智慧の扉

2020年3月号

汚れの発生源

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 自分の手が汚れていると、何を触っても汚れてしまいます。汚れたことに嘆いても、自分の手が原因であることに誰一人も気づきません。そのように心は自我の錯覚(自我の実感)で汚れていることに気づかず、すべての行為を汚し悩み苦しむ結果を得るのです。皆と共存・協力し生きようとしても、その行為自体がやがて自我によって汚れ、対立・分断を生み出します。皆は真面目に良いことをしよう・善行為をしようと行動するのですが、間もないうちに全部ダメになってしまう。失敗に終わるのです。「手が汚れている」とは「自我の錯覚がある」という意味で、自分自身の行為が幸福を邪魔しているのです。
 
 問題は「手が汚れている」ことです。私が料理を作ったとしても手が汚れているならば、料理が汚れてしまう。あるいは、私が手袋をはめて料理を作って、それを相手にあげる。もし受け取る側の手が汚れていたらどうなるでしょうか? やはり同じ結果になって料理が汚れてしまう。まず手の汚れを落とすということを実行しなければ、幸福は始まらないのです。
 
 よくあることですが、性格が悪い・自己中心・問題のある人に、皆さんは相談に応じてアドバイス・指導する・助けてあげようとします。例えば、カウンセラーが登校拒否や引きこもりや仕事に行きたくないなど、他人の精神的な問題を解決してあげようとします。ほとんどの場合、成功しません。結果、相談に応じた側が精神的に参ってしまって、助けが必要になるのです。原因は自我です。どれだけ親切・丁寧にアドバイスして、サポートしてあげても、親切心の裏にある自我の汚れのせいで、「結果が出ない」「あぁ、嫌だ」「もう疲れた」と落ち込んで、意欲を失ってしまうのです。
 
 仏教以外、誰一人も「手が汚れている」ことが問題なのだと教えません。汚れとは自我であると気づかないし、気づけないのです。この身体に認識が生まれた瞬間から、自我の気配が現れます。そこから、どんどん自我は強固に育っていく。だから、まず自分の「手が汚れている」と気づくこと、手をきれいにすることが先決です。汚れを落とすために、現象を観察して、すべてが無常・苦・無我であることを目の当たりにするのです。とどまることのない認識の流れに気づくことで、自我の錯覚が消えていきます。手の汚れ(心にある自我の錯覚)は自分自身で洗い落とさなければいけないのです。