パティパダー巻頭法話

No.77(2001年7月)

仇敵のすみかは自己のこころの中

知らず知らず自己破壊へ歩む人 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

仏典に、マールワーという名前の蔓の話があります。種が大変小さく、風で飛んで、他の木の幹に粘着し、その木に寄生して成長します。木にマールワーの種がついたら、木に宿っている神霊がたいへん怯えるそうです。神霊は「この種が、アリにでも虫にでも、食べられますように。鳥にでも運ばれますように」と、あるいは「雨が降らないで、枯れてしまいますように」と願うそうです。神霊さえも脅かすこの種は、小さなアリ一匹にでも運ばれる極小のものです。

雨が降ったら、この種は水を含んで大きくなり、木の幹に根を伸ばすのです。神霊は、それがまだ小さいうちは、猿にでもいたずらされてはがれ落ちるようにと願うのです。その願いも叶わなかった場合は、神霊は、自分が宿るための他の木を探すか、それが見つからないときは自分の寿命を諦めるかのどちらかになるのです。

マールワーの蔓の葉は、不思議な形をしています。大きな水瓶のような形で、当時の人が水を運ぶ水瓶の30倍くらいの水を溜めることができました。寄生植物ですから、栄養に困ることもなく、すくすくと成長して、寄生した木を包み込み、幹のまわりを葉で覆ってしまうのです。神霊が、どうか雨が降らないようにと、矛盾に満ちた願い事をするしか他に救われる道はなくなるのです。やがて雨が降ります。葉に水がたまって、寄生した木はたとえ大木であっても、根こそぎ倒れてしまいます。神霊の命もそれまでです。

神霊の話は後代の注釈書にしかありません。経典には、たとえとしてマールワーの蔓の話だけがあります。大木に寄生して、大木のおかげで成長するこの蔓は、自分の命を支えてくれる母体となる樹木を破壊するのです。
人間のこころも、かすかな悪意でも生まれたら、早急にそれを取り除かないと自己破壊になるのだという真理を語るときに、このたとえは使われます。

お釈迦さまの義弟にあたる Devadatta (デーヴァダッタ、提婆達多)は、出家してから突然、お釈迦さまの代理として出家サンガのリーダーになりたがったのです。
お釈迦さまは、その気持ちは悪意だと批判され、偉大なるサーリプッタ、モッガッラーナ両尊者にさえも、出家サンガの支配は頼まないとおっしゃって、Devadatta の要請を却下したのです。出家サンガの支配ができるのはお釈迦さまだけです。サンガは厳密な民主主義に基づいて、目上の人を尊敬し、その指導を受けて成長するものです。たとえ有名で能力のある比丘が現れても、サンガの間で独占的な権力を持つことはできないのです。誰でも、法を厳守して、修行するのです。

しかしお釈迦さまに断られた Devadatta には、自分の野望を捨てることができませんでした。
お釈迦さまの、民主主義にのっとった管理方法を理解できなかったようです。彼は、自分のことが認められなかった、けなされた、プライドを傷つけられたと勘違いしたのです。そして、お釈迦さまの元友人であり、仏教に対する変わらぬ信仰を持っていたマガダ国の王ビンビサーラを暗殺して政権をとるようにと、その息子 Ajātasattu(アジャータサットゥ)をそそのかしたのです。父王を暗殺して、王になった Ajātasattu の権力のもとで Devadatta は、3回も釈迦尊の命を狙いました。その計画が失敗したとき彼は、出家サンガを分裂させ、自分のグループを作って念願のリーダーになったのです。
しかし、目的に達するために犯した罪の重さは計り知れないほどです。お釈迦さまのおっしゃった5つの極悪罪の中の2つも犯したのです。

〈 五逆罪:① 母を殺すこと ② 父を殺すこと ③ 阿羅漢を殺すこと ④ ブッダを負傷させること ⑤ サンガの和合を壊し、分離すること 〉

五逆罪のうちひとつを犯しても、地獄に落ちることは決して逃れられないのです。今世において悟るどころか、禅定に達することも不可能になるのです。しかし仏教には「永遠の地獄」という概念はありません。永遠不滅なものはひとつもないのです。極悪罪を犯した人でも、罪を償ってから、修行して悟ることは可能です。
Devadattaも、仏陀を信仰していた徳、罪を犯すまで真面目に修行した徳のおかげで、将来、独覚仏陀として悟りを開けますよと、経典には書かれています。

このエピソードは我々に、こころの働きについて厳密に注意すべきひとつのポイントを教えています。
我々のこころには、いとも簡単に、ごく自然に、悪意が生まれてしまうのです。相手の過ちを忍耐するよりは、怒ってしまうことの方がずっと簡単です。
また、他を理解しようともしないで、バチバチと怒りの火花を散らすのは簡単です。相手の成功、幸福を素直に喜ぶことは難しいのです。かわりに、いとも簡単に嫉妬するのです。
憎しみも、落ち込みも、たやすくこころに現れる悪の種です。四六時中、このような様々な悪の種がこころに根づくのです。

しかし、我々はそれに対して何の注意も払いません。何の危険も感じません。
危険を感じるどころか、自分の怒り、嫉妬などを「当たり前だ」と思って、正当化さえするのです。悪意を正当化したら、必ずこころに根づくのです。取り除くことは不可能となってしまいます。
こころに生まれた悪の種は、その人のこころから思う存分栄養を受けて、成長するのです。やがて、他人を殺したり、社会構造を壊したりするような罪を犯すまで、成長してしまうのです。普通の人間としてこの世に生を受けますが、犯罪者、罪悪人として人生を終えるのです。この状態は、お釈迦さまには、森の中で観察なさったマールワーの蔓のようなものだと見えたことでしょう。

恨み、憎しみ、怒り、嫉妬、欲、高慢、見栄、落ち込み、悲観などの悪種が生まれやすい人間は、常に注意して生きるべきです。
こころの中に染みついているこれらの感情こそが、実は殺意を持った恐ろしい敵なのです。
私たちは、自分のこころの中に最大の敵を大事に育てる必要があるのでしょうか。
自分の幸福を真剣に願う人は、自分のこころを外敵から守るべきです。
悪種が成長しないように、こころに慈しみ、観察能力、智恵などを育てて環境を整えれば、安全だと思います。

今回のポイント

  • 悪種は四六時中、いとも簡単に生まれます。
  • 生まれた悪種は心に粘りつくものです。
  • 自分の敵は心に生まれる悪種に他なりません。

経典の言葉

  • Yassa accanta dussī lyaṃ – māluvā sālaṃ iv’otataṃ,
    Karoti so tatha’ttānaṃ – yathā naṃ icchatī diso.
  • 自己のこころの極端な悪意は、まるで仇敵のように、自分を不幸におとしいれる。
    沙羅の木にまとわりつくマールワーの蔓のように。
  • (Dhammapada 162)