智慧の扉

2020年5月号

智慧の扉を開ける鍵

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 仏道とは「正見」に至る道です。正見に達するとは、ある特定の見解を勉強することではなく、「見解がない」境地に至ることです。人間の思考というのは、常に偏見なのです。しかし面白いことに、私たちは何かを認識するとき、認識した時点では常に「これは正しい」と思っているのです。

 たとえば、夜に暗い山道でロープを踏んだとしましょう。どうなるでしょうか? その瞬間、びっくりして飛び上がるはずです。「ヘビを踏んでしまった」と認識して恐怖が生まれるのです。後で懐中電灯を当てて見れば、ただのロープだったとわかります。そこで勘違いだと気づきますが、もう遅いのです。びっくりした瞬間に飛び上がったこと、生まれた恐怖、ドキドキと鼓動が早くなったこと、といった認識した結果はすでに起こってしまっている。それが間違いだと後から気づいたからと言って、取り消したり無かったことにしたりすることはできません。

 誰かと熱烈な恋愛をして、あるいは収入や学歴などぴったり条件があった相手と結婚して5、6年ぐらい経ったところで、性格が合わない人と結婚してしまった、あれは一時の気の迷いで間違いだったと嘆いても遅いのです。たとえ離婚しても、これまで受けた苦しみは消えません。こういう卑近な例えで、よく理解してください。

 仏教的に言えば、人間の認識はすべて勘違いなのです。肉体に何かが触れて、痛いとか痒いとか感じるのはまだ仕方ないとしても、耳に触れたものを「声」「歌」「音楽」と感じる認識はすでに勘違いなのです。勘違いとは、「煩悩を惹き起こす概念として認識している」という意味です。「声」「歌」「音楽」と感じた途端、もう心に煩悩が沸き起こっているのです。そうではなく、耳に触れた対象をただ「音」として認識できるなら、勘違いになりません。それは客観的な事実を認識したことです。

 そうやって、物事をもう少し客観的に観察してみましょう。客観的に観察すると、認識の過程が見えてきます。眼耳鼻舌身という感覚器官に色声香味触という対象が触れるところまでは皆共通ですが、触れた瞬間に苦・楽・不苦不楽を感じること、感じてから思考が回転すること、思考から煩悩が沸き起こることなどなど、触れた以降の展開は一人ひとり違うのです。「認識は一人ひとり違うのだ」という事実を、単なる知識に留まらず「自己観察」の結果として知ることで、人は智慧の扉を開ける鍵を受け取るのです。