パティパダー巻頭法話

No.123(2005年5月)

仏陀が発見された真理——渇愛

ものごとに納得いかないことで、苦しみが続く Suffering begets craving and craving begets suffering.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

時代が変わっても場所が変わっても、決して変わらない真理、すべての人種に普遍的に当てはまる真理を、お釈迦さまが二千五百年前に発見されて仏陀となられたのです。
今月は、人類にとって最高の幸福をもたらしたこの偉大なる出来事を祝祭するウェーサーカ月です。お釈迦さまの降誕、成道、入滅という、三大事を祝う釈尊祝祭日が5月23日の満月の日になります。皆さまに釈迦牟尼仏陀の尊い大慈悲の御力により、無病息災と幸福を心から誓願いたします。「幸福でありますように。」

仏陀が明かされた真理は、人類にとって初めてのもので、未だかつて誰にも発見できなかったものであると釈尊が説かれています。
この真理こそすべての生命に究極の幸福をもたらすものだと、宣言なさったのです。また、この真理を事実ではないと否定することは、人間にも神々にも梵天にも決してできないのだと、獅子吼をなさいました。いま現在も、釈尊の説かれた言葉に、論理的に具体的に異論を立てられる人は出てきません。仏説は常に空中に輝く太陽の如く、人々に、無明の闇を破り完全なる智慧を現し、幸福への道案内をしているのです。

仏陀が発見された真理は、通常「四聖諦」と呼ばれます。
なぜ聖という字が入ったのでしょうか。この事実を理解できれば、人の心が清らかになります。心の汚れがなくなる。罪から解放される。無限の苦しみから脱出できるのです。無明が破れ、智慧が現れます。従って、生命が知るべき唯一の事実なのです。ですから、俗世間の事実真理とレベルが違います。ただの真理ではなく、聖なる真理なのです。

「好き」というテーマで、五回続けて語ってきました。
今月も同じ「好き」というテーマで考察してみたいと思います。今月の「好き」は、釈尊が発見された四聖諦の二番目、苦しみの原因(dukkha samudaya sacca)です。お金が好き、伴侶のことが好き、我が子が好き、ペットのワンちゃんが好き、悪人を倒して勝つのが好きなど、人間の「好き」は色々です。「好き」と一言で言っても、何を好きかということによってその感情が変わるのです。敵に勝ちたいという気持ちと、我が子を愛する気持ちは、同一のものではありません。

真理のレベルで「好き」とは、どんな意味でしょうか。
真理のレベルで…と言うのは、最終的な事実という意味です。それが普遍的なもので、客観的な事実だということです。四聖諦の二番目では、真理のレベルの「好き」が説明されています。ここで使用している語は、tanhā です。日本語では、「渇愛」と呼ばれています。この、tanhā(渇愛)について考えてみましょう。

一切は無常であると理解する人は、渇愛を発見できます。
心の中に普遍的に流れる「好き」という衝動がありますが、それはなかなか自覚できません。「ペットが大好き」という場合は、明らかに自覚があって、それを認めているのです。しかし様々な「好き」を作り出して人を苦しめ、依存を引き起こす、根源的な「好き」の発見は、無知がある限りはできません。渇愛は、この根源的な「好き」という感情なのです。それは、一切が無常だから絶えず現れるものです。

無常が欲「好き」を作り出すといっても、理解できないかもしれません。
家を欲しい人は、テントやプレハブで満足はしない。百年でも保てそうな耐震性が抜群な家なら、好きで飛びつくでしょう。品物を買うときでも、ちゃちなものよりは、品質を厳しく管理しているブランドのものが好きになるでしょう。このような例で考えると、すぐ壊れるものに対して「好き」という感情ではなく、不要という気持ちが現れるのは当然だと思います。そうなると、無常が渇愛の原因だというのは、あべこべで、事実ではないと思われてしまうのも無理のない話です。しかし、釈尊の説かれた言葉に偽りはありません。これからその説明をいたします。

一日中ご飯を食べることができなくて、お腹が空いている人がいるとします。
その人に好物のご馳走を見せて、味見だけさせる。舌に微妙に食べ物が触れただけです。食べさせて貰えない、自分のものでもない食べ物だから、その人にその食べ物に対して「食べたい」という欲が全く現れないと思われますか? そうではありません。無性に食べたくなるのです。強烈に食欲が湧いてくるのです。また同じ人の前に、気の済むまで食べてくださいとご馳走をひろげた場合は、また違う感情が現れます。食べたいという欲はあるが、食べると同時にその欲が満足していきます。ケース1の場合は、食べ物は自分の前からすぐ消えるので、食べたい人にとっては無常なものです。相手を攻撃してでも、奪ってでも食べたいくらい、欲が湧いてきます。ケース2の場合は、食べ物は長い時間自分の前にある。充分味わえる。食べられる。欲を満たしますから、心が落ち着く。これは不完全な例ではありますが、「すぐ消える」ことは、強烈な渇愛を生み出すと理解できるでしょう。

万物の無常は、我々が考える文学的な無常とは、違うものです。
花が散った、火事で家がなくなった、親しい人が亡くなったなどの現象は、俗世間が考える無常です。「ある日突然変わりました」という意味なのです。しかし実際には、変わらないままでいて、ある日突然変わるわけではないのです。一瞬たりとも止まることなく、変わり続けているのです。恋人がある日突然別れるのではありません。日々愛情が薄れていって、一緒にいることさえも耐えられなくなった時点で別れるのです。突然別れたと勘違いするからこそ、激しいショックを受ける。悲しくなるのです。自然の流れだと理解している人は、精神的なショックを受けません。

瞬間瞬間、絶えず起こる変化・無常は、渇愛となるのです。
心が眼・耳・鼻・舌・身・意の六門から刺激を受けて回転する。それが、生きているという意味にもなります。刺激を受けて、喜びを感じたいのです。しかし、六門にいつでも喜ばしい刺激(色・声・香・味・触・法)が入るわけではありません。ですから、必死で喜ばしい刺激を探すのです。
人間が想う生きる楽しみとは、「好き」な色声香味触法に触れて、楽しい刺激を受けることです。うまく行けばありがたい話ですが、決してうまく行くものではありません。小量の楽しい刺激を受けるために、大量の楽しくない刺激を受けなくてはいけないのです。死に物狂いで努力しないと、希望が叶わないというのは、このことです。たまたま幸福感を感じても、それを得るために割に合わない苦労をしなくてはいけないのです。だからこそ、生きることが執着するに値しないと説かれたのです。

人が人生を成功して、苦労を味わうことなく、豊かで、贅沢をしながら生きていると仮定しましょう。その人から冨が簡単に逃げないので、落ち着いて、生きることを楽しめる。であるならば、その人に強烈な渇愛・欲がない筈です。しかし事実は違います。渇愛は苦労して生きている人と、ほとんど同じなのです。それが、すべては無常だから必然的に起こる現象なのです。

渇愛の意味は、日常使う言葉の中ででも理解できます。「もっと遊びたかった、もっと食べたかった、夏休みがもう一週間延びてほしかった、60歳まで仕事をしたかった、母親があと1年でも生きていて欲しかった」などの言葉をよく口にします。納得がいく前に、状況が変わってしまったので、「惜しかった」という感情を現している言葉です。単純ですが、これが渇愛です。無常が作り出した、ということも明白です。生きている上で、物事は納得する以前に消えてしまうのです。最後に、死にたくないのに、もっと生きていきたいのに、やりたいことがまだいっぱいあるのに、惜しんで死ぬのです。

この渇愛のエネルギーが、輪廻転生の原因になるのです。色声香味触法によって、快楽の刺激を得たいと想ってはいるが、期待する刺激を充分得る前に、色声香味触法が消えていくのです。もっと見たいのに、あるいは、充分見ていないのに、見られるものは変わるのです。もっと聞きたいのに、充分聞いていないのに、美しい音が消えるのです。もっと味わいたいのに、充分味わっていないのに、味わうものがなくなるのです。味わうものが充分あるときでさえ、お腹が一杯になって食べられなくなるのです。このように、何でもかんでも飽きる前に、納得する前に、充分楽しむ前に消えてしまうのです。心に残るのは、「もっとやりたかった」という気持ちだけです。これが、渇愛です。人は何をしても心に残るのは、たった一つ、「もっとやりたかった」という、渇愛だけです。

目耳鼻舌身意を色声香味触法で刺激したいが、決して納得できない、満足できない状態は、渇愛の一つの働きです。Kāma tanhā といいます。死にたくないという気持ちは、生きている生命に本来付随しているものです。今生で死んだ経験もないのに、死にたくないと思う。まずい何かを食べてしまって二度と食べたくないと思うのは、合理的な話ですが、経験したことのない死を嫌がることは、非論理的です。しかし死にたくないという気持ちは、強烈にある。これが本能です。無始なる過去で生きていて、無限に死んだ経験があるのです。死ぬたびに、「もっと生きていたかった」という渇愛が蓄積されてきたのです。ですから、生まれると同時に死の恐怖感は刷り込まれているのです。「死にたくない、生き続けたい」という気持ちは、渇愛の二番目の働きです。Bhava tanhā といいます。

「好き」なものに出会うと、欲も渇愛も生まれるというならば、嫌なものに出会うときは渇愛が現れないだろうと思われるかも知れません。まずいものを食べて、また食べたいと思う人はいません。うるさい音楽を強引に聴かされて、また聴きたいとは思わない。性格が合わない人と嫌々で付き合うはめになった人は、長く付き合いたいとは思わない。しかし面白いことに、この場合も渇愛は見事に牙を出します。この状況は嫌だ、何とか違う状況、環境が欲しい。何としてでもこの状況を変えたい、という渇愛なのです。まずいものを食べると、無性においしいものを食べたくなるものです。生きること、死ぬことを、避けられない、我慢できないと思う人々は、天国ででも永遠に生き続けたいと思うのです。このように、自分が置かれている環境をどうしても変えたくなる気持ち・渇愛は、vibhava tanhā といいます。

Vibhava tanhā は、bhava tanhā とは対称的です。ただ不景気の今の環境、状況を何とか変えたいと思うことは、vibhava tanhā になりません。Bhava tanhā です。この世で生きることの厳しさ、空しさ、恐ろしさ、不公平を感じる人は、生きることそのものに逆らおうとするのです。それが、vibhava tanhā です。
渇愛は、一切の「好き」の親分で、生きる苦しみの大元です。

今回のポイント

  • ものごとは、納得する以前に消えていく。
  • 無常という事実は、渇愛を生み出す。
  • 渇愛には、「人生を楽しみたい」「死にたくない」「生きるということをなんとかしてやめたい」という、三種類があります。

経典の言葉

  • Tānhāya jāyatī soko, Tānhāya jāyatī bhayam;
    Tānhāya vippamuttassa, Natthi soko kuto bhayaṃ.
  •  渇愛より 愁い生じ 渇愛より 惧れ生ず
    渇愛を 離れし時 何の愁いぞ 何の惧れぞ
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 216)