智慧の扉

2019年1月号

無数の「わたし」に出会うとき

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「わたし」とは、決して一人ではありません。自分と呼ばれる現象のなかには、たくさんの「わたし」がいるのです。たとえば、他人の話を聞いているとしましょう。ひとの話を聞いているつもりで、別な「わたし」が別なことを考えています。話を聞いているのも「わたし」で、別なことを考えているのも「わたし」です。しかし、まるっきり別々の二人なのです。あるいは、他人の話を聞きながら、その内容について別な「わたし」が同意したり、反対し反論したり議論したりしている。または、この人の話は面白くない、早く終わらないかな、つまらないと思う「わたし」がいたりする。話を聞いているのも「わたし」で、同時に様々に現れる異なった意識や思いもまた「わたし」なのです。いつでも複数の「わたし」がいるのです。本当の「わたし」とは、どの「わたし」なのでしょうか? その問いには、答えようがありません。お手上げです。

 たとえば、われわれは他人の噂話をしたがりますね。他人の悪いところを噂しながらも、同時に他人の噂をしてはいけないと思っている自分もいるのです。ですから、ほかの人から「噂話はよくないよ」と指摘されると、恥ずかしくなって逆ギレしてしまう。そんな有様ですから、われわれの頭の中(意識や感情)はグチャグチャです。心に無数の「わたし」がいて、それぞれ「わたしこそ正しい」「わたしこそ偉い」と争っているのです。たった一人を選んで、本当の「わたし」の玉座に据えることはできません。

 ひとりの意識のなかで、正反対な複数の「わたし」が骨肉の争いをしているのです。「わたし」と「わたし」が争うだけではなく、都合に応じて、無数の「わたし」を出したり隠したりして、あれこれ言い訳までするのです。

 よくよく観察してみると、「『わたし』がいる」という実感は、その瞬間の環境と条件によって出来上がるものだとわかります。どの「わたし」も留まることなく、あっという間に流れ去ってしまうのです。結論として、お釈迦さまは「わたしはだれ? Who am I?」という問いに、「そもそも『わたし』など成り立たないのです」と教えています。生命に悩み苦しみがあるのは、無数の「わたし=自我意識」を生み出す錯覚のシステムに執着しているからです。仏教は無数の「わたし」を生み出すまやかしを破り、すべての「わたし」への執着を捨て去る教えなのです。