パティパダー巻頭法話

No.166(2008年12月)

空虚な知識人

人の中身とは解脱の智慧である Knowledge can deceive you.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

仏教は信仰の宗教ではなく、智慧の宗教です。仏教徒は物事を信じるのではなく、理性をもって物事を観察するのです。経典を読んでみると、信仰を勧めるところは見当たりません。しかし、理性にもとづいた信(ākāravatī saddhā)という言葉があります。その意味は、まだ実証されていないが、理論的には事実だと仮に認めるという姿勢のことです。しかし、事実だと仮に信じる人は、必ず実証しなくてはいけないのです。一般的な言葉でいえば、「納得する」という意味になります。我々は、納得すれば問題は解決だと思っていますが、しかし、それは違います。事実が明確になると、人が主観的に納得することも、納得しないことも、関係がないのです。納得する時は、事実はまだ実証されていない、という意味になる。納得は個人の主観的な理解です。だから、何かについて一人が納得すると、もう一人が納得しないことになるのです。実証されたものは、納得する・しないに関わらず、事実、ということになります。仏教は、実証することを勧める教えなのです。したがって、ブッダが語られた真理は、普遍的な事実であって、個人的な見方ではないのです。

実践して何かを実証する場合は、まず理論的に仮説を立てなくてはなりません。仮説を作るために、たくさん学ばなくてはならない。知識が必要なのです。仏教に興味を抱く人々は、まず仏教を学ぶのです。ブッダの教えは真理なので、学ぶ人はその教えに納得するはずです。しかし納得は、個人の主観なのです。人が納得することは、その教えが正しいという証拠になりません。納得した人は、実践して、ブッダの教えが真理か否かを実証しなくてはならない。実証したところで、仏教徒としての仕事は完了なのです。

ものごとがこの道順で進むならば、問題はありません。しかし、二つの問題が起こります。まず一番目を考えましょう。「私が探し求めたものは仏教で説かれている」と言って、仏教に興味を抱く人も少なくありません。しかしこの気持ちは、仏教を知り尽くす衝動になる場合も、ならない場合もあるのです。人は、なぜ自分が不幸なのか、どうすればこの世の中で楽に生きられるのか、先祖供養をどのようにするのが正しいのか、などなどの様々な問題に興味を抱く。よく調べると、「生きる」という問題を全体的に見るのではなく、ある一つの側面に引っかかっていることが分かるのです。当然、仏教には答えがあります。ある特定の問題を抱えている人は、それに答えを見つければそれで満足して、他の教えに対して興味を失うのです。その人は、仏教を理解していると言っても、仏教の微かな一部を知っただけになる。このような人々は、ブッダが説く他の真理を無視するか、誤解するか、自分勝手に解釈するか、という結果になります。仏教は大好きですが、解脱に達するほどのカクゴはない、という人々は多いのではないでしょうか。サマーディに挑戦してみたい、呼吸方法を学びたい、超能力が現れるか試してみたい、浄土宗・日蓮宗・禅宗・真言宗などの教えの裏付けを見出したい、などと思って初期仏教を学ぶ人もいます。その人々は、自分の目的に達したならば、それで充分、仏教を理解したつもりになるのです。

個人の問題が、「なぜ生きるのか? 生きる目的は何でしょうか? なぜ生きることが苦なのか? 生きる苦しみはなくならないでしょうか? なぜこころが常に汚れているのか?」などであるならば、その人々は「生きる」という問題を全体的に扱っているのです。その人々なら、ブッダの教えを学んで理解して、実践して実証するまで、努力するでしょう。なぜならば、実証しない限り、自分が抱えている問題に完全な答え・解決方法が見つからないからです。

次に、二番目の問題を説明します。ブッダの教えはシンプルなように見えるが、実はシンプルではないのです。ブッダは、「生きることは苦である」という一つのテーマに引っかかっている思想家に見えるが、実は人間にかかわるすべての問題に対して、語られているのです。経済、政治、社会問題についても、質問に応じてブッダが説法する。哲学者たちと、厳密な論理に基づいて対話する。様々な物語をかたって、日常における問題について、具体的に教えてあげる。それから、仏教独自の真理も語る。存在を物質とこころという二つに分けて、詳細に分析して語る。仏教における心理の分析は、唯一無二のものです。ブッダが語られた因縁法則は、人間にはとても理解しがたい深遠なものであると、釈尊自身が注意なさいました。仏教を学ぼうとすると、大変です。あらゆる問題に対する、的中した答えがみつかるので、ある人はそれを研究したくなるのです。因縁法則、業の話、輪廻転生の概念、などを理解したいと挑戦する人もいます。知識能力が足らなくて、途中であきらめる人も少なくありません。そういう人々は、自分に理解できる範囲で納得してしまう。まだ理解できないものがたくさんあるので、仮説を立てて実証するまでは、カクゴが至らないのです。では、知識人として抜群の才能ある人の場合はどうなるのでしょうか。その人は、どこまででも挑戦して、学び続けるのです。いくら学び続けても、これで終わりました、終了しました、という気にはなりません。学べば学ぶほど、新たな挑戦が現れるので、時間がかかってしまうのです。実証する気持ちになる前に、学ぶ人の人生が終わる可能性もあります。

知識的に才能がある人に、もう一つ問題がオマケで付くのです。それは、否応なしに師匠にならなくてはならないことです。学ぶ学生はたくさんいるので、誰かが教えてあげなくてはいけないのです。それは、知識的な才能がある人の仕事です。他人に教えると、自分の勉強のスピードが落ちます。師匠も生徒も、学び終える前に人生を終えてしまうのです。さらに問題があります。仏教に対して異論を立てて挑戦する他宗教の思想家たちがいる。論争を職業にした人々もいる。その人々が仏教に対して果たし状を出したら、誰が受けるのでしょうか。やはり、知識的な才能に優れていて、仏教を学んでいる学者の義務となるでしょう。それもまた、時間を費やす作業になるのです。

さらに問題があります。仏教の世界では、知識人が人気者です。一般の人々は、仏教知識がある、対話能力に優れている人を敬うのです。仏弟子たちは財産を持たないので、信者の布施で生きています。豊かな生活はできません。しかし、能力のある有名な説法師になると、人々の尊敬のみならず、布施も豪雨のように降り注ぐのです。精神の成長に障害になる汚物だと思って捨てた、俗世間的な財産と名誉が、またその人を囲い込むのです。財産と名誉という海に溺れることになるのです。まだ解脱に達していない師匠にとっては、大きな問題です。弟子たちがたくさんいると、自分の能力に愛着が生まれます。四方八方から、問題に答えを求めて自分を尋ねて来られると、皆に期待されている大事な存在だと、自分に対して「慢」が生じるのです。師匠の生活や仏教の理解について問題があることが、他の修行者たちに見えたとしても、あまりにも恐れ多くて、それを指摘することができなくなるのです。指摘されても、おそらく聞く耳を持たないでしょう。そうなると、師匠が無知のままで人生を終える羽目になるのです。

仏教は信仰の教えではありません。智慧の教えです。仏教徒は、まず真理を学んで理解しなくてはいけない。理解してから、納得いく必要もある。だから、仏教には、基本的に知識を否定することはできない。論理的な態度でものごとを評価する性格も、一概に否定できない。学問は否定できないのです。逆に仏弟子たちに、修行の一つとして学問を勧めています。しかし、知識・学問・理論などを一方的に評価すると、ブッダが目指した実証する作業と矛盾をきたすのです。では、お釈迦様はこの矛盾に気づかなかったのでしょうか。いいえ、違います。明確に気づいていたのです。知識人になるために出家することを批判し、論争の達人になるために出家することを批判していました。たくさんの弟子たちに囲まれていることが仏道ではなく、孤独生活が仏道であると説かれていたのです。

ある日お釈迦様が、コーサラ国から遠く離れたイッチャーナンガラ村に行きました。村人たちは偉大なる師匠が自分の村に訪れたので、それはたいへん名誉なことだと思ったのです。皆互いに話し合って、各家から食事を作って、他のお供え物も揃えて、お釈迦様がおられる森に入りました。たいへんな騒ぎになりました。その時、お釈迦様が、そばにいたナーギタ長老に「この大騒ぎは何でしょうか?」と尋ねました。ナーギタ長老は、お釈迦様が有名なので皆お布施を持ってきていることを報告しました。お釈迦様は、受けることを拒否しますが、ナーギタ長老は、せっかくのお布施ですからお受けなさいますようにと勧めます。その時、お釈迦様は明確に、名誉と財産の恐ろしさを説かれたのです。(増支部五集三〇ナーギタ経)

Pothilaという名前の優れた学識のある比丘がいました。彼がたくさんの仏弟子たちの師匠として日々励み、皆に尊敬されていました。しかし釈尊は、説法の中で彼の話が出るたびに、中身のない(愚か者の)ポーティラと言ったのです。彼の名字は、やがて「中身のない」になりかかりました。皆に尊敬されている人に対して、決してよい話ではありません。しかし、お釈迦様はとても真面目に、その名字をあえて使うです。ポーティラ長老は考えました。釈尊は私に何か仰りたいのだろう。私は仏教を学んで右に出るものはないと言われるほどの知識人で、頭はいいかもしれないが、実践していない。教えを実証していない。理論ばかりの人生だ。偉大なる釈尊から言われるように、結局は空っぽなのだ。知識というゴミだけで、頭はいっぱいなのだ。私は実践して悟りに達しなくてはいけないのだ。このように思ったポーティラ長老は、たちまち弟子たちに別れを告げて、森に入って長老たちを訪ね、ご指導をお願いしたのです。知識人だという高慢を捨てたのです。しかし、長老たちはそう簡単に首を縦に振りませんでした。ある長老は、「自分が忙しいから、あの人の所に行きなさい」と、別の長老を指名しました。教授が弟子の指導を助教授に任せるような態度です。その長老も、別の長老を指名しました。その長老も、また別の長老を指名しました。徐々に、表面的に見ると、指導者の格が下がっているような気もします。しかし長老たちは、ポーティラ長老の知識人としてのプライドを微塵も残らないように壊していたのです。さすがのポーティラ長老も、それぐらいの仕打ちではあきらめるつもりはありませんでした。いくらみじめな目にあっても、お釈迦様からニコニコと「空っぽのポーティラ」とは言われたくないのです。最終的に、比丘戒も受けていない、年下の青年の沙弥を指名されました。ポーティラ大長老は、沙弥のところに行って土下座して指導をお願いしたのです。青年の沙弥は、阿羅漢果になっていた聖者でした。阿羅漢の沙弥は、「あなたが文句ひとつ言わないで、師匠として私に従う約束をするならば、指導します」と言ったのです。ポーティラ長老は了解して指導を受け、真剣に励みました。そして大阿羅漢になったのです。その時、お釈迦様が突然彼の前に現れ、「あなたは仏弟子として実践に励んで、完全たる智慧に満たされている人である」と、称賛されました。「中身のない(愚か者の)」という名字が、たちまち消えたのです。

仏教の知識はほとんどないと言えるほどの沙弥の指導で、たちまち悟りに達することができたのはなぜでしょうか。ポーティラ長老には充分、ブッダの教えに対する理解能力があったからです。しかし、知識人で有名になること自体は、自分で自分の首を絞める行為にもなるのです。解脱の道を閉ざすことにもなるのです。財産・お布施に執着をして、死後、餓鬼道に堕ちた出家のエピソードもあります。釈尊から微妙なユーモアで、「中身のないポーティラ」という愛称をつけられたことで、ポーティラ長老は救われたのです。

お釈迦様が、このように説かれます。実践によって智慧が生じるのです。実践しない人は智慧の道から堕落するのです。知識のみの道と、実践を備えた道という、二つを区別しましょう。知識のみの道は、破壊の道である。実践を備えた道は、智慧を完成する道である。仏弟子たちは、智慧を完成する道を選ぶべきなのです。

知識は抗がん剤のようなものです。なくてはならないが、本当は身体にとっては猛毒なのです。厳密に注意して、抗がん剤に頼って、がんを治すべきです。仏教に対する知識は欠かせないものですが、それを解脱の道を閉ざす悪魔からの贈り物にしてはならないのです。

今回のポイント

    無知な信仰より知識で理解すること
    理論より理性にもとづいて観察すること
    知識は両刃の剣である
    人格向上を助けない知識は危険な知識です
    智慧のある人が中身のある人です

経典の言葉

Dhammapada Chapter XX MAGGA VAGGA
第20章  道の章

  • “Yogā ve jāyatī bhūri, Ayogā bhūrisankhayo;
    Etaṃ dvedhāpathaṃ Satvā, Bhavāya vibhavāya ca;
    Tathāttānaṃ niveseyya, Yathā bhūri pavaddhatī”ti.
  •  瞑想により智慧生ず 瞑想なくば智慧滅す
    生と滅との二道知り 我(われ)を確立智慧を増せ
    (意:智慧が増すよう自己を制御せよ)
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 282)