智慧の扉

2011年4月号

冥想に「期待」は禁物

アルボムッレ・スマナサーラ長老

冥想とは、自分のいまの状況を破って前に進むことです。決して、妄想に浸ることではありません。冥想では、妄想の放し飼いは禁止です。実況中継という鎖で、つねに自分を縛り付けてください。「修行とは野生動物をロープで繋ぐこと」と経典にもあります。逃げようとするこころを実況中継で止めようとするのですから、初心者にとって冥想はきつい仕事です。野生のクマを捕まえているのだ、という気持ちでやってみて下さい。

最初は暴れていたクマも、やがて「大人しくしていた方が楽だし、餌ももらえる」と理解するようになります。人間のこころも同じです。妄想に逃げるのはやめて落ち着こうと決めたところで、幸福感が生まれてくるのです。冥想する人は、 やがてこの上ない精神的な贅沢を感じるようになります。お釈迦様は、「樹の下で寝ている私は、コーサラ国の王様よりも贅沢を味わっているのだ」と仰っています。

しかし、我々が自分の汚れた思考で「冥想の幸福感」を期待しても意味がありません。修行では、何かを期待する、ということは成り立たないのです。覚りとは当たり前のシンプルな事実に気づくことです。「禅定に入りたい」などの期待を持つと、さまざまな固定概念に邪魔されて、小さな当たり前の事実に気づけなくなります。冥想についてあれこれ悩むことは、こころにとって毒なのです。ほんの少しでも自分の思考が混ざると、道はかなり遠くなります。自己評価は「自我評価」です。自我の幻覚を破る仏道とは正反対ですから、その場でアウトになってしまうのです。