智慧の扉

2016年9月号

不浄を観る

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 誰も自分の肉体が不浄であると思っていません。強い愛着があります。こころは肉体を褒め称えて、「価値のあるものだ」とするのです。みんな、いろんな健康法を試していますね。それは肉体を可愛がってあげている証拠なのです。

「不浄(asubha)」とは、「『良い・素晴らしい・価値ある』ものではない」という意味です。わたしが使う単語は「生ゴミ」です。肉体を生ゴミだと思ったらどうでしょうか。きちんと観ると、生ゴミでしょう。なぜ貪瞋痴の感情でラベルを貼るのでしょうか。本当は生ゴミなのに、「世界一の宝物」という価値を入れている。それは単なるラベルに過ぎません
 
 不浄という見方によって、私たちの思考パターンは未だかつてない方向に変わるのです。どんな生命でも自分の肉体を「良いもの」と高く評価します。犬や猫、ミミズでさえも自分の肉体を高く評価しているのです。
 
 そこでお釈迦さまは、肉体を高く評価するのではなく、「価値がない」ものと観る、まったく反対のアプローチを取るのです。正反対に観ることは、おかしなことでしょうか。いいえ、私たちの見方のほうがおかしいのです。私たちの脳・理性では、肉体には「価値がある」としか見えないのです。ですから、肉体の中身を観察して、本来のラベルを貼るのです。現実には、肉体はすぐに腐って、すごい悪臭を放つものなのです。
 
 私たちの汚れた理性では、肉体に愛着することしかできません。ですから、汚れを除かなければいけないのです。不浄で観ることは、そんな難しいことではありません。やってみれば幻覚の世界から抜けて、突然、現実の世界があらわれます。

「肉体は不浄である」と真剣に観察すると、制限された認識の次元を超えることができるのです。例えばシャチにできるのは海で生きるのに必要な認識だけで、その制限を超えられません。人間には人間の認識制限を超えられません。しかし、認識機能を知り尽くしたお釈迦さまが教える「肉体は不浄である」という観察によって、その制限を超えることができるのです。肉体にべったりと依存しているこころが自由になるのです。これは認識次元を超越し、智慧を育て、直ちに解脱に達するための訓練なのです。