パティパダー巻頭法話

No.181(2010年3月)

修行は独りでおこなう

独居修行とは精神の自由 Solitude means freedom of the mind.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXI PAKINNAKA VAGGA
第21章 種々なるものの章

  1. Ekāsanaṃ ekaseyyaṃ Eko caramatandito
    Eko damayamattānaṃ Vanante ramito siyā.
  • ただ独り坐し 独り臥し ただ独り往き懈怠けたいなし
    独りで調御悦ぶは 森を楽しむものならん
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 305)

独りぼっちになるのは嫌なものですね。歳をとって、体調も悪くて、田舎で独り住まいするようになったならば、なおさら心配することでしょう。若者にとっては、一人暮らしはかっこいいことです。それは親の管理から自由になっただけの話で、たくさん友達を作っているのです。バイトや仕事で一日忙しいのです。ですから、一人暮らしをしても、独りぼっちではないのです。人間には、社会から隔離されて孤立生活はできないのです。社会の一員として、生活しなくてはいけないのです。社会の一員にならないと、経済的に苦しくなるのです。それよりも精神的に悩み苦しむことになるのです。ですから、精神的な落ち着きを保つためには、社会の一員であることが欠かせない条件です。

しかし、仏教に関心ある方々は、中村元博士が翻訳された『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫)というテキストを読んだことがあると思います。スッタニパータ蛇の章の第三「犀の角の経」は、徹底的に独居を讃えているのです。その教えの内容に惹かれる方々が、社会に抵抗して独りで生活することがブッダの本来の教えではないか、と思われてしまうこともよくあります。それが事実であるならば、仏教は反社会的な教えだと言わざるをえないのです。仏教の戒律も、出家の生活習慣も、ブッダの教えそのものも、反社会的だと思う方々もいるのです。しかしながら、仏教は反社会的でもないし、我々が生きている社会をそのまま賛嘆する教えでもないのです。

世の中の宗教は、ほとんど儀式に凝り固まっているのです。またカルト的な宗教も、人々に好まれるのです。どちらにしても形式的な何かの行をおこなうことが著しいのです。それらの宗教の場合は、社会とは何のコンタクトも取らないで独居生活をする修行もあるのです。カトリック教、イスラム教、ヒンドゥー教などにも独居修行をする習慣があります。
江戸時代の日本にも、即身仏という習慣がありました。僧侶が生きたままで土の中の穴に入って、断食して修行を続け、そのまま亡くなるのです。うまくいけばミイラになって、人々の崇拝対象になりました。このように形として社会から離れる行は、ブッダの教えの中には見当たらないのです。しかし面白いことは、自分では実践するつもりは毛頭ないわりに、誰かが命をかけて独居修行をするならば、その人を賛嘆し崇拝することです。修行者たちは、社会の要求に乗って自分の命を粗末にすることもなかったとは言えないのです。キリスト教の独居修行の場合は、神を経験したいという願いがあるのです。社会とのコンタクトを一切絶って、一日中祈りだけに費やす修行をするのです。全知全能の神が存在すると素直に信仰しているならば、ややこしい反社会的な行動をしなくてもいいのではないかとも言えます。

ブッダの教えはカルト的な教えに大反対なのです。形式的な儀式儀礼にも反対なのです。儀式儀礼をおこなうことで心が清らかになるのだ、という考えは、仏教は認めないのです。しかし、真理を何も知らない一般人は、苦行をする人々のことを敬うのです。
ですから、苦行によって心が清らかになる、神と一体になる、などの考えは、「教理」というより人間の感情なのです。ですから煩悩なのです。ブッダの実践方法で第一ステージの覚りに達する人は、戒禁取という煩悩から解放されるのです。戒禁取とは、儀式儀礼、宗教的しきたり、苦行などによって心が清らかになる、という観念的な思考のことです。

それでも仏教は、独居を賛嘆することも明らかです。しかしお釈迦様はじめ仏弟子たちは、一人も山に隠れて社会との関係を切断して、他人と口もきかず、顔も合わさず、修行した例はないのです。独居するどころか、お釈迦様は四十五年間、伝道しながら遊行したのです。お釈迦様の周りに、毎日のように何百人もの人々が集まるのです。お釈迦様の高弟たちは、たまたまお釈迦様に挨拶にうかがうときでも、最低二百人くらいのグループと一緒に来るのです。祇園精舎のような立派なお寺も出来上がったのです。仏教のお寺とは、独居するところではなく、みな集まる集会所のようなものです。誰でも自由に伺うことができる場所、なのです。それでお釈迦様が説かれる独居とは何なのかと、疑問が生じます。

言ってはいるが実践していなかったと、批判することはできないのです。なぜならば、お釈迦様が他人に言うことは、まず自分が実践して試してから言うのです。如来(tathāgata)の定義があります。その一つは、Yathā vādī tathā kārī 語ったとおりに行う、Yathā kārī tathā vādī 行ったとおりに語る、というものです。如来(tathāgata)という語は、tathā(このように)gata(実践を終えた)という二つの単語の合成です。ですから、お釈迦様も弟子たちも、確実に独居修行をしたはずなのです。

仏教の独居修行は、決して形式的なものではありません。行でもカルトでもありません。仏教は心理学でもあります。ですから、独居修行とは心理的なものになるのです。独居修行とは、精神的な独立、のことなのです。心が自由になって、何にも依存しない状態なのです。身体的に、社会と関わりを持たないという意味にはなりません。お釈迦様も遊行の途中でカーシー国に入って、父王の様子を伺ったのです。釈迦族のことを心配していたのです。他の弟子たちも、親のことを心配したり、友人のことを心配したりしたのです。それでも、独居修行なのです。

我々は、眼耳鼻舌身で色声香味触というデータに触れて認識を起こすのです。それから概念をつくったり、考えたりするのです。概念と同時に貪瞋癡などの感情も生まれるのです。要するに、我々はよく、自分、自分と言いますが、その自分とは、何の独立性もない、環境が築いた感情に過ぎないのです。環境が変わるたびに、「自分」も変わってしまうのです。

明るい自分でいても、ほんの少々環境が変わっただけで、暗い自分に変身するのです。楽しく遊んでいる人に、誰かが「いま、あなたの家から電話がかかってきました。お母さんが事故を起こして病院に運ばれました」と実験として言っただけでも、瞬時に心がショックを受けるのです。その場合は、事実ではないのです。耳に音が触れただけなのです。しかし、心に起こる変化はたいへんなものです。

我々の心(自分)は、環境に操られているのです。心の変化は環境次第なのです。ですから一般人の生き方とは、環境に依存することです。環境に左右されることです。環境にすがることです。要するに、環境の奴隷なのです。「自分」が環境の奴隷であるならば、環境の影響から離れる自由はないのです。仏教の修行とは、環境によって心が揺らがないようにすることです。環境によって様々な感情の荒波が立って、心が悩んだり苦しんだりしないようにすることです。この修行が、仏教の独居修行なのです。どこかに物理的に閉じこもることではないのです。正しく修行するためには、社会と一緒に、激しく変化する環境の中に、身を置く必要があるのです。それで絶えず攻撃してくる情報によって、心が揺るがないようにする修行をするのです。

人が仮に社会から離れて、独居していると思いましょう。ではこの形をとっただけで、心の自由が得られますか? 得られません。大量の妄想、思考、感情などが割り込んできて、攻撃するのです。妄想・思考の中身は、世間のことです。また、世間のことに関する欲、怒り、嫌気などの感情も、妄想の対象になるのです。物理的に閉じこもった状況を作っても、心は環境の奴隷のままです。思考・妄想を停止させる瞑想実践をしなくてはいけないのです。これも容易いことではありません。修行中であるならば、環境からの攻撃を避けることができるのです。感情の荒波も、制御することができるのです。心が強くなって、集中力があがって、智慧が現れてくると、真理を発見するのです。それと同時に、心が自由な境地を経験するのです。従って、覚りに達した人は、十万人の大衆と一緒にいても、独居中なのです。お釈迦様が覚りをひらいた瞬間から、涅槃に入られた瞬間までの四十五年間も、独居生活だったのです。

修行する仏弟子たちは、独居修行に挑戦しているのです。大衆といっしょに坐っていても、心は瞑想対象から離れません。それは、独りで坐ること、と言うのです。何百人も修行者がいる大講堂で横になって寝ても、自分の瞑想実践を続けるので、独りで寝る、ということになるのです。「みなと一緒にいると楽しい、たくさんの行者たちがいるので寂しくはない」と思う場合は、独居修行ではないのです。依存です。心を気づきの瞑想から離れないようにすることが、一人暮らしであり、独居修行なのです。

心は、環境からのデータに触れると、荒波を立てるのです。心を安定させるために環境を改良する、ということは現実的な話ではないのです。何かを見ると心が揺らぐ、という人が、世間にある目に見えるすべてのものを無くすことは、あり得ない話です。
たとえ無くしたとしても、心が強くなるわけではないのです。弱いままです。いくらか静かな場所に住むことにしても、心は思考・妄想という自己回転を始めるのです。心を感情から、思考から守るためには、自分ひとりで精進しなくてはいけないのです。心が汚れないようにして下さいと、他人に頼んでも、それはあり得ない話なのです。自分ひとりで、他人に頼らず、精進しなくてはいけないのです。ですから、仏道そのものが、独居修行なのです。決して、肉体的に、物理的に、どこかに隠れることではないのです。
仏教の修行においては、社会との関係から離れることはまずいのです。修行できなくなるのです。修行者は社会に対する執着、愛着を根絶するのです。

今回のポイント

  • 独りで修行しても独居修行にはなりません
  • 独りぼっちの修行はカルト的です
  • 独居とは心理的な状況です
  • 仏道は正真正銘の独居修行なのです