パティパダー巻頭法話

No.76(2001年6月)

なぜ私は不幸になるのでしょう

不幸の原因は自分のこころの中にある 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

私が不幸なのはなぜでしょうか。
色々と努力しても、物事がうまくいかないのはなぜでしょうか。真剣に真面目にがんばっているのに、なかなか希望通りの結果にはならないのです。ときには自分にまったく関係のないことなのに、自分の責任にされて批判されるときもあります。忙しくて誰も来て欲しくないとき、人が訪ねてきます。暇があって退屈していて、友人でも訪ねてきたらいいなと思うときには、電話の一本さえかかってこないのです。やっとの休みで夏にキャンプ場に行ったら、突然降ってきた雨で、楽しみが台無しになってしまったりします。主人の会社の休みと、子供の誕生日がいっしょになったので、派手に誕生パーティを開こうと思ったのに、子供が熱を出して寝込んでしまったこともありました。…このような出来事は、多かれ少なかれどなたにでもあることだと思います。

その程度の不幸なら大したことはないと思いますが、こころにショックを受けるほどの不幸な出来事も、世の中ではしょっちゅう起きるのです。小学6年生のその少年は、自分の学校も友達も好きで好きで、離れることになるとは思ってもみなかったでしょう。そんなとき親の転勤で、通い慣れた居心地のいい学校からも、仲のいい友達からも離れて、つらい寂しい思いに直面することになったのです。新しい環境に慣れることができるかどうか、子供には自信がない。この嫌な気持ちが、自殺を図るところまで少年を追いつめました。そして、それをやめさせようとした母親を刺し、母親は亡くなってしまいました。大好きな母を自分が殺してしまって、この子はどれほど悩んだでしょう。転校の悩み、生きることに対する自殺したいほどの絶望感、そのうえ、自分のことを世界一大事にしてくれた母を殺したこと、これらすべての精神的なショックを、遊び盛りの小学生が受けなくてはいけないのです。かわいくてたまらない我が子に、刺されて死にかけている母親の気持ちもどのようなものでしたでしょう。

愛媛県の宇和島水産高校の生徒たちは、希望と楽しみに胸を膨らませて実習船「えひめ丸」に乗り、ハワイ沖の実習に励んだことでしょう。家族も楽しみに、子供たちを見送ったことでしょう。それが、突然海の中から化け物のように現れた米原潜「グリーンビル」に衝突されて、瞬間のうちに転覆させられ、沈没し、9人の行方不明者が出てしまいました。全ての期待も楽しみも、全く予測できなかった事故により消えてしまったのです。

父親が再婚した継母にかわいがってもらいたくてやんちゃなことをした3歳の子供の気持ちを、その家族は理解できませんでした。躾のつもりで対した家族に虐待され、子供は死んでしまったのです。家族に愛情を要求する子供が、家族から虐待されるときの気持ちはどのようなものでしょうか。

とにかく、この世の中には、不幸がいっぱいなのです。不幸なことはまったくないと言える人はいないと思います。

それでは、なぜ不幸になるのでしょうか。知りたくなるのですが、この問題については、いくら考えても納得のいく答えは出ないと思います。
潜水艦のワドル艦長のせいだと言ってみても、彼には船を沈没させる意図はまったくなかったのです。虐待の結果、子供が死んだとしても、家族は子供に体罰でも与えておとなしくなって欲しかっただけなのです。母を殺した小学6年生も、母を殺すことで自分の問題が解決するとは思っていなかったのです。不幸を目的に行動した人は誰もいないのです。ですから、なぜ不幸が起こるのかということには、納得のいく理由がでてこないのです。
ときどき、いい加減で無責任な人々が、社会、政府、教育などのせいで、また神のたたりで、或いは先祖の怨念や先祖供養をしなかったせいで不幸になるのだと言い張ったりする場合もあります。しかしこのような根拠のない話からでは、解決方法は見つからないのです。

マハーカーラという名の在家の人は、夜明けまでお釈迦さまの説法を聞いていました。
そして朝、顔を洗って家に帰ろうと水場に行ったときに、殺されたのです。その前夜、ある家に泥棒が入って、村人たちが泥棒を追いかけていたのです。ひとりの泥棒が盗品を水場に捨てて逃げたので、盗品を見つけた村人が、マハーカーラを泥棒と思い、殺したのです。ブッダのそばに朝までいたというはっきりしたアリバイがあるにもかかわらず、彼は不幸になりました。
そのときお釈迦さまは比丘達に、このように教えられました。
「あなた方は、この人が不公平に殺されたと思うでしょう。彼のこの世の生き方だけを見ると、確かにその通りです。でもこの人は、過去世で人妻と恋に落ち、その主人を殺したのです。その悪行の結果によって、今世で不幸になったのです」。

不幸の原因は、社会にも、神々にも、先祖にもあるとは思えません。
他人のせいで自分が不幸になることはごくまれだと思った方が良いと思います。不幸の原因は、我々自身のこころの中に潜んでいるのです。しかし、そのこころから離れて生きることは不可能なので、不幸から逃れることも不可能なのです。
学校で失敗する人も、会社で失敗する人も、仲間に見放される人も、そうなる原因を自分のこころの中に持っているのです。勉強に、仕事に集中できない、やる気が出てこない、仕事をはかどらせる自信がないなどの原因は、こころにあるのです。仲間の気持ちを傷つけることをつい言ってしまう、すぐ喧嘩になる、わがままになるなどの原因はこころにあるのだから、仲間はずれにもなる。1回ならず2回も結婚に失敗した人は、3回目にも失敗する可能性が高いのです。それは親の育て方のせいではなく、自分のこころの問題です。

我々は無意識に他人に嫌われることをしてしまうのです。愛情が欲しくていたずらをして、怒りを買ってしまうのです。子供のことを心配するあまりに、子供に嫌われて殺されてしまうほどの行為も無意識にしてしまうのです。こころの中が整理できていない、落ち着いていない、混乱しているなどの状態が、そのこころを破壊の方向へ導くのです。それは、硬いダイヤが、ダイヤの粉でなければ削れないようなものです。自分のこころさえ守っておけば、不幸というのは縁のない話になるのです。

今回のポイント

  • 多かれ少なかれ、不幸は誰にでもあります。
  • 不幸の原因は自分の心に潜んでいるのです。
  • 心を守る人は幸福になります。

経典の言葉

  • Attanā va kataṃ pāpaṃ – attajaṃ atta sambhavaṃ,
    Abhimatthati dummedhaṃ – vjiraṃ v’asmamayaṃ manim.
  • 自己から生じ、自己から現れ、自分が作った悪事が、自分を悩ませる。
    ダイヤの粉がダイヤを削るように。
  • (Dhammapada 161)
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