはいけない誤りです。でもやってしまいます。
 我々現代人は伝言ゲームでさえ思いっきり伝え間違うほど記憶力が乏しいので、自分だけでなく誰がやっても記憶による伝達は信用できないと考えてしまいますが、古代インド人が筆記でなく暗記を伝達・保存手段に選んだのは、少なくとも彼らにとって、暗記の方が筆記より正確だったからです。
 口頭伝承文化のインドでは、長い物語でも覚え易いようにいろいろな工夫がされています。パーリ聖典も同様に、詩の形式で説かれたり、教説のテーマが始めに数え上げられ目次になっていたり、数を合わせたり、定まったリズムで唱えられるよう音の数を調節したり、大事な文言は繰り返し出てきたり、様々な工夫をして楽しくしっかり学びながら覚えられるように説かれています。
 このように覚え易く工夫して説かれたパーリ聖典が、真剣に説いた釈尊と真剣に聞き覚え伝えてきた弟子たちの絶え間ない伝統の中で、たとえ三千年、一万年経っても、僅かでもうろ覚えになったり内容が曖昧になってしまうものかどうか、今も伝統を受け継ぎ、聖典を伝え続けている、スリランカや東南アジアのお坊さん達の生きた姿で確かめてみると、よく分かります。

 一方、筆記による漢訳仏典は、せっかくの訳本が戦火で焼けたり、書き写す際にも遺漏や書き加えや、漢字の間違いなどが結構ありますので、きちんと訳した後のものでも、きっちり正確に伝わっているとは言えません。
 学界では「漢訳仏典も釈尊の言葉そのままではないだろう」と見ていますが、でもそれは、筆記による伝達の問題ではなく、翻訳前の原本が口頭伝承だったからということになっています。やっぱり。

 というわけで、現存パーリ聖典が第一結集で確定された釈尊の教えそのままかどうか、学界では否定的で、物的証拠がないから「分からない」ということになっていますが、それは最大限もったいを付けた言い方だと考えてよいでしょう。実際には現存パーリ聖典は、「釈尊の教えを決して変えないぞ」と頑張っている上座部が、僅かなほころびもなくしっかり守り伝えていますから、その中に釈尊の教えも、かなり良い保存状態で収められていると見る方が自然です。書くことに頼った漢訳聖典が、どの部派のものもボロボロ状態で僅かずつしか残っていない上に、その内容も多くの箇所で改変された跡が見られるのと対照的です。


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 (patipadâ 2005.01月号掲載)

第二回  ◎第一結集で何を編纂したの? 律と経

2−I 第一結集で律蔵はどれだけ確定したの?

 学界では釈尊の教えそのままかどうか「分からない」ともったいぶられていますが、外から眺めるだけでなく、パーリ聖典に説かれているその内容を直接、しかも「客観的に、学問的に」読んでみると、それが第一結集の時にきっちり確定し、それ以後決して揺るがなかったのだとしか言えなくなるでしょう。

 まず律は、第一結集で定めた時から現代まで、何一つも変わっていないと、簡単に分かります。戒律は、釈尊ただ一人が定めたり廃止することができる、弟子たちのための法律ですから、仏滅後に増えたり減ったりするはずがないからです。第一結集どころか、釈尊在世中からしっかり定まっていたのです。
 釈尊は入滅直前に「戒律をたくさん作り過ぎたから、些末なものなら廃止しても良い」と弟子たちに許したのですが、弟子たち自身が、何一つ廃止しないと決めたのです。自分たちで新たに条項を付け加えるのは論外です。
 律蔵の内容が第一結集当時も現代も変わりないことは、釈尊の在世中から行われていた布薩(ふさつ)という行事からも窺えます。二週間に一度の布薩のたびに、近在の弟子たちは全員一ヶ所に集まることが義務づけられていました。一日一夜を共に過ごす中で、弟子たちは戒律の全ての項目を共に唱え、その一つずつについて、各自の違反の有無をチェックしていました。自分たちの戒律をお互いに確認するのですから、条項を適当に省いたり付け加えたり内容を変えたりすることは、到底できませんし、毎回全部唱えますので、嫌でも覚えてしまいます。
 あるお経に「百五十いくつの戒律を守る」という文言が出てきますので、その時は戒律の条項はまだそのくらいしか数がなかったと分かります。仏滅までにもっと増えて、結局二百五十ほどになりました。仏滅後は全く増減がないまま、その戒律がそのまま現代に伝わっているのです。
 でも学界では、そうは見ていません。パーリ聖典以外にも漢訳やチベット訳でだけ残っている他の仏教教団(部派)の律蔵がありますが、その内容がお互いに結構違っていて、しかも漢訳やチベット訳のものには、途中で改竄した痕跡が幾つかあるものですから、「現存する律蔵は釈尊当時のままのものではなく、様々な改変を受けながら伝えられてきたのであろう」と見ています。そして「パーリ聖典もその例に漏れないであろう」と一緒くたに断定されています。
 でもパーリの律蔵は、厳密に調べても、どこにもほころびが見つかっていないのです。まず文言の形式からは、改変の跡が見つかっていません。内容については、何人かの学者がパーリ律のここが変だと何カ所か指摘していますが、全部、文化の違いによる解釈のずれです。
 このように、パーリの律蔵にだけは改変された跡が見つからないのですから、「パーリも改変されただろう」と言うよりは「パーリは改変されていない」と言う方が、より正確な言い方というものです。

 現存のパーリ律蔵には、個々の戒律が制定されるきっかけとなった事件が因縁譚として説かれ、さらに、各戒律の適用範囲や犯した場合の罰則が、判例を挙げて示されています。これらも、釈尊当時に実際に起こった事件や判例を記録したものです。釈尊は、何かの事件や問題が起こったから、それが以後起きないようにと、戒律を仕方なく作って弟子たちを戒めたのです。弟子たちがしっかりしているのに、戒律だけを先にどんどん作ることはありませんでした。ですから戒律の条項だけ先に決まっていて、それに合わせてその因縁譚や判例が後から創作されたと考えることは、順序が逆ですから、できません。始めからセットで戒律なのです。

2−II 第一結集で経蔵はどれだけ確定したの?

 経典も、そのほとんどは第一結集の時に確定していました。何しろ、釈尊が説いた教えが経典なのですから、仏滅までに全部揃っているのは当たり前のことです。
 ただし律の場合と違って、全ての弟子が釈尊の全ての説法を聴いていたわけではありませんので、五百人ものアラカンたちが自分たちが聴いたものを相互にチェックする必要がありました。自分が聴いて覚えている説法をお互いに持ち寄り、知らなかった説法を新たに聴く中で、聞き間違い、言い間違い、覚え間違いなどをチェックしたのです。これによって、間違った内容の教えを保存してしまう可能性は全くなくなり、釈尊が説いたそのままの教えが、語句まで正確に、一揃いの経典「経蔵」になって、みんなに等しく保持されたのです。
 もちろん、完全に悟ったアラカンたちが嘘を言うことはあり得ませんので、彼らが口を揃えてお経を捏造した心配は全くありません。
 経蔵に含まれる経典のほとんどは釈尊自身によるものですが、サーリプッタ長老など高弟たちが説いたものも、さらには神々などが説いたものまで、釈尊以外の人々が説いた「経典」も幾つかあります。これらの「お経」は、釈尊が生前に真実語であると是認していましたので、仏説に準じるものとして経蔵に一緒に収録されたのです。
 同様に、仏滅後に弟子たちが説いた経典も僅かに収録されていますが、その内容は釈尊在世中の教説と同じであり、五百人のアラカンたちが内容に間違いなしと認めていますので、これも仏説に準じるものです。

 経蔵は、以下の五つのグループに分類されます。

  1. 長部経典三四経:比較的長い、物語も含む経典。
  2. 中部経典一五二経:中位の長さの、教説をぎゅっと詰めた経典。
  3. 相応部経典二八七二経:短いお経を、教理や説者などの共通点に応じてグループ分けしたもの。
  4. 増支部経典二一九八経:四諦や五力など、説かれる教説の数によって一から十一までグループ分けした、短いお経の集まり。
  5. 小部経典十五経:以上のどこにも入らない特異な経典の集まり。「スッタニパータ(経集)」「ダンマパダ(法句経)」「ジャータカ(前生経)」など。

 この中、長部、中部、相応部、増支部の四つのグループには、第一結集以後新たな経典は加わっていません。
 小部経典には、第二結集やそれ以後に加えられた経典も僅かにありますが、それらの経典には必ずそう明記して区別してありますので、ごちゃ混ぜにはなりません。例えば餓鬼に関するお経を五十ほど集めた『餓鬼事経』に、第二結集の時に加えられたお経が幾つかあります。仏滅後にも弟子たちが餓鬼に遭遇して助けてあげた事件があったので、その顛末も経蔵のこのお経のグループに含めたのです。でも、きりがないからでしょう、一つ二つだけです。それらは、第一結集の時に既にきちんと整理されている各経典群の、一番最後に明記して加えられています。

 長部、中部、相応部、増支部、小部の五部にグループ分けされたたくさんのお経は、その一つ一つに経名と番号が付けられ、十経ずつ一セットにまとめられ、セットの名前まで付けられています。それがこの五部にグループ分けされているのです。こうしておくと、お経のどれか一つでも抜け落ちたら、数が足りなくなるのですぐに分かります。デタラメなお話を「お経」だと言って後から付け加えようとしても、数が増えて合わなくなるので、すぐにバレます。
 一つのお経の終わりに続編を作ってくっつけようとしても、全ての経典の終わりに「この何々経はこれで終わり」と終わりの印が付いているので、その後にはどうやっても続けられません。もちろん、お経の途中に別の話を挿入しようとしても、前後と話が合わなくなるし、アラカンたちがしっかり覚えた内容と違うので、これもすぐにバレます。
 このように、最初にお経を結集した時に何重にも鍵が掛けてありますので、経蔵やその中のお経の一部を改竄することは、どんなお経泥棒にもお経仕掛け人にも無理です。ですからますます、釈尊の教えが第一結集で保存されたまま、現在まで伝わってきたと分かるのです。お経を保存し守るこのような編纂の工夫も、五百人ものアラカンたちが智慧を持ち寄ってこそできたことです。

2−III 第一結集の経蔵が残っているのはパーリ聖典だけ?

 いいえ。インド語ではパーリ聖典だけですが、漢訳経典にかなり、チベット語訳経典にホンの少し、残っています。それらの翻訳経典は、上座部が保持するパーリ聖典以外の、他のいろいろな部派が保持していた経蔵からの翻訳です。
 他の部派の経蔵も、パーリのものと同様に、五部または小部以外の四部に分類されていたようです。漢訳に残る経典はいろいろな部派の経蔵から一部ずつが残ったものなのですが、それらをかき集めると、この部派の中部(中阿含)、あの部派の長部(長阿含)などと、パーリ五部の一つずつと名前も一致し、中に保存されている経典も何となく同じように揃っている各部派の経蔵の一部ずつが、辛うじて揃います。全部合わせると、四部または小部も含めた五部に、だいたいなるのです。
 このことからも、仏滅直後の第一結集の時にアラカンたちがきっちり編纂したそのままの経蔵が、パーリ聖典にしっかり保持されていることがよく分かります。仏滅から何百年も経ち、いろいろな部派に分裂した後で、上座部が自分たちの聖典を独自に編纂したのなら、他のどの部派の経蔵も同じ名前の同じ五部の分け方になっているはずがないからです。いろいろな部派に分裂する前、つまり第一結集の時にみんなで編纂した経蔵が、他の部派のものはほとんど失われましたが、パーリ聖典にだけは、完全に残っているのです。

 でも漢訳経典は、一つ一つのお経の内容がパーリ聖典のものとかなり違います。その場合どうしても、翻訳された形跡のないパーリの経典よりも、漢訳の方が信頼度が落ちます。漢訳はパーリ(マガダ)語からの直接の訳ではなく、一旦、北西インドの方言ガンダーラ語などに訳された後、仏滅千年近くも経った西暦四、五世紀までに漢文に訳されたものです。翻訳からの翻訳(重訳)であることや、それもインドの言語から全く文化の異なる漢文に訳されているのですから、信頼度が落ちるのも無理もありません。
 また、残った漢訳経典には番号が振ってあるものもありますが、経典の数も、パーリのものとかなり違います。総じてパーリの方が少ないのです。でも、例えばある部派の中部経典に本来どれだけの数の経典があったのか、どれだけが抜け落ちて、どれだけが後から創作されたのか、それが漢訳の時に変わったのか、インドで既に変わっていたのかも、その部派自体が滅びた今、分かりようがありません。
 このようにお経の数や内容が、漢訳された他の部派のものはパーリのものとかなり違い、しかも不完全ですので、学界では、完全に残っているパーリ経蔵を基準にして、漢訳経典をそれと比較して、これはない、それはある、あれはパーリのものと内容がかなり違う、などと研究しています。
 このような状況にも関わらず、漢訳とパーリのお経の内容が異なる場合、それでも「文字で伝えた漢訳が正しくて、口伝えのパーリの方が後から変更した」と言う学者が今でも結構あります。こうなると、あまり学問的な態度とは言えません。
 他の部派のものからチベット語に訳された経典は、漢訳よりもっと歯抜け状態です。中部、長部などという一塊りでも残ってなく、幾つかのお経が単行で訳されているだけです。チベット訳経典は、研究もほとんどされていません。

 ついでに言えば、同じ聖典の中でも「詩の形で説かれた偈文のお経は言葉が古いので早い時期に成立したもので、普通の文章で説かれた散文のお経は、言葉が当時普及していた日常語なので偈文のものより遅く成立したはず」と、学界ではよく言われますが、これも的外れです。詩の形にする時は韻律の制限があったり、格言のようにインパクトを込めますから、わざわざ古めかしい、格調高い言葉を使うものなのです。釈尊が詩の形で説いたり日常の言葉で説いたりしたその全てのお経を、全部一括して、アラカンたちが第一結集の時に確定したのです。

 他の部派の聖典が全て様々な改変を受けたりボロボロになる中で、パーリ聖典だけが完全な形で保存されていますので、第一結集をした釈尊の直弟子たちが最初っからきっちり確定して、少しも変更できないようにしっかり鍵をかけて、そこから、後に続く弟子たちが二千五百年もの間、ずーっと守り続けて現代まで伝えてきたのだということがよく分かります。始めにしっかり作って、怠らずにきちんと保っていたから、少しも壊れなかったのです。

【次回予告】第一結集だけでは仏典の編纂作業は終わらない。続く第二・第三結集こそが、仏教を世界宗教へと飛躍させる契機となった。詳しくは、第三回『教団の分裂・第二結集と第三結集』を待たれよ!


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 (patipadâ 2005.02月号掲載)

第三回  ◎教団の分裂・第二結集と第三結集

3 聖典の第二結集もするぞ!

 仏滅百年後に、マガダ国とコーサラ国の中間にあるヴェーサーリという町で、地元の比丘たちが、戒律を十項目に亘って緩やかなものに変更したり、新たな条項を作ったりしていました。午前中なら何度でも食事してもよいとか、病気の時は薬としてアルコールの少ない酒なら飲んでもよいとか、金銀を受け取って蓄えてもよいなどとするものです。

 また、近在の比丘同士でも、布薩の時に一ヶ所に集まらなくても、別々に布薩をしても良いとする変更も、十項目の中にありました。これは、釈尊を親としてみんなが家族のように仲が良かった仏教教団が分裂する前触れでした。こっちの仲間、あっちの仲間などと仲間意識で別々に活動し始めたら、教団はすぐにバラバラになってしまうのです。

 戒律のこのような改変に対して、インド北西部や南西部から長老たちが集まり、ヴェーサーリの比丘たちと合議し、十項目全部を、誤りであると斥けました。

 また、律蔵に関して他ならぬ出家の弟子たちから異解・邪見が出てきたこの事件を重く見て、聖典の乱れを質すため、ヴェーサーリに七百人もの長老たちが集まり、聖典の結集を行いました。これが第二結集です。新たに経や律を作ったのではなく、経も律も決して変えないことを、ここで再確認したのです。

 しかしこの第二結集を機に、戒律や経典を厳格に保持する北西、南西インドの上座部と、戒律などを自由に改変する傾向にあったインド東部の大衆部の二派に、仏教教団が大きく分裂しました。戒律を一度変えてしまった東方の比丘たちは、元の教えにはもう戻りませんでした。

 この時聖典を変更せずに保持した上座部の中、北西インドの上座部は、後の説一切有部です。この部派は、北西インドで盛んなバラモン教と対抗するためか、経と律はともかく、後に成立した論蔵アビダルマでは、経典を離れて自派独自の思想をどんどん作っていきました。
 南西インドの上座部は、後にも上座部のままですが、スリランカまで南下して、現在に至っています。

4 三度目の正直だ! 聖典の第三結集

 せっかくきっちり確定した聖典でも、変えようとして僅かな穴でも開けたら、ほころびはそこからどんどん拡がります。第二結集からアソーカ王が出るまでのたった百年間で、部派の分裂は元に戻るどころか、ますますひどく分裂してしまいました。大衆部はさらに幾つもの部派に細かく分裂し、上座部も北西インドの説一切有部と、南西インドの上座部に別れてしまいました。

 仏滅二百年後に世に出たアソーカ王は、ガンジスとインダスの両大河を含むインド北部を征服していたマウルヤ王朝の第三代の王となり、デカン高原やインド南部まで征服し、インド全土を支配しました。

 アソーカ王は自ら深く仏教に帰依していましたが、教団が幾つもの部派に分裂し、多くの部派で経や律が恣意的に改変され、比丘や在家信者の精神が荒廃し、仏教が徐々に衰退していく有り様を憂えて、マウルヤ王朝の首都パータリプッタで、聖典の第三結集を行うよう、仏教教団に依頼しました。

 長老たちは、たとえ国王の依頼であっても道理に適わないことは平気で断りますが、アソーカ王のこの依頼は理に適い、時機も得ていました。少なくとも南西インドの上座部は、第三結集に積極的に参加しました。上座部の史書にこの第三結集の記事が詳しいことで、それがよく分かります。

 対照的に、大衆部系統の史書で現在僅かに残っているものには、自分たちの説が斥けられた第二結集の記事は僅かに載っていますが、この第三結集のことはおよそ触れられていません。律を変えて仏教の精神も比丘の出家生活も乱してしまい、この度アソーカ王によって排斥されてしまったので、都合の悪いことは記録したくなかったのでしょうか。それとも、大衆部系はこの後急速に衰えましたので、記録する余力もなかったのでしょうか。

 アソーカ王の時代には南西インドの上座部とはっきり別れてしまっていた北西インドの説一切有部も、自派の史書にアソーカ王の事跡をあまり載せていません。それどころか、先の第二結集とアソーカ王の第三結集を一緒くたにして、「仏滅百年後のアソーカ王の時代に第二結集を行って、上座部と大衆部の二派に分裂した」としています。説一切有部もアソーカ王と見解が合わなかったのか、記録のミスということも考えられますが、説一切有部が滅びた今は、確かめようがありません。

 上座部のモッガリプッタ・ティッサ長老を議長としたこの第三結集の特徴は、経と律の再確認だけでなく、この時初めて、論蔵アビダルマの編纂が明記されていることでしょう。しかもそれは、パーリアビダルマ七論の最後の一つ『論事』ですので、この時までに論蔵もほぼまとめられていたと考えられます。

 パーリ聖典の論・アビダルマは経典のエッセンスをギュッとまとめたもので、経典の教えを一歩も踏み外すものではありませんが、主として弟子たちの手によるものですから、経や律と違い、釈尊の直説とは言い難い面もあります。そのためかこの第三結集までは、どの論も名前さえも記録されていませんでした。

 『論事』はしかし、成立の事情が特殊なためか、ここに名前が出ました。この論は、釈尊以来の聖典から外れた様々な異解・邪見を一つずつ批判し論破した論文です。異解・邪見の数は216にも及びます。このことは、仏滅からたった二百年のこの時期までに、それほど多くの異説が輩出し、聖典が歪められ、弟子たちが様々な部派に分裂してしまったということを意味します。

 このように第二、第三結集までに部派がどんどん分裂し、多くの部派で聖典もどんどん改変されていますので、「現存するパーリ聖典も、時代と共に相当の変遷を経てきたものであろう」と学界では考えられています。

 しかしよく注意して記録を読んでみると、ほとんどの部派が聖典を改変する中、たった一つだけ、経も律も全く変えることなく頑固に守り通している部派があることに気付きます。その部派は、南西インドの上座部です。彼らは今もパーリ聖典を保持し続けていますが、それが何らかの改変を受けた形跡は、第三結集の時にも、全くありませんでした。こうなると、「パーリ聖典も改変されているだろう」と考えることは、何かの証拠に基づく正しい推測なのではなく、ただの憶測ということになります。

 上座部は第三結集の後、アソーカ王の奨めに従い、王の親族とも言われるマヒンダ長老を筆頭にスリランカに伝道し、現在に至っています。

5 仏滅年はアソーカ王の年代から割り出せる

 アソーカ王の依頼による第三結集の経緯は、スリランカに南下した上座部だけが、以上のように詳しく記録しています。一方、王に排斥された側の大衆部系には第三結集の記録自体がなく、北西インドの説一切有部の記録では、仏滅百年後の第二結集と仏滅二百年後のアソーカ王時代の第三結集がごちゃ混ぜに一つに数えられていました。後に中国やチベットで編纂された記録も、有部のものと同様です。北西インドと連絡が密な中国やチベットでは、有部系の記録を採用したからだと思われます。

 アソーカ王(在位 B.C.268〜232 年)の年代はほぼ確定していますから、それより百年前か二百年前かで、釈尊の年代が百年もずれてしまうことになります。
 上座部の記録にも説一切有部系のものにも、文言以上の決定的な証拠はないのですが、以下のように周辺の状況を考えると、上座部の「仏滅二百年後のアソーカ王」の方が圧倒的に真実に近いと推測できます。

 まず、記録自体の信用性を考えますと、上座部のものは今も伝統が続いている部派の、当初からの言語での記録ですし、その文言に途中で改変された形跡も見られませんので、当時の状況をそのまま伝えている可能性が非常に高いのです。一つの史書『島史』の二ヶ所だけ仏滅二百年を百年としていますが、その史書も含めて他の上座部の資料は全て仏滅二百年ですので、筆記した時のミスだと思われます。

 これだからまったく、筆記は信用できないのです。ちなみにずっと暗記による口頭伝承を続けてきた上座部も、スリランカに入って二百年余り、西暦紀元一世紀に、念のため筆記によっても聖典を残すことにしたのです。ついでに聖典以外の史書なども筆記しました。これによって、特に聖典以外の文言を必死になって暗記する必要はなくなったのですが、代わりに筆記特有の問題も生じるのです。

 一方、インドに残った説一切有部系の記録は、部派自体も既に滅びており、記録も漢訳されたものしか残っておらず、しかもそれは漢文のせいか翻訳前の原文が不完全だったせいか、仏滅百年とも二百年とも読めるものです。中国やチベットでの記録は、おそらくその同じインドの原資料を元に書かれた二次的なものですから、資料としての価値は下がります。
 当時の背景を考慮しましても、上座部は「聖典を決して変えないまま保持する」ことをモットーにしており、そこに仏教教団の堕落を憂えたアソーカ王の、教団の粛正を求める第三結集の依頼がなされ、上座部はそれに積極的に参加し、他派の異解・邪見を質す『論事』まで作成しています。上座部とアソーカ王はお互いの思惑が一致していますから、上座部の記録ではアソーカ王の事跡を英王の行跡として詳説したと考えられます。

 一方のインドに残った部派の中、アソーカ王に排斥される側であった大衆部諸派はもとより、少なくとも論蔵に関しては独自の見解を縷々付け加えた説一切有部にとっては、「聖典を決して変えない」上座部とそれを是とするアソーカ王の態度は、眩しくも鬱陶しく感じられたかもしれません。

 諸記録の資料としての信憑性やそれを保持した諸部派の背景にこのような事情がありますので、パーリ伝に従って、アソーカ王は仏滅約二百年後の人で、逆算して、釈尊は紀元前483年頃に入滅したと見る年代が、より正確だと考えられます。

 ちなみに、現代の上座部の伝承では、これよりさらに六十年前の、紀元前544年を仏滅年と見て、そこから仏暦を始めています。この年代はスリランカの王の年代を基準に、インドのものと合わせて逆算したものだそうです。この六十年の差は少なくないのですが、スリランカが仏暦を初めて以来、当然のこととしてこちらが取り入れられています。

【次回予告】第三結集の後、他の部派が全て滅びる一方、上座部だけはスリランカから世界へ、釈尊から私たちまで、不変の教えを伝え続けています。最終回『無常の世界に不変の真理』をどうぞお楽しみに。


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 (patipadâ 2005.03月号掲載)

第四回 ◎ 無常の世界に不変の真理 (最終回)

6 パーリ聖典がマガダ語からの翻訳?

 第三結集の後、つまりマヒンダ長老を始めとする上座部がスリランカで伝道を開始してからの経緯は、『島史』『大史』などスリランカの史書に詳説されている通りです。上座部はスリランカに渡ってからは、他の部派とほぼ無縁となりました。他の部派がやがて滅びた一方、上座部は現在に至るまで自らの経緯を細かく記していますので、スリランカ上座部の歴史や事跡は、さすがに現代の学界でも疑われていません。その中、パーリ聖典に関しては、スリランカに渡ってからは現在まで、何の変更も加えていないということが、学界でもほぼ理解されています。

 一点だけ疑問視されているのが、「スリランカに渡ってから、あるいはおそらく南西インドにあった頃に既に、上座部の聖典が釈尊当時のマガダ語から現存するパーリ語に訳されたのではないか」というものです。

 史書などに全く記されていないのにこのような疑問が起こる「根拠」は、おそらく二つ挙げられるでしょう。一つは、インドに残った、今はなき諸部派の経や律が地元の方言に翻訳されていたことです。原本は既にないのですが、幸か不幸か漢訳された文言から、原語がマガダ語あるいは「パーリ語」ではなく、例えば北西インドのガンダーラ語などと判別できるのです。このことから学界では、「やはり諸部派は聖典を地元の言語に翻訳していたのだ。だからパーリもそうに違いない」と推測(憶測?)しています。

 これについては、何の証拠もないのに、他部派のものがそうだからと言って、どうして上座部のパーリ聖典もそうだと憶測できるのか分かりません。

 もう一つの「根拠」は、現在のパーリ聖典の言語が、釈尊当時のマガダ国で使われていたであろう「半マガダ語」と、発音がかなり、動詞の活用や名詞の格変化が少し、違うという言語上の問題です。

 「半マガダ語」は、釈尊と同時代に同じくマガダ国などで活動していたジャイナ教の祖師や弟子たちによる文言に残るものです。マガダ語も「パーリ語」と同様、今は死語になっていますので、ジャイナ教の文献は釈尊当時のマガダ語の痕跡を辿る貴重な資料です。

 でも「半マガダ語」は、「半」が付くように、完全なマガダ語とは言えない、方言のようなものです。それとパーリ聖典の言語が違うと言われても、パーリの方が完全なマガダ語である可能性は当然残ります。

 仏滅二百年後のアソーカ王による法勅碑文からも、パーリ聖典の言語の問題が推定されています。アソーカ王はインドの至る所にその地方の言語で碑文を建てましたから、上座部が活動していた南西インドのピシャーチャ語と、マガダ地方の「マガダ語」のことが少し分かります。

 でも「パーリ語」はそのどちらとも少し違うのです。「アソーカ王碑文の『マガダ語』とパーリ聖典の言語は少し違うから、やっぱり聖典はマガダ語からパーリ語に翻訳されたのだ」と学界では言われるのですが、釈尊の時代から二百年も後の「マガダ語」が釈尊当時のマガダ語と同じものかどうかは、江戸時代の日本語と現代の日本語を比べてみると想像できるでしょう。

 パーリ聖典の言語は、アソーカ王当時の南西インドのピシャーチャ語とも少し違いますから、ピシャーチャ語でもありません。しかも両者に似た点があるとしても、パーリ聖典が南西インドのピシャーチャ語に影響を与えた可能性を考慮しなければなりません。パーリ聖典の言語が、それを説く長老たちと共に、二百年間も当地の人々の宗教生活の指針となっていたのですから。

 このように、「聖典がマガダ語からパーリ語に翻訳された」と言われても、言語から見ても、史書などの文献資料から見ても、その証拠は全くないのです。他の部派の聖典は翻訳されたかもしれませんが、パーリ聖典だけは、何か他の言語から「パーリ語」に翻訳した形跡が見つからないので、パーリ聖典は、始めからその言語で説かれ、それがそのまま何の改変も受けずに現在に至っていると考える方が、自然です。もはや知ることができないと学界では思われている、釈尊が使っていた言葉が、実は、パーリ聖典に残された「パーリ語」だったと考えると、最も単純なその見解が、最もつじつまが合うのです。

 そもそも、釈尊の言葉そのままの聖典を全く変えないで保持し続けてきた上座部が、どのような理由があっても、言語がどれだけ似ていても、その金言を他の、例えば地元の言語に翻訳したとは、もともと考えられません。翻訳自体が聖典を変更する大問題ですから。現に上座部は、パーリ聖典をスリランカのシンハラ語にも翻訳していません。パーリ聖典はパーリのままです。

7 諸部派のその後 
 無常の世界に不変の真理

 アソーカ王の時代に上座部はスリランカに伝道しましたが、インドでは、上座部はやがて消え去ったようです。全てスリランカに移動したのかもしれません。

 インドに残った他の部派も、同様に消え去ってしまいました。戒律まで変えてしまった大衆部諸派は、アソーカ王に批判されてから二、三百年の内に、その聖典と共に歴史の彼方に消え去りました。

 説一切有部は、部派の中で最後までかなり粘りました。インドの北西部でバラモン教と対抗しつつ、紀元前後からのサンスクリット語ブームに乗って、その後の自派の論文(もはや経典のまとめとしてのアビダルマではなく、大乗の「論」と同様の署名入りの「仏教に関する個人の論文」です)をサンスクリット語で綴り、大乗と同様、中国やチベットにも輸出しました。

 その後、紀元三、四世紀には説一切有部のアビダルマと大乗の「中観派」の良いとこ取りをした大乗「唯識派」も出ましたが、それと対抗しつつ、「本家」の有部自身もさらに紀元七世紀頃までは頑張っていました。でも結局滅びてしまいました。

 このように、原語を捨てて翻訳したものも含めて、釈尊の聖典を僅かでも変えた部派は、全て滅んでしまいました。第一結集で確定した聖典を、その後もずっと保持し続け、僅かでも変えた証拠が全く見当たらない上座部だけが、スリランカや東南アジアを始め、世界中で今も脈々と生き続けているのです。

 というわけで、唯一完全な形で残っている上座部のパーリ聖典が、実は最初からの、言葉も内容も釈尊が説き残した教えそのものだと分かるのです。

 現存パーリ聖典が釈尊の教えそのままかどうか、もう一つ確かめる方法があるのですが、それは、いわゆる学問的な方法ではありませんので、学界では問題になりません。その方法とは、現存パーリ聖典を自分で読んで理解し、説かれている内容を自分で実践して確かめることです。パーリからの和訳本でも良いのですが、教えの内容に直に触れると、それが釈尊の言葉そのままかどうか、自分ではっきり分かります。

 「それは主観的だ」と言われれば、「そうですね」としか応えられませんけど、客観的な学問ではなく、自分が悟り、自分が苦しみから逃れる教えですから、それが釈尊が説いた教えかどうかは、そこに悟りへの道が示されているかどうか、自分で確かめれば分かるのです。

 誰にも明らかに示された不変の教えを、求めさえすれば、私たちも今すぐ手にすることができます。聖典(パーリ)は今もここにあるのですから。(了)


藤本晃(慈照)
学習院大学哲学科卒。龍谷大学とカナダ・カルガリー大学修士課程を経て、広島大学博士課程修了。文学博士

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