智慧の扉

2016年8月号

聖なる理性と死の観察

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 一応、人間にも理性と言えそうなものが備わっています。だからこそ、世の中に科学や数学などがあるのです。さまざまな学問分野のなかでも、理系の学問はおおむね論理的にできています。ということは、人間にもそれなりに理性があるのです。
 
 しかし、それらはみな「汚れた理性」なのです。すべては生きるためのカラクリで、存在欲を満たすためにやっていることです。飛行機や車をつくり、無数の電気製品をつくって現代的に生きていると自慢したとしても、すべては生きるためでしょう。ですから、まったく同じ場所でグルグル回っているだけなのです。いくら科学技術が発達したと言っても、われわれの問題は消えていません。年は取るし、病気にもなるし、死ぬし、また生まれてしまうし、輪廻の苦しみはなにも解消しないのです。世俗の理性は、お釈迦さまのように革命的に「生」を見直すときに現れる「聖なる理性」ではないのです。

 問題を解決するには、ただの理性ではなく「聖なる理性」が必要なのです。聖なるとは、「優れた」という意味です。私たちがこころに革命を起こしたければ、適切なガイドブックが欠かせません。世の中を見渡しても、それは仏法以外にないのです。これからも、仏法というガイドブックなしにこころの革命は起こりません。「聖なる理性」の持ち主、つまり聖者は仏道のなかにしか存在しないのです。
 
 このガイドブックの重要項目に、「死の観察」があります。私たちの脳には「死」を理解する能力がないのです。ですから、なんとしても「死ぬ」「瞬間・瞬間、死んでいる」ということを観察して、こころに叩きこむことが必要です。死は、生命が決して認識したくない現実です。一般の認識次元では、死を認識することは不可能です。認識次元を破らないといけないのです。

 仏道を歩む人は、「死」という想・概念を育てることで、俗世間的な認識次元を破ることに挑戦します。もし「死」を認識することができたならば、その人はもう一般人ではありません。輪廻の苦しみを超越した、聖者になっているのです。