智慧の扉

2017年4月号

「正見」とは見解がないこと

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 意見・知識・見解とは、存在欲を支えるものです。私たちは「この人が言っていることはおかしいぞ」「あの人の意見もおかしいな」「この人の知識レベルは少しマシだ」「あの人の見解は素晴らしい」というように、いろいろな主張を取捨選択して、何かしらの意見・見解を自分のものにしようとするのです。

 しかし、お釈迦さまは「見解はすべてゴミ」と言っています。仏教は、どんなゴミを捨てて、新たにどんなゴミを拾おうかという話には興味がないのです。あなたはどんなゴミを家に持ち帰るべきでしょうか? ゴミという時点で、家に持ち帰るべきものではありませんね。

 仏教は知識の遊びではありません。仏道とは、生命の本能である存在欲を乗り越える道なのです。世間にあるあらゆる知識は、存在欲のため、貪瞋痴のためにつくられたものに過ぎません。だからこそ、貪瞋痴を無くすために、輪廻転生から抜け出すために、意見・知識・見解そのものを乗り越えなくてはいけないのです。

 厳密には、「正しい見解」と言えるものは存在しません。八正道には「正見(正しい見解)」という項目がありますけど、その本当の意味は「見解がない」ということなのです。

 しっかり理解しておきましょう。正しい見解などありません。ただ、存在欲によってつくられた無数の見解があるだけです。ひとりの人間がたくさんの見解を持っています。人間が複数いれば、どれだけ見解があるかわかったものではありません。それぞれの見解も当てにならず、次から次へと変わっていくのです。その中からひとつだけ選んで、「これこそ正しい」と決めることはあり得ない話であって、不可能、無理なのです。そういうわけで、「見解がない」ことが正見であって、真理なのです。

 仏教でいう「見解がない」とは、曖昧模糊として見解を決められない状態でもありません。存在欲がないからこそ、貪瞋痴を克服したからこそ、「見解がない」のです。貪瞋痴がある限り、とめどなく見解が現れます。存在欲が消えて、「見解がない」という正見に達したら、その方はもう人間でも生命でもないのです。世間を超越した聖者なのです。生命組織を持っていて、認識機能もありますが、存在欲は完全に消えている。「正見に達した」聖者とは、そのような方です。