智慧の扉

2020年8月号

不放逸は幸福のはじまり

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「不放逸(アッパマーダ)」はすべての道徳の基礎となります。道徳という言葉は、宗教的な意味ではありません。生命はいつの瞬間でも幸せになりたいと思い生きています。私たち現代人も、野生の動物たちや昆虫も皆同じです。平和で満たされて生きていたい。敵や闘いがなく、食べ物が豊富で、安全な場所で生きていたい。これは生命の根本的な希望なのです。生命ならば必ず持っている希望が叶えられる道、これを道徳と言います。根本的な希望である幸福を壊す生き方は、非道徳ということになります。このように理解してください。道徳とは要するに希望が叶う生き方です。これは貪瞋痴という感情(煩悩)から起こる希望ではありません。感情から生まれた希望は恐ろしく破壊的です。感情は生命の根本的な希望を粉々に潰してしまいます。感情というのは恐ろしいシステムなのです。
 
 放逸(パマーダ)な人は、理性が無く、感情の奴隷になって、自分で生きるのではなく感情に生かされている生命です。破壊的感情に命を導かれると、自分だけではなく他の生命にも不幸を招きます。放逸の人に、善行為も人格向上もできません。超越した智慧に達することもできません。一見、放逸な人は常識的に楽しそうに生きているように見えます。欲しいものは奪ってでも取ったり、感情を爆発させたり、他人のことを心配することもなく、感情のままで生きているからです。この悪の循環に嵌ったら、抜け出すことが難しいのです。抜け出るためには、理性と勇気が必要になります。
 
 道徳は、必ず不放逸からはじまります。不放逸は「サティ(気づき)」の同義語でもあり、道徳の頂点でもあります。戒律などの道徳項目は、不放逸から始めます。不放逸の完成は、道徳の完成でもあります。不放逸とは、「常に気づきがある」という簡単な実践です。不放逸の実践者に、解脱に達するまで人格向上することができます。究極の幸福に達したければ、気づきを実践するしかありません。「不放逸=サティ」です。今の瞬間に己がやるべきことをやる、それだけです。先週やるべきだったことを、今週やったとしても間に合いませんし、役に立ちません。「いま・ここ」の気づきとは、そういう意味なのです。一般的な単語で説明していますが、不放逸(常に気づきがある)という内容には思考を絶するほどの意義があるのです。