パティパダー巻頭法話

No.101(2003年7月)

一言で知る仏教の全て③

まさか、宗教も問題児? Who is the culprit of war ?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

最近このように質問されたことがあります。「人間に平和と安らぎを教えるはずの宗教が、互いに争っているように見えます。それがどうしても理解できないのです。この現状は、どのように説明できますか」。これは私たちに特別に聞かれた質問ではなく、もっと優秀な宗教家の前に出された質問です。「宗教は、争っているわけではありません。争いはその宗教を信仰している人の誤解によって起こるのです。悪いのは宗教ではなくて、争っている人々なのです」。長い解答を総合してみると、このような返事でした。

失礼に当たるのは承知の上で、私も了解をいただいて、意見を述べました。私も負けずに長く話しましたが、まとめてみると、このようなものでした。「私もこの質問に大賛成です。宗教は、世界で争いを起こしていると私は思っています。強いていえば、宗教というのは平和の敵で、人類に戦争を引き起こすために現れた、ありがた~い教えだと言った方が史実に合致するのです」。当然のことですが、私の意見は一笑にふされました。皆、喧嘩を嫌う、平和な人々だなぁと感心しました。

もし敬虔な信仰者の前で私がこのような意見を述べるとするならば、話し出す前に出口の前に立ったほうが身の安全のためだと思います。宗教は他人の意見、違う生き方を認めないのです。宗教の言うことを、絶対的な真理だと無条件で受けとめなくてはいけないのです。もし教えられることが理解できない場合も、学校の先生のように親切に苦労して理解させようとはしてくれないのです。理解できない私が悪い、私の罪が重すぎる、悪魔に憑依されている、と自分で思わなくてはならないのです。

宗教では、人類を「信じる者」と「信じない者」に二分化するのです。
これは、パン食、米食と、主食を二分化するような平等な分け方ではありません。宗教の『二分岐論』は激しいものです。一方には永遠の天国が約束されているし、もう一方には永遠の地獄が待ちかまえているのです。この天国と地獄は、ご存知のように、同じ食卓の上座と下座みたいな程度の差ではありません。このような教えをまともに信じると、人間の心には「自分こそ偉いのだ、他人はゴミみたいな存在だ」という気持ちが棲みつくのです。これが差別の始まりで、争いの始まりになるのです。

もうひとつ、ほとんどの宗教が教える、ありがたい概念があります。
それは、人には不死なる魂があるということです。人が死んでも、この魂という部品は、死なない、壊れないのです。『本当の私』というのは魂なのです。自分が永遠の存在なのですから、天国に行けば永遠に快楽の享受ができると考えただけでもわくわくするのです。それだけではありません。自分の宗教を信じていない異端者たちは、永遠に地獄で苦しむのだと思うと、優越感にあふれるのです。

では、人を殺したらどうなるのでしょうか。
人間にできるのは、肉体の機能を壊すことだけです。魂をつぶすことはできない。ですから、人を殺したとしても、天国に行く予定の被害者ならより早く天国に行けるのですから、悪い行為といえるのでしょうか。地獄に行く予定の被害者も同じですが、異端者が早くこの世から消えるので、信仰者たちにとっては、多大な迷惑が減るのでほっとするのです。それも悪い行為といえるのでしょうか。ここで私が言いたいのは、魂のような得体の知れないものを妄信すると、殺生は良くないという道徳が成り立たないということです。戦争は正当化できるということです。

人間の日常の経験に基づいて証明することができない、形而上学的、神秘的な概念が、宗教にはうじゃうじゃあるのです。
信者には、それを妄信するしか手段はないのです。人は、事実であるかないかに関わらず、何でも信じることはできるものです。ですから、信じているからといって、それが真理、事実ということにはなりません。

証明できる事実とは、何でしょうか。
人はいとも簡単に死ぬ、生き延びるためには大変な苦労をしなくてはいけない。この世の中だけで考えても、悪いことをすると悪い結果につながり、良い行為をすると良い結果が得られるのです。怒り、憎しみ、落ち込み、強欲などで心が汚れると、何一つうまくいかない。幸福になるどころか、望みは逆の結果になる。皆と喧嘩するよりは仲良くすることができれば大変楽しい。怒りや憎しみで敵を倒しても、結局は後味が悪い。また、負けた敵は、別な手段で攻撃を仕掛けてくるかもしれませんし、復讐するかもしれません。
ですから、たとえ敵に勝っても、心の安らぎはありません。日々、幸福に、平安に、穏やかな気持ちで生きていられるならば、それこそ皆が期待する生き方です。

宗教が人の幸せを願うなら、心の安らぎを目指すならば、たてまえの美辞麗句は置いておいて、事実に基づいた、以上のようなことを教えなければならないのです。差別論を語るのはいい加減にやめて、生命はことごとく平等であることを教え続けなくてはならないのです。

今だけではなく昔から、宗教は道徳の鎧(よろい)で身を隠して、闘い、争いを応援してきたのです。社会の差別を「神の決まりだ」と言って正当化したのです。人の考える自由に冷や水を浴びせたのです。「宗教は悪くない、悪いことをする信者が教えを誤解しているだけです」というのは屁理屈です。誤解できないように教えるぐらいの能力が、その宗教にはないのでしょうか。

お釈迦さまは、宗教ではなく、真理、事実を語られました。我々の日々の苦しみとその解決法を語られたのです。二度と苦しみに陥らない道を明かされたのです。その教えを、今月も一言にまとめましょう。他をけなさないこと。他に害を与えないこと。道徳を守ること。食住の適度を知ること。心を育てること。文字通りにこの一言を守れば、それこそ完璧に宗教的な生き方です。

今回のポイント

  • 宗教にも平和をもたらすことはできない。
  • 妄信をやめて、事実に目を覚ますべきです。
  • 来世まで待たず、幸福を今、確保すべきです

経典の言葉

  • nūpavādo anūpaghāto – pātimokke ca samvaro;
    Mattaññutāca bhattasmim – panthañca sayanāsanam
    Adhicitte ca āyogo – etaṃ buddhāna sāsanaṃ.
  • 他をけなさないこと、他に害を与えないこと、道徳(戒律)を守ること、
    食の適度を知ること、静かなところに住むこと、
    心の成長に努めること。これは、諸仏の教えである。
  • (Dhammapada 184)
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