智慧の扉

2011年6月号

なぜ「ありのままに観る」のが難しいのか?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

ヴィパッサナー冥想を実践して「ありのままに観る」ことは、人間にとって究極的に難しい事になっています。本当は信じられないほどシンプルな仕事のはずなのに、それがなかなかできない。冥想の指導をすると、皆さんは膨らみ縮みの実況はつまらないことだと思ってしまうのです。実況中継を嫌がるのです。もし私が「呪文を唱えながら歩く冥想しなさい」と言ったら、きっと一生懸命やると思います。宗教的な気持ちになって、気分良くやるでしょう。

なぜ単純に「左足、上げる、運ぶ、下ろす」と実況中継できないのでしょうか。なぜ実況中継をつまらないと思ってしまうのでしょうか。それは、生きることに、「もっと深遠で神秘的なものがある」と思い込んでいるからです。捨ててほしいのは、その思い込みです。冥想では、まずその思い込みを捨てて、客観的に具体的に、自分が何をしているのか観察してほしい。ある時間を区切って「生きるとは何か?」とサンプルをとってほしいのです。

三十分どこかに腰をかけているとする。その三十分も「生きている」ことです。余計なことを止めて、シンプルにその三十分を生きてみる。その時間、実際に何をしているかと調べてみるのです。

膨らみ縮みなどの観察をつまらないと感じるのは、私たちが「無知」だからです。いまの瞬間には「膨らみ縮み」しか存在しないのです。「つまらない」と妄想するのは、存在しない過去・将来と遊んでいる証拠です。それは、空想上のペガサスをまじめに探すようなものです。妄想は「いま」の事実と関係ないのです。

存在しない過去や未来に捉われることなく、いま一秒という瞬間を生きることに挑戦してください。