HOME初期仏教研究:会員広場→仏教的に正しい禅定の作り方
☆特別連載  ブッダの「禅定」と「悟り」をめぐる誤解と混乱に終止符を打つ画期的論考

仏教的に正しい禅定の作り方
 藤本 晃(慈照)文学博士・誓教寺住職 

第一回  ◎インド伝統の禅定をお釈迦様が極めた    -2005.12.24-up
第二回  ◎禅定は九段階                    -2006. 2. 8-up
第三回  ◎五力でひらく、禅定を通じた悟りの世界    -2006. 3.23-up
 (patipadâ 2005.8月号掲載)

第一回  ◎インド伝統の禅定をお釈迦様が極めた

1. 瞑想って何? 禅定って何?

 仏教の修行と言えば、どんなものが思い浮かぶでしょうか。白衣を着て滝に打たれる姿? 法螺貝を持って山中を歩き回る姿? それともタイヤを五本も六本も腰に巻き付けて夕暮れのグラウンドを走り回る姿? 実はこれらはどれも、仏教の修行とは関係のないものです。

 仏教の修行と言えば、薄暗い僧堂で足を組んで(結跏趺坐)背筋を伸ばし、一時間も二時間もピクリとも動かずに座っている姿が、まず思い浮かぶのではないでしょうか。いわゆる瞑想修行ですね。この一見つまらなさそうな、ただ動かないでいることが、仏教の修行の重要なポイントなのです。

 瞑想修行は今では大抵どの宗教でもやっていますが、その内容も方法も、各宗教でてんでんばらばらです。どこかの宗教が最初に始めたら、他の宗教も見よう見まねで取り入れたり、自己流にアレンジしたりして、こんなになったのでしょう。

 仏教では、釈尊が始めから、瞑想修行をその段階ごとにきちんと整理分類しておられます。各段階で得られる境地も、本来言葉で表せるようなものではないのですが、何とか言葉にして、経典にきちんと説き残してあります。そのまま今に伝わっています。

 実は、現在ある様々な瞑想の中では、二千五百年前の釈尊がまとめた仏教のものが最も古く、最も詳しく、最も正確なものなのです。他は全部、仏教のものの一部を取ったか、一部を取って一部を変えたか、一部を取って何かを付け加えたか、さらにまた何かを加えたり変えたりしているだけなのです。

 仏教では瞑想を、その内容から「禅(jhqna)」とも呼びます。「ジャーナ」という音を取って「禅」とか「禅那」とか訳したり、意味を取って「定」とか「静慮」などと訳しますが、心を一点に「定めること」、心を「静めること」です。「定まった状態・静まった状態」も意味します。音と意味を合わせて「禅定」と言うのが、一般に知られている仏教の瞑想の呼び方でしょう。

 ちなみに、現代の一般世間や他の宗教などでは「瞑想」と呼んでいますが、仏教ではそのような修行を、そのやり方から「修習 (bhqvanq)」と呼んでいます。繰り返し何度も励んでチャレンジして、徐々により高い段階に熟達すべきものと考えているのです。

2 仏教の瞑想は二種類あります

 仏教の瞑想修行・修習は二種類あります。止(samatha)と観(vipassanâ) です。

2ー1 観 (vipassanâ)瞑想

 観(ヴィパッサナー)は自分の心身や外界の絶え間ない変化を観察し、その、一瞬ごとに絶え間なく変化生滅し続けている現象を、そのスピードのまま、ありのままに捉えるものです。

 と言いましても、実際には物質の変化は光のスピードで、心の変化はその十七倍のスピードとも言われるほど速いものですから、その変化を始めからありのまま捉えることは到底無理です。始めは必死で変化に追いつこうとして、一つ一つの動きを気づく片っ端から確認、確認、確認していくのです。

 アニメを見るようなものです。始めはただ画面が実際に動いているようにしか見えませんし、それによって感動して泣いたり笑ったりしますが、真剣に観察し続けて一コマずつしっかり捉えることができるようになると、生き生きと動いているように見えた現象が、実は止まっている絵を一つずつ見せてくれているだけだと分かるのです。
 実在すると思っていたものごとが全て無常で、絶え間なく変化生滅している断片の繰り返しだけだと分かると、頭は冴え、感動して心が揺れ動くようなこともなく、いつでも平静、冷静でいられます。事実をありのままに捉えて分かってしまうので、観察を終えて日常生活に戻っても「あっ、それはもう分かっていますから結構です」という感じで、無執着・平静でいられます。

 この観(ヴィパッサナー)瞑想は、その座ったり(座禅)歩いたり(経行)する作法が「禅定」と呼ばれる瞑想と似ていて、しかもどちらも集中力を要するものですから、観瞑想がよくできる人は一般の禅定もよくできることが多いのですが、その内容は、視点が全く違うものです。観(ヴィパッサナー)は釈尊が発見・開発された、仏教オリジナルの瞑想法で、瞑想対象の本質を「絶え間なく変化生滅し続ける現象」と捉えます。そこが既に、「全ては無常」と発見した釈尊ならではのものです。釈尊以前の人々には思いもつきませんし、発見もできなかったものです。

 仏教以外にも知られている、いわゆる「禅定」瞑想は、止(サマタ)瞑想と呼ばれます。観と同じく必死に集中してものごとを観察しますが、視点が観(ヴィパッサナー)とは全く異なります。止(サマタ)では、絶え間なく変化生滅し続ける現象を、その生滅する一つずつを次々に観察するのではなく、現象を「変化しないもの」と仮定して、何か一つの対象だけに集中し続け、そこに心を「留める」のです。

 何か一つのものであれば何に集中してもよいのですが、仏教ではその場合も、集中する対象が善いこと・善いものか、欲や怒りを起こさないものであるようにと工夫して、集中してもよい対象を四十種類だけ選んでいます。地要素に集中して土の壁の一ヶ所だけを見つめ続けたり、慈悲の瞑想をして「生きとし生けるものが幸せでありますように」などと頭の中をそれだけで一杯にして念じ続けたりします。

 集中している間は他の出来事に気を取られていませんので、頭は冴え、心も平静でいられます。でも止瞑想を終えて座から立ち上がり、日常生活に戻ってしまうと、その時の集中感覚もなくなってしまいますので、頭も心も、結構日常レベルに戻ってしまいます。観が一緒に具われば、その心配はありませんが。

2ー2 止 (samatha) 瞑想

 止(サマタ)は三昧(samâdhi)とも言われます。止が文字通り「止、滅」を意味するのに対して、三昧(サマーディ)は心を「統一」して「止めること」、また止まった状態を維持する「定」の意味がより強く感じられます。でもどちらもほぼ同じ意味で使われます。

 私もタイトルにも使って、先にも言いましたが、ポピュラーな「禅定」という言葉は、主に禅定全体を一般的に示す場合が多いのですが、これからお話しします釈尊による禅定の九種類の分類の中では、特に最初の四つ、第一禅から第四禅の禅(jhâna)を指す場合もあります。

 これからお話しします「瞑想」とか「禅定」は、止と観の二つの中、皆様がよくご存じの仏教独自の観(ヴィパッサナー)瞑想ではありません。残念! 仏教以前から行われていた瞑想、仏教で言えば止(サマタ)瞑想です。悟りに直結する観瞑想も良いですが、悟りの手助けにもなる一般的な瞑想の修行の仕方、平たく言えば「禅定の入り方」を、釈尊の言葉から教えてもらいましょうと考えています。

3 禅定は誰が始めたの? 

 一般的な禅定は釈尊以前から行われていたと言いましたが、それでは一体誰が始めたものでしょうか?

 お経によれば、釈尊が前世で王様であったり修行者であったりした時は、よく禅定を楽しんでおられたみたいです。今の世界より遙か前の世界の前世でも、禅定などはごく普通に嗜んでおられました。そんな大昔の、宇宙が何回も生まれて滅んだほど前の時でも、禅定は別に釈尊の新案特許というわけでもなく、誰彼となく嗜んでいたように説かれています。

 前世の話でなくても、今のこの地球、今のこの文明の中でも、その当初から人々は禅定を楽しんでいたようです。インド亜大陸北西部のインダス河流域には、今から四千年前、紀元前二千年頃まで、インダス文明が栄えていました。そこでは禅定が結構盛んだったようです。その内容までは分かりませんが、現代のインドのやり方と同じように大樹の陰に座禅を組んで瞑想している人の浮き彫りが、遺跡から幾つか発見されています。

 インダス文明を築いた人々は、インド土着のモンゴロイド系の人々だったようです。アジア大陸の中央部を席巻したモンゴル人の系統です。アジア東部の中国・朝鮮・日本人とも関係が深いです。

 インダス文明は紀元前二千年頃に滅びましたが、西のインダス河に対する東のガンジス河の北岸以北に住む釈迦族などのモンゴロイド系の人々には、その後も禅定の習慣は絶えず伝えられていたようです。

 インダス文明が滅んだ後、紀元前千二百年頃から、西からイラン系のアーリア人が、インダス河を越えてインドに入ってきました。この人々はリグ・ヴェーダという口伝の宗教を、インドに入った頃から紀元前七百年頃までにほぼ完成しました。その後も釈尊が世に出る紀元前五、六世紀までにさらに二つのヴェーダをほぼ完成させました。ただしこれらのヴェーダ文献には禅定とか宗教体験のようなものは何も説かれていません。神話などの他には王様が国や王族の繁栄を願って宗教儀式や祀りをする、または家主が家庭のための宗教儀式をする、その式次第やその功徳などが説かれているだけです。

 儀式・祭祀の執行役だったバラモンたちが後に力をつけて王族の支配を離れ、ヴェーダを聖典とするバラモン教を作り、時代と共に次々にブラーフマナ文献やウパニシャッド文献を作り、さらには長編小説『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』まで作って聖典にして、今あるヒンドゥ(インド)教のいろいろな宗派が出来上がっています。でもそのどれにも、瞑想を説いたようなところは見られません。

 でもヒンドゥ教は現代までに、瞑想をどこかで取り入れたみたいです。ヒンドゥ教の一派のヨーガ学派が瞑想もしています。ヨーガ学派は釈尊と同じ紀元前五世紀頃に始まったと言われていますが、文献がある程度作成されて現在のように整ったのはもっと後の紀元前後かそれ以降のことです。そのヨーガ学派がきっかけになって、ヒンドゥ教でも徐々に瞑想を取り入れたのかもしれません。釈尊より後のことですから、おそらく仏教から取り入れたでしょう。

 アーリア人が入ってから、インド北西部にいた土着のインド人の一部はインド南部に下りましたが、インド北東部のガンジス河流域、特にその北岸にいた部族は、そのままガンジス河北岸に留まっていたようです。釈尊が出た釈迦族の国や、ヴェーサーリを中心とするヴァッジ族の国、カンマーサダンマを中心とするクル国などです。みなモンゴロイド系で、インダス文明以来の瞑想に対する関心も高かったようです。

 バラモン教では、老いて家督を子孫に譲ったら家を出て遊行生活に入ることをよしとします。一般的にもインドでは仏教以前から、独自に出家して様々に修行することが結構当たり前のように行われていました。そのような出家者の修行方法の一つとして、そして在家でも結構、瞑想は行われていたようです。誰かの専売特許ではなく、誰でも先に学び到達した人が後の人に教えていくような、自由な修行だったようです。瞑想の達人も結構いました。

4 お経に出る禅定の達人

 お経には仏教以外、と言いますか仏教以前の禅定の達人のことが、少しだけ説かれています。誰あろう釈尊ご自身が、在家の王子の時代に既に、禅定の第一段階に入って楽しんでおられました。誰かに習ったのかどうかははっきりしませんが、釈尊は前世でもしょっちゅう瞑想していたように説かれていますから、やり方も自力で発見されたのかもしれません。

 釈尊は、出家してすぐに二人の師について禅定を学び、それぞれの師から、当時の最高と最高から一歩手前の禅定をすぐに修得されました。でも結局、禅定に入っている間だけ穏やかでいられ、禅定から出て(出定して)日常生活に戻ったらまた日常の煩悩が戻ってくるのですから、すごろくの一回休みみたいなもので、禅定だけでは煩悩を断つ根本的な方法ではないとすぐに見抜かれました。禅定の師は二人とも、釈尊を弟子としてではなく対等な師として一緒にたくさんの弟子たちを指導しようと誘ってくれたのですが、釈尊はにべもなく断って立ち去ってしまいました。

 釈尊が悟りを開かれてからも、ある禅定の外道師が釈尊と悟りと禅定について問答していた時に、面白い事件がありました。釈尊が第三番目の禅定を説き始めると、その師は、「それは三番目の禅定などではなく最高の悟りそのものだ」と主張したのです。釈尊が、「いいえ、これよりもう一つ上にとりあえず禅定の一区切りがあり、それを超えて、悟りに向かうことができます」と説明されると、その師も弟子たちも、「これで私たちの教えが毀れた、私たちはこれ以上のものを知らないのだ」と嘆いたのです。この外道師たちには、第三禅が最高・最上の境地だったようです。

 このように、禅定の達人は釈尊の時代にも結構いたのですが、どの達人も、自分が達した禅定が世間で噂されていた「悟り」なのかどうか、それどころか、禅定のレベルの中でどの程度のものかまでさえも、知らなかったようです。自分が達したレベルを最高のものと信じて、その代わり熱心に修習してその禅定には何度でも簡単に入れるようにして、それだけを弟子たちに教えていたようです。

 禅定がどんなものか、それにどれだけの段階があるのか、それは悟りとどう関わるのか、全部を完璧に把握して、本来言葉にならない禅定の段階とその内容をきちんとチャートにして教えて下さったのは、今のこの世界では、釈尊ただ一人なのです。

【次回予告】インド伝統の禅定をお釈迦様が完璧に分類されました。それは何段階あるのでしょうか? そしてそれは一体どんなものなのでしょうか? 次回をお楽しみに


HOME初期仏教研究:会員広場→仏教的に正しい禅定の作り方

 (patipadâ 2005.9月号掲載)

第二回  ◎禅定は九段階

5 禅定は何段階?

 ではその禅定とは、どんなものでしょうか? どれだけの段階があるのでしょうか? 

 禅定は全部で九段階に分けられています。それは三つのグループに細分できます。一つ目は四つのグループ。二つ目も四つのグループ。三つ目が、一つだけ異色のものです。

 最初の四つのグループは「色界四禅」と呼ばれます。色界とは、世界を欲界・色界・無色界の三つに分ける時の色界です。五道輪廻の地獄から六種類の天(六欲天)までが欲界。欲界の天よりレベルの高い世界に梵天があり、それがさらに色界梵天と無色界梵天に分けられます。でも梵天も輪廻の境涯です。存在すること自体が輪廻なのです。

 欲界は、眼耳鼻舌身の五つの感覚器官から入る情報や物質的な感覚を楽しんだり苦しんだりする世界です。テレビを見て楽しんだり食事を味わって楽しんだり殴られて苦しむ世界です。

 色界は、身体を作る物質や物質を成り立たせる空間はあるのですが、その物質自体が物質と言うよりもエネルギー状態みたいな余りにも精妙なもので、しかもそこに住む色界梵天たちはその物質から情報を受け取って楽しむのではなく、禅定状態を作るのに物質というか対象に集中しているだけという世界です。人界と欲界天には普通の善業で往けますが、梵天界には禅定に入らないと往けません。それで禅定自体も「色界」禅定と呼んだりします。その色界の禅定に四段階あります。

 無色界には、身体も瞑想の対象になる物質さえもありません。ただ心だけの存在が空間もない状態で何も対象とせず、心だけで瞑想状態でいます。これにも四段階あります。この瞑想状態を「無色界」禅定などと呼びます。
 より厳密に言えば、何かを対象にして禅定を作る色界禅定は、心を対象に集中させて、定めて、静めていますので色界「禅(jhâna)」と呼びますが、無色界には心を集中させる対象・物質がありませんから、心がただ「至った」「達した」状態という意味で無色界「等至(samâpatti)」と言って区別しています。

  5ー1 色界禅は四つ

 色界四禅は、名前で内容が分かるようになってはいません。第一禅から第四禅まで、ただ数字で表しているだけです。ただし内容は、きちんと明確に説かれています。誰がどんなふうにやっても、もし禅定に入れたなら第一番目ではこうなります、第二番目ではこうなります、と釈尊が目印を付けておいて下さったのです。禅定の各段階で、必ずそういう状態になります。ですから、釈尊が第三禅をお話しされた時、その内容を聞いてそれが自分たちの達した最高ギリギリのあの禅定のことだと分かった仏教外の瞑想家たちが、それが実は最高の悟りではないと知らされて嘆いたのです。
 誰がどんなふうにやっても同じ段階の禅定に入れば同じ内容を体験しますが、実は禅定に入る時から既に、心の状態は同じパターンになっています。
 簡単に言えば二つのことがなくなって、色界第一禅に入ります。

 一つは日常の世間的なこと・欲界への執着がなくなること、
 二つ目は悪いことから離れることです。
 心を何か一点の対象に集中させて、日常の欲と悪から切り離すと、色界第一禅に入るのです。

 第一禅は、言葉による思考と言葉によらない思考がある(有尋・有伺 savitakkam savicâram)、あらゆる関わりから離れること(遠離 viveka )で生じる喜悦感(pîti) と幸福感(sukha)に満ちた状態です。

 これはまだ、禅定と言うよりは、一点に集中して欲や悪などあらゆる関わりから無理やり離れて生じた楽の体験というようなものです。それでも、欲界の煩わしさから完全に離れられた状態は、明らかに喜び、幸福です。第一禅の最中では思考はまだはたらいています。

 第二禅は、言葉によるものとよらないものの二種類の思考(尋・伺)が消えることにより内(心)が穏やかになり、心が統一され、無尋・無伺の三昧(samâdhi)から生じる喜悦感と幸福感に満ちた禅定です。

 必死で一点に集中しなくても既に心は統一されていますので、この段階からは本当にリラックスできます。ここで初めて思考作用がなくなります。第一禅の「離れることで生じる」喜悦・幸福に対して、ここでは「三昧(samâdhi)から生じる」喜悦・幸福に満ちると言われるように、厳密に言えば第二禅でやっと、心が禅定(サマーディ)状態に入っているのです。

 ところで、思考作用がはたらいていないのにどうしてその禅定の中身が分かるのでしょうか、説明できるのでしょうか? 禅定の最中は確かにただそれを体験しているだけで、何の説明も思考も心に起こってはいないのですが、その禅定から出て日常の欲界の心に戻った後で、その時の禅定状態の心を振り返って、思考と言葉で説明しているのです。体験が先にあり、それについての思考が後からついてくるのです。

 第三禅は、喜悦感と幸福感の内、喜悦感から離れることから、平安(upekhako)であり、気づきと味わいがあり(sato ca sampajâno)、幸福感を身体で感じ、聖者たちが「平安で、気づきを具えて幸福でいる」と語る禅定です。

 ここでは、心が統一されている禅定の喜びさえもなくなり、ただ平安の幸福感だけを感じています。ウキウキする気分が治まって、落ち着いた幸福感だけになるのです。しかも気づきと味わい(sati,sampajâna サティ・サンパジャーナ)はますます冴え、心は澄み渡っています。この状態を、禅定を嗜んでいた仏教外の人々も「平安で云々」と言っていたのです。

 第四禅は幸福感を無くし、苦を無くし、また既に喜びと憂いが消えていることより、不苦不楽の、清らかな平安に(のみ)気づきがある (upekhâsatipârisuddhim)禅定です。

 喜悦と幸福の内、残っていた落ち着いた感じ・幸福感さえなくなりますと、幸福でなくなるのではなく、それどころか「苦」がなくなります。この「苦」は私たちが欲界で通常味わう苦ではなく、色界禅定の最中にさえ感じる、対象と触れて生じる喜悦感や幸福感などの心の揺れ動きのことです。禅定が進むと、この最高の幸福感さえ煩わしいと感じられるのです。それがこの第四禅で消えるのです。禅定から生まれる喜びも、禅定に関して生じる様々な憂いも、色界最高の禅定に達して既に消えていますから、不苦不楽の平安だけを気づき味わうのです。

 何かの対象に触れても心の揺らぎが起こらない、喜悦感も幸福感さえもなくした平安状態の禅定が、対象を取る色界四禅の最高の状態です。禅定をこのレベルまで達してから、釈尊は最高の阿羅漢果に達しました。同様に色界第四禅から悟りを開いたお弟子さんたちの話も、お経にたくさん残っています。

  5ー2 無色界等至は四つ

 平等・平安の悟りの方向ではなく、禅定をさらに進もうとするなら、色界を超えて、何も対象を取らない無色界等至に進むしかありません。

 五番目に、対象に対する意識(rûpasaññâ)を完全に超え、(対象に)触れるという意識(patighasaññâ)をなくし、あれこれ定まらずに意識することも止めて、「虚空は無辺である」という空無辺処に達します。

 この五番目からが無色界の禅定・無色界等至 (samâpatti)です。喜悦感も幸福感もなくなり、ただ平安だけを気づき味わう色界第四禅の段階から、心が何かに触れることさえなくして、ただ、虚空が限りないという心の状態に到達します。壁などで仕切った「空間」ではなく、遮る「もの」が本当に何もない「虚空」だけが限りない、何にも対象にぶつからない心の状態です。

 六番目に、空無辺処を完全に超え、「識は無辺である」という識無辺処に達します。
 「物質対象に何にも触れない、触れない」と外に心を向けていた空無辺処から、逆に心そのものに心を向けて、心自体が、何にも遮られることのない、限りないものだと、対象に触れず、ほとんど揺れ動きもしない心だけを、ただ味わいます。

 七番目に、識無辺処を完全に超え、「何もない(空)」という無所有処に達します。
 心だけ、ということさえ意識しない「何もない」状態の禅定です。

 八番目に、無所有処を完全に超え、非想非非想処に達します。
 何も意識しない心さえなくしてみようと、意識はおろか、意識しようとする衝動「想(saññâ)」さえ起こさせない、でもそれさえも完全に起こらないのは心自体が滅することでちょっと不可能で、実際には想が起こるのか起こらないのか分からないほど微かにして、もちろん意識などは全く起こらない状態にまで達します。

 世俗的に言えば仮死状態のような、意識しようとする衝動さえ起こさないよう抑えられている禅定が、この、色界禅定を超えた無色界等至の最高の状態です。

 このように始めは何かの対象を通して四段階、次に心だけで四段階、心を制御する禅定が、合計八種類あります。

  5ー3 苦も楽も感じないのが究極の楽?

 八種類の禅定を駆け足で見てきましたが、何だか変な話ではないかとお思いになったでしょうか? 禅定に入ってこーんな楽しいことやあーんな嬉しいことが味わえるのではないかと期待していたのに、第一禅定の最初っから、いきなり世間の楽しみを全部離れないといけないなんて、がっかりなさいませんでしたか? 
 しかもその後も、禅定の段階が一つずつ上がる度に、何かポイントとかご褒美とかが一つずつ貯まるのではなく、それどころか全く逆に、思考作用が消える、喜悦感が消える、幸福感が消えるなどと、一つずつ、感覚がどんどん消えていくのです。無感覚で無感動で、それで何か面白いのでしょうか? 

 これは実際にその段階に達した人だけに分かることですが、禅定に入ると、欲界世間の楽しみは確かに煩わしいものだと感じられるそうです。卑近な例で申し訳ありませんが、何の物音も聞こえない山奥の湖畔に佇むと、一流ホテルでのパーティの華やかさが煩わしく思い出されるようなものです。苦はもとより楽さえも、しっかり観察して味わうと、「苦に他ならない。捨てるべきものだ」と分かるそうです。

 そんなわけで、禅定の段階が上がる度に、味わうものが一つずつ消されていくのです。究極の禅定は、想自体さえ、はたらいているかいないか分からないほどの、何ものにもほとんど触れない「楽」です。

 色界四つと無色界四つの八種類の禅定は、釈尊より前から知られていました。釈尊は無色界等至の最後の二つ、七番目と八番目を、出家してすぐに習い、すぐに修得したのでした。それでも、その禅定から出ればまた元通りの心の状態に戻るのです。釈尊は、これら八つの禅定全てを、「現世で楽しむためだけのものだ、執着するな」と、教えておられます。

 その一方で、禅定に入れるほど心を集中できるなら、心の力が強いなら、それだけ早く、簡単に、悟りの各段階に達することができるのも事実です。禅定を楽しむだけでは欲が増えるだけで悟りはかえって遠退きますけど、禅定に入れるほどの集中力で観(ヴィパッサナー)瞑想をして、全てのものごとの絶え間ない生滅変化・無常をありのままに捉えられたら、悟りはとってもスムーズに達せられるのです。禅定は、悟りの助けのためには大変有効な修行です。

  5ー4 滅尽定は悟りの体験

 最後に九番目の禅定を説明しないといけません。これだけは、今の世界では釈尊より前には誰にも達せられていませんでした。想受滅とか滅尽定などと呼ばれていて、想がはたらいているかどうかも分からない非想非非想処からさらに進んで、想で全ての触れることの滅を感受して、それでお終いになるのです。後は滅だけで、想もない状態です。全ての感受を断ち切った、究極の「楽」です。

 お経では簡単に、他の無色界等至と同様に「非想非非想処を完全に超え、想受滅に達します」とだけ説かれますが、実はこれができるのは、完全に悟って阿羅漢になった人だけです。最初の八つの禅定は感受を減らしていくもので、悟っていない人でも瞑想の達人なら達せられるものですが、この九番目の想受滅だけは、減らすだけでなく、滅するという、レベルの違うことをするのです。

 まず悟りを開いて、その人が禅定も得意なら、色界四禅から無色界四等至を経て感受を減らして減らして、最後にレベルを乗り越えて、この九番目の滅の禅定に達することができるのです。感受を完全に滅する想受滅は、「全てのものごと・現象が無常であり、絶え間ない生滅の繰り返しに過ぎない」と自分の力で発見し悟りを開いた阿羅漢、「滅」を自ら捉えた人にしかできないのです。

 九番目の想受滅は、瞑想とか禅定という言い方が当てはまるかどうかさえちょっと分からない、悟りの追体験なのです。何も感受しない、本当に滅の状態です。意識はもちろん、意識したいという衝動・想さえなくして、想によって何かが感受されることさえ滅した状態です。

 悟った人は最長七日間、想受滅の状態のままで居続けられるそうです。想受滅の間は何の心のはたらきもありませんから、その最中にそろそろ出定しようかなどと考えることもできません。どのくらいの時間想受滅に入っているか、いつ想受滅から出定するか、想受滅に入る前に予め決めておきます。時間が来たら、レンジでチーンとするみたいに自動的に心がはたらき始めて、また欲界の日常の心にまで戻るのです。

 想受滅では心の状態に連動して、身体のはたらきもその間ほとんど止まります。飲食や排泄はもちろん、呼吸さえほぼなく、細胞の活動自体がほぼ完全に休止します。身体に絶え間なく起こるはずの活動・変化がほとんど起こりませんので、硬いお地蔵さんのような状態になります。「時間よ止まれ!」などと言ってヒーローが活躍する時は、止まった人々や動物や落ちかけのお皿などが全部カチンカチンに固まって止まっているように描かれていますが、あんな感じです。実際には時間なんかはなく、絶え間なく連続する「変化」があるのですが、その変化がほとんど起こらない身体は、カチンカチンなのです。

 樹下で想受滅に入っていたあるお坊様を見た町の人が、そのお坊様が亡くなったのだと思い込んで火葬にしようとして、動かない身体の周りに薪を積んで一昼夜燃やし、翌日骨を拾いに行ってみたら、ちょうど想受滅から出定したお坊様が身体に付いた薪の灰を払い落としているところに出くわして腰を抜かしたという出来事がお経に記録されています。
 想受滅まで達せられると、悟りもOK、禅定もOKで、言うことなしになります。

【次回予告】
 禅定がどんなものか、これでばっちり明らかにされました。でもその禅定に、一体どうすれば入れるのでしょうか? 次回いきなり最終回『五力でひらく、禅定を通じた悟りの世界』をお楽しみに


HOME初期仏教研究:会員広場→仏教的に正しい禅定の作り方

 (patipadâ 2005.10月号掲載)

第三回  ◎五力でひらく、禅定を通じた悟りの世界

 6 禅定はどうやって作るの?

 禅定を全くしないまま観(ヴィパッサナー)瞑想だけで阿羅漢にまで悟った人は、最後の想受滅にだけは入ることができるでしょうか? これは無理なようです。先に阿羅漢までなっても、ただの禅定フリークの凡夫でも、瞑想する時は、必ず色界第一禅から始まって、徐々に段階を上がり、凡夫の最高は第八の非想非非想処まで、阿羅漢は想受滅までとなっています。

 順番抜かしはできません。エレベーターとかエスカレーターなどと同じで、どんなに速く、瞬間的に最上階まで達したように見えても、実は一階から順番に上がっているのです。

 しかも禅定の段階を上るのは、実はエスカレーターではなく階段のようです。悟りなら第一の預流果に達しさえすれば、後はいつか必ず阿羅漢に達するのですが、禅定は、色界第一禅で止まる人もあり、無色界最初の空無辺処で止まる人もあり、本人の興味や努力や特質によって様々のようです。しかも禅定は悟りと関係なく、悟りに達する助けにしかなりませんので、釈尊も、禅定はできてもできなくても悟れば何も問題ないと思っておられたようです。

 色界第一禅からは本人次第で少しずつ段階を上がっていけばいいのですが、そもそも禅定に全く達したことのない人が、どうやって色界第一禅に入ればいいのでしょうか? これは結構手探りの、大変な問題でしょう。

 禅定に入るための心身の準備は、悟りに至る観瞑想をするための準備と共通する点も多いですので、釈尊は丁寧に説き残しておられます。

 禅定に入る準備についての最も簡単な説明は、「欲と不善を離れる」ことです。私たちが今関わっている欲界への執着を離れないと、色界以上の禅定の世界には心が向きません。欲に基づくものも怒りに基づくものも無知に基づくものも、不善は当然心の成長の妨げになります。「欲と不善を離れて色界第一禅に入る」のが、最も簡単な入定の説明です。おそらくこれは、仏教以外の人々がただ禅定に入ろうとする時にも最低限クリアしておかないといけない項目でしょう。でもこれだけでは、まだちょっと分かり難いです。

 仏教でない禅定の場合は、後はもうただ、何か一つの対象に集中して一心不乱になって集中が定まった時、禅定に入れた、というくらいの説明しかないと思います。しかも仏教でない場合は、禅定から日常生活に戻ればどうせまた欲界への執着も不善も起こってきますから、根本的な解決には何もなりません。

 禅定に入るための心構えとかやり方がもう少し詳しく示されていて、しかも一旦禅定に入るのに成功すれば、ついでに悟りの一部も発見できて、心が成長し、もう二度と欲や不善に戻らなくて済む。釈尊は、そんな仏教的に正しい、悟りに導く禅定の作り方というものも説明しておられます。釈尊ご自身が禅定に入ってから悟りを開かれた時の体験を語ったもの、そして比丘たる者はこのように修行して悟るべきだと指導するものが、お経には幾つも見られます。どのお経にもほぼ同じ内容の項目が説かれていますので、最も詳しい説明がどんなものか、よく分かります。しかもその内容を一つ一つ実践していくなら、万一禅定に入れなくても悟りだけは開けるという、仏教的には圧倒的に正しい心になるようにプログラムされています。「仏教的に正しい禅定の作り方」は、実は禅定そのものの体験を目的とするものではなく、禅定を使ってなるべく楽に悟りましょうという悟りへのプログラムの一環なのです。

 仏教的に正しい禅定の入り方は、悟りを開くために必要な力でもある信・精進・念・定・慧の五根(五力)に沿って、以下のように説かれています。

 6ー1 発心する(信)

 仏教的に正しい禅定の入り方は、まず聞法と信から始まります。

 仏陀が世に出現した大事件があり、仏陀の教えを聴いた人が仏陀に対する信を得るところがスタートです。見るだけでも光り輝いて堂々としていて圧倒的な迫力のある仏陀を、ありがたやありがたやなどと拝むような「信仰」ではなく、その教えを聴いて、「あっ、この教えなら本物だ」と納得する「確信」です。教えとセットの信です。

 これが禅定に入るためのスタート地点です。悟りに向かう最初の段階でも、仏陀の法(教え・真理)に随って進むタイプと仏陀への信に随って進むタイプの二種類が説かれますが、禅定を目指す場合も、仏陀の教えに沿って、同じ心構えで始めるのです。禅定と言いながら怪しげな神秘体験(のような錯覚など)に決して迷わないよう、決して悟りの道を外れないよう、最初から真理を信じ目指す道標をしっかり付けて、それから修行を始めるのです。仏陀と法への信があれば、道に迷いかけたり、全然進まなくて諦めたくなった時、ゴールはこちらという道標が必ず示され、いつも正しい方向に修正してくれるのです。

 6ー2 戒を守る(精進1)

 お経には、発心した人はまず出家して、完全な戒・具足戒を守ると説かれます。正確には「戒律条項(パーティモッカ)による防護に守られ」ます。

 堅苦しい戒律を修行者が必死に守るのではありません。戒律を守り、戒律に沿った生活をすることによって、そのような生活をする修行者自身が、戒律のお陰で様々な障害や困難を避けることができるので、戒律がそれを守る人を防護することになるのです。嘘だけは決して言わない人、殺したり盗んだりなどは決してしない人は、誰からも嫌われず恨まれず、誰からも信頼され支えられますので、戒律を守る人が戒律に守られていることはよく分かります。

 現代の在家者である私たちの場合は、いきなり家族も財産も全部捨てて出家するわけにもいきませんから、在家の五戒を守るくらい、やってみてはいかがでしょうか。「蚊の一匹も殺さないぞ」と頑張ってみる。ついパチンとやっちゃったら、懺悔して、また頑張る。どんなものも勝手に自分のものにしない、不倫もしない、嘘もつかない、酒も飲まない。踏ん張って、ちょっと失敗したら、懺悔して、また頑張る。それだけでも、世界がこれまでとガラリと変わるように感じられるでしょう。

 6ー3 足るを知る(精進2)

 戒律は主として言動に表れるものですが、それをただ守るだけでなく、心の中も戒に沿った穏やかな状態になっておく必要があります。少欲知足の、満足した心です。出家した場合は、身を保つだけの衣と腹を保つだけの托鉢食に満足し、衣鉢だけを所有してどこにも頼らずに生活します。

 在家では、家財道具や衣服をわざわざ処分する必要はありません。それらに執着しない心、「あるんだけどなくてもいいや」という心の状態になることが大切なのです。食事も「もっともっと」と満腹まで食べるとか食べ放題で無理やり詰め込むのではなく、「あっ、このくらいでいいや」と、適切なところで箸を置き、終わりにできる心が大切なのです。空腹過ぎてもいけませんが、満腹でも瞑想はできません。
 この少欲知足の項目は、次の六根防護の後に説明されている経典もあります。面白いことに、中部経典で禅定の入り方が説かれる三つのお経では全てここで説明し、十二個もある長部経典では全部、次の六根防護の後に説明されています。今は私が信・精進・念・定・慧の五根五力に対応させていますので、少欲知足を、並びが良いここで説明しました。

 6ー4 六根を防護する(念1)

 戒で言動を守り、衣鉢だけの生活で心を守り満足すると言いましたが、それはどのようになされているのでしょうか。私たちの行為は全て身体か言葉か心によるものですが、この身語意の三業をきちんと制御して満足して、いつも心穏やかな状態でいると、戒を守り戒に守られ、満足して生活していられます。その状態は、禅定に入る準備ができている状態と言えます。

 戒に沿い、満足している穏やかな心を作るためには、やはり釈尊が発見された仏教独自の修行法・観(ヴィパッサナー)瞑想が必要になります。「次々にサティ(念 sati)を入れる」などと言いますが、禅定に入る際にも、一つ一つの現象をそれと気づき、確認し、ものごとを常に正確に把握してしっかり目覚めた状態でいる必要があるのです。

 観(ヴィパッサナー)瞑想そのものでは、中部にも長部にも入っている『念処経』に説かれるように、全ての現象を徹底的に観察してその全てが生じては滅する無常のものだという事実を発見するまで進みますが、禅定に入るための念は、心が乱れないようにする程度でも充分です。身語意の三業として表れる全ての行為の原動力となる、ありとあらゆる入力・情報にしっかり気を付けていれば、心も業も管理できます。日本国に入りたがる麻薬を、港や空港でしっかり気を付けて見張るような感じです。

 私たちに情報が入る入口は、眼耳鼻舌身意の六つの門(六根)のどれかです。この六ヶ所から入る情報をきちんと確認し把握し管理しておけば、それに基づいて身語意で何かする時も、管理しきれずに暴走するなどということもなく、穏やかな心、穏やかな言動で行うことができます。

 六根から入る情報を、どのように制御すればよいのでしょうか。例えば眼から入る情報を制御するために、眼をつぶればよいでしょうか? しかしそれでは書いたり読んだりできませんし、歩く時ドブに落ちたり車に撥ねられたりして痛い目に遭いますから、心が穏やかになるどころか、日常生活が不便になるだけです。しかも眼からの情報が入らない分、耳や身体など他の入口からの情報で補おうとして本能的に情報を掻き集めますので、結局情報量は変わりません。

 リラックスルームなどで仮に眼耳鼻舌身の情報を全部遮断できても、最後の意・心が頑張って一人で活発に妄想して情報をたっぷり作ってくれます。かと言って、頭をぶん殴って気絶しても意識は僅かに動いていますが、その状態では禅定どころか日常生活もできません。そういうわけですので、入ってくる情報を遮断しようとしても、何の解決にもならないのです。

 六根から入る情報は入らせておいて、自分の心がそれに囚われないようにすればよいのです。そのためには、絶え間なく起きては消える現象を、ただそのままにしっかり確認して、入った情報によっていろいろな感情を起こさないことがポイントです。

 眼から入る情報は、ただ色、色、色と確認する。「ああ美人だ」とか「赤い車だ」などと詳しく知ろうとして一つの情報を追いかけたりしないのです。「ああ美人だ」と見たら「声を掛けたい」とか「お付き合いしたい」とか妄想がどんどん膨らんで、現実から離れてしまいます。その間にも現実は絶えず起こっては消え起こっては消えていますので、妄想に囚われて苦しむだけでなく、その間に現実を見失って苦しむことにもなってしまうのです。

 眼で色を見る時は、起こっては消える現象をただ色、色、色と見る。それが眼を守り、心や業を守って穏やかにするのです。

 耳から入る音は音、音、音と確認する。鼻から入る匂いは匂い、匂い、匂い。舌から入る味は味、味、味。身体から入る感触は感触、感触、感触。心から入る考えはものごと、ものごと、ものごと。このように、六根から入る情報を、ただ「情報だ」としっかり確認して、そのどれ一つにも囚われて引きずられて現実の現象から離れないように気を付けていると、六根を守り、身語意の三業を守ることになるのです。

 6ー5 行住坐臥の全てを正知する(念2)

 しっかり気づく・確認する念(サティ)に必ずセットでついてくるものがあります。確認する一つ一つの現象をしっかり味わっていること(正知 sampajâna)です。念・正知 (sati - sampajâna) で一セットです。正知(サンパジャーナ)も念と同じく、本当は観瞑想です。

 歩く時は歩いていると気づいているだけでなく、その感覚をしっかり味わってもいます。他のことに気を取られず、歩きを気づき、歩きを味わうのです。何かを見る時は、見ていると気づき、その色形を、執着せずに「色形だ」としっかり味わっています。手足を伸ばす時も食べる時も話す時も寝る時も大小便をする時も、行住坐臥の行為全てを、一つずつしっかり気づいて、しっかり味わっています。そこまで一つ一つの現象に集中していれば、その心は禅定に入る準備ができています。

 6ー6 禅定に入る体勢を作る(定)

 禅定に入るためには一つの対象に集中し続けることが大事ですから、念・正知で心が集中して目覚めているなら、次は、瞑想を持続できる体勢を整えないといけません。長時間、楽に集中していられる体勢を調えることが、禅定には大切なのです。

 出家の場合は托鉢して食事を済ませてから、在家の場合は空腹でもなく満腹でもない状態で、とにかく体の調子がちょうど好い状態であることが大事です。寝過ぎも寝不足も良くなく、用も足しておかなくてはなりません。その上で、どこか静かな場所を選んで、

 結跏趺坐し、
 背筋を真っ直ぐに保ち、
 身体の前側に念を凝らします。

 前側に念を凝らすとは、気持ちを『正面に据え』て、禅定に真っ正面からドーンと取り組むということです。呼吸を数えることも、お腹の膨らみ縮みや鼻孔に空気が触れるのを観察することも、全部、気持ちの上でも身体的にも、身体の前面で行なうことなのです。この、禅寺などでお馴染みのスタイルが、禅定修行の王道の形です。しかもこれは、集中が持続できる良い体勢ですから、観瞑想をする時にも使われます。

 結跏趺坐が身体が最もふらつき難い姿勢ですので、それがベストですが、できなければ半跏趺坐でも正座でも、椅子に腰掛けても良いのです。ただ、どのように座っても、背筋だけは真っ直ぐになっていないといけません。ダルマ落としの準備をするみたいに、背骨の円盤一つずつを下から順に積み上げて、そのてっぺんに頭蓋骨を真っ直ぐに置くのです。後は、瞑想が終わるまで決して動かないぞと心を決めます。

 そうして、身体の前面に念を凝らして、出たり入ったりする呼吸など何か一点に心を集中します。

 6ー7 五蓋から心を清める(慧)

 禅定に入る体勢ができたら、悟るにも禅定に入るにも妨げとなる、心に覆い被さる五つの蓋を心からぐんぐん取り除きます。五蓋は「智慧を弱くする心の付随煩悩」とも呼ばれ、禅定に入る際はもとより、智慧が現れて悟りに達するためにも、大いに妨げになる心の覆いです。体勢を整えて、現前の対象に集中し、念・正知を具えて信・精進・念・定・慧の五根(五力)を今こそフルに絞って、この五蓋を取り除きます。そうすれば、禅定はもとより、悟りももう目の前です。

  1. 激しい欲を取り除き、
  2. 激しい怒りを取り除いて慈しみの心を作り、
  3. 昏沈・睡眠を取り除いて光り輝き(光明想 âlokasaññâ)を作り念・正知を具え、
  4. 掉挙・後悔を取り除いて静まった心にし、
  5. 教法に対する疑いを取り除きます。

 欲と怒りは、何かに集中すれば自然に除かれます。欲はただ静まるだけでよいのですが、怒りを静めるには、正反対の心・慈しみを心に作れば、簡単に相殺されます。慈悲の瞑想をすればよいのです。

 ぐんぐん集中していると、眠気は自然にスカッと晴れます。頭が冴え渡って、周りが光り輝きます。目で見るような光はなく、眩しくも薄暗くもなく、ただ、はっきりと「明るい」のです。もちろん、その明るさをも正しく念・正知しています。

 禅定の準備がうまくいくと浮つきますが、それも心の乱れですので、注意して浮つかないようにします。反対に「うまく行かないなあ」などという気持ちも取り除いて、「うまく行こうが行くまいが、ただやるだけ」と心を定めます。

 定まった心はきちんと結果を出しますので、「やっぱりこの教えで正しかった」と確信して、釈尊の教えに対する疑いや不安も消し飛びます。

 五蓋は智慧を弱くする煩悩ですから、それが取り除かれれば、自然に智慧が現れてきます。

 五蓋を取り除く中で、観瞑想のポイントである念・正知を具えるとも説かれていました。さらに、取り除かれる五つ目の蓋は、教法に対する「疑い」と説かれていました。「疑」は、預流果で滅する三つの煩悩の一つです。このように、五蓋が全部取り除けましたら、禅定の第一段階はもちろんグッと近付きますが、それだけでなく、観瞑想にも熟達し、観で断つ無知の煩悩を断って、悟りの第一段階にもグッと近付くのです。

7 禅定、そして悟りの段階に入る

 五蓋を取り除くところまでできたら、満足が生じ、喜びが生じ、身体が軽くなり(kâyo passanbhati 身軽安)、楽を感じ、心が統一されます(samâdhiyati)。

 「ああ、これで満足した」などと理屈で満足するのではなく、満足感が湧いてくるのです。喜悦感も湧いてきます。身体から体重「感」がなくなって、無重力になったような感じになって、立ったり座ったりしている時に感じていた筋肉や骨の負担がなくなります。その状態はもちろん楽であり、心が統一されたからこそ生じたものです。

 五蓋を取り除いたこの段階で心が統一(サマーディ)されると言われていますように、まだ欲界の状態ですが、心は禅定にグッと近付いています。後のアビダルマや註釈書では、このような禅定直前の統一された状態を近行定(upacâra-samâdhi)と呼んでいるようです。禅定に近接した心の状態です。

 ここまで準備ができると、禅定までもう一息です。あとはこの集中状態を保ち、より強くして、先に言いましたように、「欲(界への執着)と不善を離れて、言葉による考察と言葉によらない考察のある、あらゆる関わりから離れることから生じる喜と楽のある第一禅に達します」。これでめでたしめでたしです。

 第二禅は第一禅を達成するために辿った道を繰り返して、今度は、素晴らしい第一禅の状態でも煩わしいなあと感じて、もう一つ何かの接触を、それは思考ですが、その思考を取り除いて、より静かな心の状態に持っていくのです。第三禅以降も同じ要領で、直前の禅定から一つずつ構成要素を取り除いて、より静かな、より何ものにもぶつからない状態にしていきます。

 仏教外の修行者も一つの対象に集中し続けていれば禅定には入れるのですが、これまで説かれてきた「仏教的に正しい」禅定の入り方で準備をしますと、集中しながらいつの間にか念・正知の観瞑想も身に付き、絶え間なく生滅する現象を捉えて無常を一部でも観じ、智慧が現れて悟りへの道も開かれるという仕組みになっています。悟りへの道を進むために必要不可欠な資質である信・精進・念・定・慧の五根(五力)を禅定に入るためにも鍛えて禅定に入るのですから、悟りへの道が開かないはずがありません。

 釈尊は、釈尊以前からあった瞑想修行や禅定を、一方ではただこの世で楽しむだけの無用のものと斥けながら、他方では、正しく学べば悟りへの早道になるものですからしっかり利用して、決して道を踏み外さない正しい指導マニュアルを作って、お弟子たちにも勧めておられたのです。「仏教的に正しい」瞑想指導に従って修行すれば、禅定の楽はもとより、悟りにまでも導いてもらえる、巧みな説き方になっています。

 というわけですので、私たちもぜひ、このマニュアルに沿って禅定にチャレンジしてみませう。禅定と悟りと一石二鳥で手に入ること間違いなしです。
(了)


【著者】藤本晃(慈照)
   学習院大学哲学科卒。龍谷大学とカナダ・カルガリー大学修士課程を経て、広島大学博士課程修了。文学博士

HOME初期仏教研究:会員広場→仏教的に正しい禅定の作り方