智慧の扉

2016年1月号

“祈り”のしくみ

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「祈り」というものは古くからある習慣です。意味としては、希望・願望・期待ということです。祈ること自体は、宗教に関係なく人間はやっています。宗教では祈ることが主な行為です。「いま現在、自分にない何かがこれからあってほしい」と思う、希望することが祈りの定義となります。

 いま自分にあるものは決して祈らないのです。例えば、目がある人が「神様、どうか私に二つの目を下さい」とは祈りません。「私の目の病気を治してください」とは祈ります。その時は目が病気で、いま健康ではない。すると、すぐに目を治してほしいと願うのです。祈りの定義というのは、そういうことです。別な言い方をすれば、「将来自分に現れる状況を、いま企画する」ということになります。
 
 祈りの種類としては、①「他人に祈る」。一般的に誰かに「頼む」ということがあります。これは誰でもやっている普通、当たり前のことです。何でも自分一人でできるわけではありませんから。
 
 次に、②「観念的なものに祈る」。神などの対象に自分の希望を発表することです。この場合、対象が具体的ではありません。お不動様でも観音様でも大日如来でも誰でもいいことになります。対象の造形や観念を作ったとしても、自分の希望を発表するだけです。
 
 私たちは①の祈りができなくなった場合に②の祈りをすることになります。②の祈りは、制限なく何でも祈ることができるのです。
 
 最後に、③「自分自身に祈る」。これもよくやることです。目的に達するために自分自身を奮い立たせることです。自己暗示や奮起するということが、これに当てはまります。自分自身に祈っているのです。これも自然なことで、全然変なことではありません。
 
 ①と③は、おかしなことではありません。しかし、②は怪しい。仏教では、得体の知れない対象に祈ることはありません。

 しかし、「祈り」とは人間が心でやっていることなので、そこには心理学的な働きがあります。ですから、“祈り”がどういう心の働きなのかと、仏教心理学で理解した方がいいと思います。
 
 すべては心で行っていることです。私たちは自分の心に語りかけているのです。そうすると心が答えを出します。心が指令しているのです。ですから、神秘的にではなく、理性的に心の働きを理解しましょう。すべては心の働き以外のなにものでもありません。