智慧の扉

2018年5月号

私はお釈迦さまに褒められる人間だろうか?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 如来(ブッダ)にとって、ご自身が説いた言葉を人々が実践して結果を得ること、幸福になることこそが最高の称賛なのです。如来にとって、世間の評判などどうでもいいことです。でも如来は、師匠として超越した智慧で、ものの見事に真理をわかるように語っています。それを聴いた人々が理解して、実践して結果を得ることほど有難いことはないのです。仏道を修行して立派な人格者になること。それが即ち、恩人である釈尊に褒められる行為なのですね。

 お釈迦さまが称賛したのは、超越したレベルに悟った方々です。しかし、極端に頭が悪くても、戒律くらい真面目に守っているならば、その人のことも褒めたのです。ブッダの称賛ほど、この世で価値あるものはありません。どんな人間にも神々にも梵天にもマーラにも、そんな祝福はできません。ブッダのすべての言葉には、そのとおりの意味があるのです(社交辞令はないのです)。釈尊に褒められる生き方をしていれば、その人には他に何もいりません。みなさまも、いくらか釈尊に褒められるように、生き方を考えたほうがいいのではないかなと思います。

 仏教は、ブッダを褒め称えて土下座して拝む教えではないのです。でも、仏教徒ならばブッダから褒められるように生きないといけない。仏教徒と言われる人々は、ブッダを拝む人々ではなく、「私はお釈迦さまに褒められる人間だろうか?」という気持ちで生きる人々のことなのです。

「私はお釈迦さまに褒められる人間だろうか?」

 この呪文がいつも頭にあれば、なんの問題もありません。最悪の環境でも正しい対応ができます。釈尊に褒められる生き方をするならば、その人は真の仏教徒なのです。「まぁ、自分なりにやってますよ」という程度では格が低いのです。そうではなくて、いかにブッダに褒められるように生きているかを基準にしてほしいのです。

「私の指導者はお釈迦さまです。釈尊に非難されることは絶対しません。世間が何を言おうと、どうぞご勝手に」という気持ちがあれば、世間がその人を悩ますことはできないのです。師匠はお釈迦さまなのだから、世間の操り人間にならない、世間の変な思考のロボットにはならないのです。

 かといって、完璧にはできません。まだまだ未熟ですけど、釈尊を灯火にして、人生のガイドにして、光にして生きるように努力する。それが仏教徒の生き方ではないかと思います。みなさんも頑張ってみてください。