パティパダー巻頭法話

No.126(2005年8月)

皆に好かれる人間になりたい

仏陀が説かれる正しい好かれ方 The path to become admirable is simple.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人に好かれることは、人間にとってはとても必要なのです。
好かれる人は、楽しく生きていられます。頑固でわがままな人は、「私は人に好かれても、嫌われても一向に気にしない」と豪語するかもしれませんが、それが本当かどうかは疑わしい。好かれても嫌われても気にならない人というのは、煩悩を滅し、悟りをひらいた人です。覚者は一切の束縛から心を解放して、「自由」を獲得しているのです。誰のお世話にもなる必要はありません。人の気持ちを気にしながら生活する必要もありません。頑固でわがままというのは、覚者の生き方と正反対の生き方です。不親切で、他人の気持ち、悩み苦しみなどを一切気にせず、自分勝手で生きている人なのです。他人に好かれるのではなく、嫌われる一方です。人生が楽になるわけではなく、苦しみから苦しみへ転げ落ちるのです。人に嫌われても気にしないという生き方は、不幸になる道です。それだけではなく、その生き方は正しくない(悪)生き方なのです。自分の生き方が他人に嫌われているならば、自分は罪を犯す道を歩んでいる恐れが大いにあるのです。

したがって、我々の生き方が他人に好かれているかいないかは、明確に観察するべき条件の一つなのです。自分の生き方が他人に賞賛される、他人に好かれるものであるならば、もしかすると自分が正しい生き方(善行為をする生き方)をしているのかもしれません。なぜ「もしかすると」と言ったのでしょう? それは、人間がものごとを客観的に観察するという、気付きの行為を全くしないで、ただ単に他人に好かれようと必死だからです。他人に好かれたい一心で、何でもやるのです。たとえ悪いことでも頼まれたらやってしまう。他人に好かれるためならば、どんな惨めなことにも手を染めるのです。それで、罪を犯すだけではなく、自分の自由さえもなくなって、他人の奴隷になってしまいます。精神的に忍耐できないほど、ストレスを感じて苦難に陥るのです。他人に好かれたくて必死でしたが、結果として人生が苦難に満ちるならば、その生き方は正しくないのです。罪を犯す生き方なのです。

それでも、他人に好かれることは必要な条件です。この世で他人と仲良くすること、調和を保つことは必要です。誰も、独り勝手に完全孤独では、生きていられないのです。これは人間に限った条件ではありません。全ての生命は、他の生命と仲良く調和と秩序を保って生きていなくてはならないのです。とはいっても、闇雲に、無知で、無批判的に他人に好かれようとすることは、とても危険な生き方です。それで私たちは、正しい方法で他人に好かれる生き方を学んで、実践しなくてはなりません。

釈尊が説かれる慈悲の実践は、この問題に対する完全無欠の解決法です。観察能力がなくても、理性に乏しくても、全ての生命に対して、とやかく言わず慈悲の気持ちを広げて行けば、知っている人間にも知らない人間にも好かれるようになるのです。動物たちにも好かれます。神霊、悪霊にも好かれます。神々にも好かれるのです。自分が接するいかなる生命にも好かれるのです。本当のことを言うと、あまりにも他人に好かれることは、却って疲れることになるのです。それは道を誤っている場合です。しかし、慈悲の実践によってあらゆる生命に好かれることは、決して負担になりません。互いに依存したり、期待したり、いろいろ要求をしたりしないので、大変楽なのです。自分の努力は実を結びます。期待なども叶えられるのです。健康で長生きすることができます。精神的に、常に明るくいられるのです。幸福になるのです。

慈悲の実践以外にも、理性に基づいた正しい好かれ方があります。ついでに、それも学んでみましょう。まず、「好かれる」という概念の定義とその機能を考えてみましょう。簡単でハンディな定義はありませんが、とりあえず「他人が自分と接することで、喜びを感じる」という定義にします。言い換えれば「他人が自分に何かを期待している」という定義です。他人が期待するものを与えることができれば、他人に好かれるに決まっています。これが、「好かれる」ということの機能になるのです。

他人に何か与えるというと、いろいろ問題が起こります。何人の要求を叶えてあげられるのかということによって、何人に好かれるのかということが決まってきます。わがままで、自分の利益しか考えない人々に自分の人生を囲まれてしまう恐れもあります。人の要求に応じる一心で、自分自身の生き方がおろそかになることもあり得るのです。そうなると、結果は不幸ということになります。他人に何かを与える、何かをしてあげる、他人の要求に応じる生き方で好いてもらうことは、完全安全な道ではありません。俗世間では「与える」という行為は、「もらう」という行為とセットなのです。普通の生き方は、ギブアンドテイクなのです。ギブアンドテイクが成立したら、結果はチャラなので、別に互いに好かれても好かれなくても構わないのです。商売が成立したところで、相手に対して無関心になっても構わないのです。したがって、「与える行為」は他人に好かれるためのひとつの条件になるかもしれませんが、必須条件ではありません。ですから、定義をしたときは喜びという語を使ったのです。

自分と付き合うことで、相手が喜びを感じる。自然に自分が好かれることになる。ここで、自分から何か出ていった訳ではありません。他人も何かを狙って来た訳でもありません。この場合は、何人に好かれても自分には精神的な負担は全くありません。ギブアンドテイクの方程式もありません。これが理想的な好かれ方です。他人に何かしてあげることと、他人から何かしてもらうことは、好かれ方の問題とは別です。それは仲良くしている人々の間で、必要に応じて起こる一時的な現象です。

自分と付き合うことで、相手が喜びを感じる。とてもかっこいい言葉かもしれませんけれど、そんなことができるのかという疑問もあると思います。実行できない話はいくら言われても意味がありません。では、「喜びを感じさせる」ということについて考えてみましょう。喜びを感じさせるということは、自分に何か影響力がある、力がある、オーラがあるということです。神秘的な単語を置いておいて、具体的に分かりやすく言えば、「人格」ということです。すると問題は簡単です。自分が「人格者」であるならば、皆に好かれるのです。それはまた自分に対して、何の負担にもならないのです。とても楽に、幸福に生きていられるのです。

人気があるタレントさん達の生き方と、少々比較してみましょう。日本で俗に言うタレントさん達に、何かオーラがあることは確かです。その上、人を楽しませる能力も持っているのです。オーラと能力の種を持って生まれる人は、タレント業に挑戦するのです。オーラがそれほど無くても、衣装とメイクなどでオーラがあるかのように演じることはできます。人を楽しませる能力などは、日々の勉強や稽古によって磨き上げられます。タレントさん達は、自分の人気を維持するために絶えず努力する必要があります。努力しても、一生人気を保つことはできません。突然人気がなくなる場合があります。人気があるときでさえも、個人の人生は大変なのです。マスコミにもファン達にも、常にプライバシーを狙われています。相手には人のプライバシーを侵害する気持ちはないのですが、結果としてはそうなってしまうのです。さらに、タレントさんの人気は、自分の収入資源になります。ということは、商売道具なのです。したがって、タレントさんの人気と、皆に好かれる生き方は、同じものではないと理解したほうが良いのです。人気絶頂のタレントさん、芸術家、小説家などが、自殺してしまうケースも耳に入ります。皆同じ原因で自殺する訳ではありませんが、人気が負担になって生きづらくなった、自分らしい生き方を失いました、という原因もあるのです。

正しい好かれ方は、人格者になることです。では、人格者になるために、具体的にどうすれば良いのでしょうか? 答えは簡単です。まず、罪を犯さないこと。罪を犯したり、道徳を破ったり、社会でのしきたり、習慣を壊したりして、乱暴に生きる人は人格者でないことは明白です。ですから、人格者になる第一条件は、罪を犯さないことです。いくら誘惑があっても罪を犯さない人は、正真正銘の人格者なのです。罪を犯さない生き方は、それほど難しい事ではありません。やる気さえあれば実現できるのです。皆に好かれる生き方は、誰にでも決して夢の話ではありません。というよりも、罪を犯さない生き方を、人は必ず行うべきなのです。

罪というものは、世の中で数えられないほどあるので、犯さないように…といっても困ったことになるのです。そこで、お釈迦さまは無数の罪を十項目にまとめられたのです。(1)殺生、(2)偸盗、(3)邪淫、(4)嘘、(5)粗悪語、(6)両舌、(7)無駄話、(8)異常な欲、(9)異常な怒りと、(10)邪見です。(1)から(3)は、身体の行為です。(4)から(7)まで、言葉の行為です。(8)から(10)まで、心の行為です。身口意を守ろうと覚えておけば、更に実行は簡単になります。この中で、理解が難しいものは(10)の邪見です。邪見というのは、自分の主観にしがみつくこと。事実に照らすと間違いだとわかっても、捨てないこと。無批判でものごとを鵜呑みにすること。理性をおろそかにして、感情的にものごとを認めること。因果法則を無視して、創造論などを信じたり、行為には結果がない、と明らかな事実(因果法則)を否定すること。これが、邪見の意味です。結構危ないでしょう。この十の中で、一番重い罪が邪見です。

今の自分は最低最悪で何の存在価値もない、何ものでもない人間であっても、罪を犯さないと決めただけで、とても尊い人格者になるのです。それだけで人の生き方は幸福になります。罪を犯さないことは、肯定的に言えば善行為をすることになります。功徳を積むことになります。功徳を積む場合は、布施をする、奉仕をする、病人の看病をする、ボランティアをするなどの行為がいくらでもあります。しかし、人助けも無限に無量にできるものではありません。人間の能力もリミットがあります。この場合も、自分の心を清らかにすることが、功徳の中で最高の功徳なのです。怒り憎しみのない心を育てる。精神的に混乱することを止めて、落ち着いている。慈悲の気持ちを育てる。瞑想実践をする。などの行為には、リミットがありません。完全なる解脱を経験するところまで心を育てることができるのです。福祉活動だけを謳っている宗教もありますが、信仰を重んじる彼らにとって、心を育てることは重大な問題ではありません。また、福祉活動は伝道活動にもなるので、福祉を受ける人々に余計な精神的負担もかかるのです。仏教は、福祉活動だけを善行為としてハイライトしていません。なぜならば、人は無限に無量に善行為をしなくてはいけないのです。それなら、自分の心を育てることこそが答えなのです。人の一切の行いは心の支配によって行うので、心さえきれいであれば、全ての行為は善行為になってしまうのです。

罪を犯さない、功徳を積む、という二つの条件が揃えば、普通の人間には近づくこともできないほど尊い人格者になってしまうのです。オーラや人を引き寄せるエネルギーやら、人の役に立つ能力やらは、何でも自然にその人に備わっているのです。この人にとって人格は、タレントさんと違って被り物ではありません。本来の自分の生き方です。これが皆に好かれる道なのです。人間だけではなく、神々にも親しまれるのです。死後天界に生まれるときも、神々が皆揃ってやって来て新しく天界に生まれた人を大歓迎するのです。人に好かれる能力は、解脱をするまで身につけるべきものです。

今回のポイント

  • 他人に好かれなくては幸福になれない。
  • 好かれることだけを気にすると、疲れる。
  • 他人が喜びを感じる人格者は、好かれる。
  • 悪を犯さないこと、功徳を積むことが、人格者になる道です。

経典の言葉

  • Tath’eva kata puññaṃ pi, Asmā lokā paraṃ gataṃ;
    Puññāni patiganhanti, Piyaṃ ñātim’va āgataṃ. (Dh.219)
    Tath’eva kata puññaṃ pi, Asmā lokā paraṃ gataṃ;
    Puññāni patiganhanti, Piyaṃ ñātim’va āgataṃ. (Dh.220)
  • 久しく不在の人ありて 遠く無事にて帰還せば
    知友親友皆ともに 喜び迎うその帰還
    その如くにもこの世にて 徳積みし人あの世にて
    多くの福に迎えらる 帰還よろこぶ朋友達ともどちのごと
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 219,220)