パティパダー巻頭法話

No.261(2016年11月号)

阿羅漢は場合によって怒る?

自我の錯覚が煩悩を惹き起こす Unconditional purity

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章

  1. Yassa rāgo ca doso ca
    Māno makkho ca pātito
    Sasaporiva āraggā
    Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ.
  • 芥子粒が きり の先から落ちるごと 貪り瞋りと慢心と
    隱しだてとが脱け落ちし そをバラモンと我は説く
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 407)

本師は誰?

では、エピソードから始まります。マハーパンタカ(Mahāpanthaka)という長老がいました。仏道を実践して解脱に達していた長老は、自分の甥にも解脱の道を教えてあげたいと思って、出家させたのです。彼はチュッラパンタカ(Cullapanthaka)と呼ばれました。
甥っ子の弟子にしっかり仏教を教えたいと思った長老は、まず一つの偈を暗記するようにと命じました。チュッラパンタカは三カ月間頑張ったのに、たった四行の偈を暗記することができなかったのです。彼には、ものごとを記憶する能力がなかったようです。しかし、一人前の出家になるためには、たくさんの経典を暗記しなくてはいけないのです。自分の甥には仏道を歩む能力がないと思った師匠は、「還俗して家に戻ってください」と言って、彼をお寺から追い出しました。還俗する気持ちはなかったチュッラパンタカは、門の外で泣いていたのです。
釈尊は、泣いているチュッラパンタカのところに行って、なぜ泣くのかと尋ねました。

「師匠に仏門から追放されたのです。」
「仏教の本師は誰ですか?」
「お釈迦さまです。」
「私が君を追放したのですか?」
「いいえ、違います。」
「それなら、この白い布を?垢を取ります?と念じながら揉んでみてください。」

釈尊はそう仰って、彼に白い布を一枚渡しました。これは朝早くに起きたやりとりでした。真剣真面目に布を揉んでいたチュッラパンタカは、午前中のうちに阿羅漢果に達したのです。お釈迦さまが人の隠れた能力を読みとれたからこそ起きた出来事です。

阿羅漢も場合によって怒るのか?

比丘たちの間で「チュッラパンタカには解脱に達する徳があったのに、師匠のマハーパンタカ長老はなぜ追い出したのか?」と話題になりました。「師匠は弟子に対して怒ったのだろう。ということは、場合によっては阿羅漢も怒ってしまうのか?」という議論でした。
「阿羅漢も場合によって怒るのではないか?」「阿羅漢果に至っても煩悩が滅尽されるわけではなく、ただ機能しないよう抑えるだけでは?」「つまり完全たる解脱とは、阿羅漢ではなく、ブッダになることではないのか?」
仏教が複数の部派に分かれた時、比丘たちの間でこのような議論が盛んに交わされたのです。大乗仏教が現れてくると、「阿羅漢に達することは声聞乗に過ぎず、完全たる解脱ではない」と主張するまでになったのです。さらに、「阿羅漢に達した人々は、大日如来の仏界に生まれ変わって如来の説法を聴いてブッダになるのだ」と、また話を発展させたのです。(非難の的になった阿羅漢の方々に対する優しい態度のつもりだったかもしれません。)

エピソードに戻りましょう。
「阿羅漢になっても、場合によって怒るかもしれない」という意見は、真偽を明らかにすべ き大きな問題です。ですから、お釈迦さまはこの問題について特に説法なさったのです。

二つの欲

阿羅漢とは、煩悩をなくした聖者のことです。すべての生命のこころに強烈にはたらく欲(rāgo)が無いのです。欲とは二種類です。五根から色声香味触のデータを取り入れて刺激を受けること。これは五欲と言います。生きるために、すべての生命はこの五種類のデータから刺激を受けています。一般人はこの五つの対象に執着をせざるを得ませんが、阿羅漢は五つの対象に執着しないのです。眼を開けていると、色が勝手に映って視覚を作るだけです。それに対して、なんの愛着も起こりません。他の四つの対象についても同じ態度です。

欲の二番目は、存在欲です。「生きていきたい」という衝動です。「一切の現象は無常である」と発見した阿羅漢は、存在欲を断っているのです。

二つの怒り

阿羅漢には怒り(doso)がありません。怒りも基本的に二種類になります。一般の生命は、存在欲を支えてくれない・脅かす色声香味触に対して、怒りを抱くのです。たとえば、聴きたくない音が耳に入ると嫌な気持ちになる。美味しく感じないものを味わうと嫌な気持ちになる。これは怒りです。一般人が一般的に期待しない色声香味触にふれると、怒りを抱くのです。阿羅漢は五根に入る対象をそのまま認識するので、善し悪しの判断はしません。ですから、怒りが現れないのです。二番目の怒りは、恐怖感です。生命には存在欲があります。なんとしてでも生きていきたいと思っているのです。しかし、これはあり得ない希望であると、たびたび気づくことになります。その時は、強い恐怖と怯えを感じるのです。存在欲がある限り、その怒りからは解放されません。阿羅漢は「一切の現象は無常である」と発見しているので、現象は変化して壊れてゆくことが自然の流れであると知っているのです。したがって、恐怖感・怯えという怒りは無いのです。

自我が消えた時(慢)

阿羅漢には慢(māno)がありません。慢とは「自分がいる、自分が存在している」という実感のことです。自我とも言えます。一般人は自我を張って問題を作って苦しむが、阿羅漢は自我を張りません。なぜならば、「一切の現象は因縁によって現れて消えてゆくものである」と発見しているのです。世間は色受想行識という五蘊を指して「私」と言っているのです。それは如実に真理を知らないから起こる錯覚なのです。自我が存在しないと発見している阿羅漢は、自分と他人を一切比較しないのです。

自我が消えた時(隠しだて)

阿羅漢には隱しだて(makkho)がありません。隠しだても二つの立場で理解するのです。自分が持っていない徳をあるかのように見せかけること。上辺を飾ることでもあります。世間ではよく見える現象です。自分を大きく見せかけると、世間は騙されます。なぜそんなにも世間を気にするのでしょうか? なぜそんなにも世間に認められ、褒められ、讃えられ、尊敬されたいのでしょうか? 自分に対して、すごい不安・不満があるからです。これは自我という錯覚が惹き起こす病です。自分を大きく見せかける癖がある限り、人は成長しないのです。詐欺師で終わってしまうのです。

隠しだての次の側面は、他人を見下すことです。他人の徳を評価しないという性格です。何かケチをつけて否定するのです。言葉を変えれば、「私ほどではない」という意味になります。他人を見下すことも、自我の錯覚が惹き起こす病です。この病がある限り、人は成長しません。いくら優れた人物と出会っても、その人々から学ぶことができないのです。「自分ほどではない」という態度をとるか、何か欠陥があるはずだと探すか、どちらかです。

阿羅漢は自我という錯覚を根絶しているので、慢と同時に隠しだても存在しないのです。 かといって、阿羅漢には他人から学ぶべきことは何も残っていません。こころは完全に清らかになっているので、あえて自分を大きくして見せる必要もない、ということです。阿羅漢のこころのなかには、自分が存在するという錯覚が無いので、隠しだては成り立たないのです。

煩悩の数

説明の仕方によって、煩悩の数は変わります。一般的に千五百煩悩という言葉を使うと、余りにも沢山煩悩があるのだ、という意味で理解しますが、パーリ仏教では千五百煩悩はなんなのかと明確にする場合もあります。しかし、すべての煩悩の大本は無明、つまり真理を発見していないという情況です。「一切の現象は無常・苦・無我である」という真理を発見すると、「自分がいる」という実感も「他人がいる」という実感も、ともに消えるのです。自分・他人という言葉は、世間とコミュニケーションを取るために使う単語に過ぎなくなるのです。

私が消える

別な角度から考えてみましょう。「私」という存在に、いろいろ問題が起こります。自分を守ること、病気を治すこと、人間関係、財産を守ること、などなどの問題が限りなく現れるのです。一つ一つの問題を解決しようとしても、終わりがありません。一つの病気を治したとしても、別な病気に罹ります。なんの病気にも罹らないという情況は作れないのです。問題は大海のように無限です。そこで突然、「私」が消えたとしましょう。同時に、すべての問題も消えるのです。「あの人と仲直りしなくてはいけない」という問題は、「私」が消えてしまったら成り立たないものなのです。

怪獣は存在しない

「私が消える」というフレーズに別に驚く必要はありません。私が消えたと言っても、いま まであった何かが消えるわけではないのです。「私がいる」とは、無常で変化する現象をひとまとめにした単語に過ぎません。はじめから「私」という存在は無かったのです。「家に住んでいた怪獣が消えてしまった」というようなものです。頭が悪いから、家に怪獣が住んでいるという錯覚を惹き起こして、怯えていたのです。頭がしっかり治ったのです。怪獣が消えたわけではなく、もともと怪獣など存在しない概念であると知ったのです。「私が消える」「自我が無くなる」「無明がなくなる」「智慧が現れる」といったフレーズで示しているのは、「怪獣が消えた」という意味です。ということで、いったん自我を無くして、その結果、煩悩を滅尽した阿羅漢に、再び煩悩が起こるはずもないのです。ですから、人のことを心配して躾けることはあっても、怒りが現れるわけがありません。阿羅漢には、「場合によって怒る」ことなど成り立たない話なのです。

針先に載せるカラシの種

お釈迦さまはこの情況を「針の上にカラシの種を載せられないように」というたとえを使って示されています。針の上にカラシの種をバランスよく載せようと思っても無理です。落ちます。そのように、阿羅漢を非難侮辱して怒らせようとしても無理な話です。虐待して身体に重傷を負わせて怒らせようとしても無理です。阿羅漢には、「私」が存在しないのです。虐待を受けることも、色蘊が攻撃を受けて壊れてゆく、受蘊が苦に変わってゆく、というだけの流れなのです。庭にある樹木の枝が折れたら、気になります。困ります。「私の」樹木だからです。森にある樹木の枝が折れても、どうでもよいことです。気になりません。「私の」樹木ではないからです。「私」という錯覚が消えることが、一切の悩み苦しみの終焉です。煩悩の終焉です。

今回のポイント

  • 指導は能力に合わせるものです
  • 阿羅漢に隠れ煩悩はありません
  • 一切煩悩の大本は無明です
  • 自我の錯覚を破ることが煩悩の終焉です
この記事をシェア