パティパダー巻頭法話

No.171(2009年5月)

不退転の仏道

ウェーサーカ祭への祝辞 The Buddha’s way, the path to defi nite victory.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

仏教徒の新年

釈迦牟尼ブッダは、神々と人類に、幸福と平和をもたらすために、この世にあらわれました。ブッダの出現に勝るおめでたい日はないのです。まずスッドーダナ王とマーヤー妃の息子としてこの世に生まれた日は、神々と人類に幸福が生まれた日なのです。三十五歳でシッダッタ王子はブッダガヤの菩提樹の下で悟りに達して正自覚者・仏陀になられました。悟りを開くことこそが、究極の幸福を実現することです。この日で神々と人類に、究極の幸福を体験できるようになったので、この上のないおめでたい日なのです。それからブッダは四十五年間、人類に真理を語り続けて、悟りに達する方法を皆に教えて、これからの人類にも仏道を実践して究極の幸福に達する方法として教えを残し、八十歳の時、クシナーラー町のウパワッタナというサーラ樹園で、穏やかに究極の幸福である涅槃に入られたのです。この日も、神々と人類にとってこの上のないおめでたい日です。論理的には、この上のないおめでたい日はひとつしか成り立たないので、この三つの出来事を一つにまとめて、ウェーサーカ祭という名前で、テーラワーダ仏教の国々では五月の満月の日に、盛大に祝うのです。西暦二〇〇九年五月八日は、その満月です。仏暦二五五三年になりますので、仏教徒にとってはお正月です。皆さま方が健康と幸福に恵まれますように、世界に充満している不況と災難から守られますように、と祝福いたします。

唯一の聖書、唯一の福音

ブッダの教えは、比類なきものです。これは信仰に目がくらんで言っているのではないのです。事実なのです。世界のいかなる宗教を学んでみても、偉大なる思想家たちの思想を学んでみても、ブッダの教えほど具体的に合理的に間違いなく幸福の道を明確に語られているところはないのです。言葉とは不完全なものです。立派なアイデアがあっても、それをそのまま言葉で表現するというのはたいへん難しいことです。言葉だけ巧みに使える人は、中身のないどうでもよい思考を美しく語って、人を誘惑するのです。一方、人類に役に立つ思考を持っている人々は、言葉を巧みに使えないので、人々に無視されるのです。お釈迦様は、自分が完全に完璧に語ると明言されています。調べてみると、それはその通りなのです。ブッダの言葉には、異論を立てられません。教えは二千五百年も古いのに、現代の宇宙を制覇する時代にも適用できる。仏教はいつまで経っても時代遅れにならないのです。どれほど奇跡的なことかと、この際、考えた方がよいのではないかと思います。仏教は神のお告げではないのです。神のお告げというたぐいの文書は、矛盾だらけで、論理はあいまいで、説得力に欠けていて、時代遅れのものです。ブッダの言葉は真理の言葉、完全な言葉です。唯一の聖書、唯一の福音です。太陽のごとくつねに輝いているものです。お釈迦様は涅槃に入られる直前に、「私のあとには、私が説いた教えと実践方法が皆の師匠になるのだ」と説かれました。仏教を知ることで私たちに偉大なるお釈迦様に出会うことができるのです。

ウェーサーカ祭にちなんで、ブッダの教えをひとつ学ぶことで、釈迦牟尼ブッダに面会いたしましょう。

これは相応部有偈品第二の六「カーマダ経」(S2-6)という経典です。ある比丘が、昔まじめに修行をしてみたものの、自分の努力が足らなくて、また煩悩の壁も厚過ぎて、死ぬ前に悟りに達することはできませんでした。死後、彼は天界に生まれました。天界から悟りに達している阿羅漢たちとお釈迦様のことをあこがれの目で見た彼は、ブッダにお会いしたくなったのです。彼はブッダに会うと礼をして、対話を始めました。
(ここまで注釈書の説明です)

大変でも音を上げずに成し遂げる

カーマダ神
世尊、大変です。とても大変です。

神が、「仏道を実践することは容易いものではない」と自分の経験を述べたかったのです。もしや、お釈迦様が「あまりにも大変だから失敗してもそれほど気にすることではない」となぐさめの言葉をかけてくれたら、修行を失敗した、という後ろめたさがなくなると思ったでしょう。その期待とは裏腹に

お釈迦様
戒により 1.平静なる 2.学ぶ者はなし難きをなし遂げる 3.俗の束縛を絶って幸福をもたらす満足に達す。
  1. 平静なる
    大変であっても道徳を守ることでこころが落ち着きます。平静になるのです。統一するのです。
  2. 学ぶ者
    仏道を実践する修行者。
  3. 俗の束縛
    在家生活に対する未練。眼耳鼻舌身の刺激に対する執着。得難いものだから得る価値がある
カーマダ神
世尊、満足とは得難いものです。
お釈迦様
昼となく夜となく 4.こころが修行を好む、こころの静寂を楽しむ者は 5.得難きものを得る。
  1. こころが修行を好む
    一日一時間修行するどころではありません。修行がやみつきになっている状況です。修行によって得られる幸福を感じているのです。
  2. 得難きもの
    悟りに達することは世間の次元を破ることです。世間に対する未練を完全に絶つことです。悟りには、中途半端な修行では達しがたいのです。

難しいからこそ、こころを制御する

カーマダ神
世尊、こころは実に制御し難いものなのです。
お釈迦様
6.感覚器官を管理して制御し難いこころを制御する。カーマダ君、聖者は 7.死魔の網を破って歩む。
  1. 感覚器官を管理して
    眼耳鼻舌身意に入る、色声香味触法という対象によって、こころが揺れ動くのです。情報は瞬間たりとも絶えることなく身体に触れるので、こころを制御することはふつうは考えられない、あり得ない、難しいことです。しかしお釈迦様は、なぜこころが揺れ動くのかと、なぜこころが汚れるのかと発見したのです。目に様々な形が映ると、こころが揺れる。欲、怒り、混乱などの煩悩が生まれる。他の感覚器官の場合も同じです。修行者は感覚器官に情報が触れることは遮断できないので、代わりに欲・怒りなどの煩悩が起こらないように管理する。こころを制御する方法はこれに限るのです。
  2. 死魔の網
    死魔とは、魔神ではないのです。生命は生まれては死に、生まれては死に、という循環で輪廻転生しています。輪廻転生が死魔の網なのです。悟りに達する聖者が、この網を破るのです。

条件が悪いからこそ、成功する

カーマダ神
世尊、それにしても 8.この道は行き難く、険しいのです。
お釈迦様
カーマダ君、聖者は歩むのだ。俗人は険しい道で頭から転落するが、聖者には 9.険路も 10.平坦なり。

  1. 仏教用語で道といえば八正道を意味しますが、この場合は意味がダブっているのです。ここで道としているのは人の生き方です。要するに生きていることです。みな生きてはいるが、生きることは容易(たやす)くはありません。いつ躓つまづいて、転落するか分からない。
    先はつねに不安なのです。道が仏道になる場合は、危険ということはないが、実践するのは容易くはないのです。進むことができなくなって、俗世間の生き方に転落することもあるのです。
  2. 険路
    生きている上では、否応なしに罪を犯すはめにもなるのです。王になったら犯罪者に打ち首を命じたり、戦争をしたりしなくてはいけない。一般人であっても、危険な環境に遭遇したら相手を殺してでも自分を守ることになるのです。欲や怒りに目がくらんだら、様々な犯罪に手を染めてしまいます。こころを清らかに保とうと思っても、美しいものは目に触れる。美しい言葉は耳に入る。気持ちのいい感触は身体にふれる。こころが汚れて、悪に染まってしまう、堕落してしまうのです。気が弱い人が、こころを守るために安全な場所を探して走り回ることになっているのは、このせいです。しかし、山に隠れていて、こころを清らかに保っても、こころは清浄な境地に達したことにはならないのです。
  3. 平坦
    仏道は完全に安全に道を歩む方法を教えているのです。山にいても谷にいても村にいても町にいても、環境に動揺せずにいられます。悪い環境を、こころを育てるために上手に利用するのです。たとえば人が非難・侮辱をしたとします。その機会を怒りを抱かないで相手を我が子のように慈しむ修行に使うのです。人から激しい暴力を受けて殺されそうになったとします。この大事なチャンスを逃さないのです。
    いかに冷静にいられるか、いかに肉体に対する愛着を捨てられるか、いかに当然くる死を冷静に迎えられるか、いかに肉体が苦でできているか、いかに生命が苦におびえて生に執着して輪廻転生するか、いかにこの瞬間で生に対する一切の執着を捨てて死ぬ一瞬前にでも悟りに達せられるかと、挑戦するのです。ですから、聖者には険しい道という道はありません。道は平坦なのです。

英雄の道

この経典は、仏道の特色を教えてくれるのです。仏教徒には、難しいから止めた、やり難いから止めた、などの泣き言はないのです。やらないための言いわけなどないのです。負けは認めないのです。「なんでそんなに頑張っているのですか? 修行は難しいでしょう。悟りに達するのは雲の上の話でしょう」と言われたら、仏教徒は「難しいからこそ、やっているのです。やりがいがありますから。まれな人にのみ達せられる目的だからこそ、悟りに達したいのです」と答えるでしょう。たとえ精神が弱い人であっても、ブッダの教えに納得したところで、精神の強者になります。負けず嫌い人間に、挑戦者になるのです。

しかし、仏教徒は盲目的に猪突猛進するのではありません。理性がある、能率主義者なのです。頑張っただけでカッコいいと思っていません。結果が出るように精進するのです。少々の結果で喜んで、止まることもしません。最終解脱に達するまで、これ以上やることはないと実感が現れるまで、成すべきことは成し終えたと、実証的に言えるところまで精進するのです。お釈迦様は、芯が弱くて神に頼る、山に頼る、迷信に頼る、神話に頼る人々をいとも簡単に解放し、自由にしました。彼らに、自分の主は自分自身であることを教えたのです。仏教は自由(解脱)を語る教えなのです。

経典の言葉

Kāmadasuttaṃ
カーマダ経

  • Ekamantaṃ thito kho kāmado devaputto bhagavantaṃ etadavoca —
    “dukkaraṃ bhagavā, sudukkaraṃ bhagavā” ti.

    “Dukkaraṃ vāpi karonti (kāmadāti bhagavā),
    Sekhq sīlasamāhitā;
    Whitattā anagāriyupetassa, Tutthi hoti sukhāvahā” ti.

    “Dullabhā bhagavā yadidaṃ tutthī” ti.

    “Dullabhaṃ vāpi labhantntti (kāmadāti bhagavā),
    Cittavūpasame ratā; Yesaṃ divā ca ratto ca,Bhāvanāya rato mano” ti.

    “Dussamādahaṃ bhagavā yadidaṃ citta” nti.

    “Dussamādahaṃ vāpi samādahantntti (kāmadāti bhagavā),
    Indriyūpasame ratā;
    Te chetvā maccuno jālaṃ,Ariyā gacchanti kāmadā” ti.

    “Duggamo bhagavā visamo maggo” ti.

    “Duggame visame vāpi, ariyā gacchanti kāmada;
    Anariyā visame magge, papatanti avamsirā;
    Ariyānaṃ samo maggo, ariyā hi visame samā” ti.

  • 傍に立ちてカーマダ天子は世尊にこれを云えり。
    「世尊、そはなし難し。世尊、甚難なり」と。

    (カーマダよ、と世尊は宣えり)
    「なし難きをも彼等はなせり。有学にして戒に依りて寂静に、
    また確立し、家を出でたる人に、安楽をもたらす知足あり」と。

    「世尊、その知足は甚だ得難し」と。

    (カーマダよ、と世尊は宣えり)
    「得難きをも彼等は得たり。心の寂静を楽しむその人の心は、
    日にも夜にも、修習を楽しめばなり」と。

    「世尊、心は実に静め難し」と。

    (カーマダよ、と世尊は宣えり)
    「静め難きをも彼等は静めぬ、諸根の寂静を楽しむ彼等は、
    死魔の網を破りて、カーマダよ、聖者として歩むなり」と。

    「世尊、この道は行き難し、けわし」と。

    「生き難きをも嶮しきをも、カーマダよ、聖者は歩むなり。
    聖ならざる人は嶮しき道にて、彼等は頭を下に倒る。
    聖者の道は平かなり。聖者は嶮しきをも平かに歩めばなり」と。

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