パティパダー巻頭法話

No.187(2010年9月)

なぜ皆、覚らないの?

仏道の軌道修正の仕方 Not to be a failure do not spoil your path.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXⅡ NIRAYA VAGGA
第22章 地獄の章

  1. Kuso yathā duggahito _ hatthamevānukantati
    Sāmaññaṃ dupparāmatthaṃ _ nirayāyupakaddhati.
  2. Yaṃ kiñci sithilaṃ kammaṃ _ samkilitthañca yaṃ vataṃ
    Sankassaraṃ brahmacariyaṃ _ na taṃ hoti mahapphalaṃ.
  3. Kayirā ce kayirāthenaṃ _ dalhamenaṃ parakkame
    Sithilo hi paribbājo _ bhiyyo ākirate rajaṃ.
  • つい手にとりし吉祥草クサそうが 我れと我が手をる如く
    沙門サマナも暮らし誤れば地獄ニラヤにこそは引き込まる
  • 爲すこと緩漫 戒行穢れ
    疑わしかる清淨行 これらは大なる果とならず
  • なすべきならば断固とし それに対いて励むべし
    行動鈍き遍歴者 兎角不淨を撒き散らす
  • 訳:江原通子
  • 握り方が悪ければ クサ草でさえ手を切るように
    沙門の修行も間違えば 地獄に引きずり落とされる
  • およそ行為に締まりなく また務めにも汚れあり
    疑いあれば、その梵行は 大きな果あるものにならず
  • なすべきならばそれをなせ 堅固にそれに邁進すべし
    締まりを持たぬ出家の修行は いよいよ塵を撒き散らす
  • 口語訳:片山一良(『ダンマパダ全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』大蔵出版より)
  • (Dhammapada 311-313)

ある一種類の茅草がインドにあります。クサと言います。葉は2、3センチくらいの幅があって、長さが1メートルくらいになります。葉の両側には細かい棘の役割を果たす毛が下向きに生えていて、クサの葉を引っ張って取ろうとすると怪我をします。しかし、葉っぱの先から根元まで、いくら触っても怪我はしません。しかしこのクサは、色々な仕事に必要なのです。クサを取る人間は、怪我をしないように工夫しないといけない。クサを食べる動物たちも、工夫して食べないと怪我します。

お釈迦さまはクサを喩えにして、我々に大事なポイントを教えておられるのです。うかつに、また間違った方法でクサを取ると、その人の手は大怪我をする。そのように、出家修行が間違うと、地獄に引き込まれてしまうのです。「私は出家だ」と自称しても、出家の正しい生き方を学んでいないと、自分勝手に正しいと思う方法で生活するのです。それはとても危険であると、注意されているところです。

普段は自分ひとりで何も正しく判断する能力のない人間なのに、修行となると自分勝手に修行方法を考えて実行する傾向があります。お釈迦さまの時代、インドでは嫌になるほどたくさんの修行方法があったのです。現在インドはヒンドゥー教ですが、ヒンドゥー教の修行方法はひとつではありません。ヒンドゥー教には開祖さまがいないので、一人ひとりが自分好みの修行方法を編み出すのです。「自分が決めた修行方法」と聞けば、自由でいいのではないか、と賛同したくなる可能性があります。しかし仏教から見ると、それは危険なのです。人が自分のために修行方法を決めたという場合、その人はまだ智慧を開発していない、心が汚れている、修行を必要とする、未熟な人なのです。心が汚れている未熟な人に、修行方法を編み出すことができるはずがない。小学生が一人前のオトナになるまでのカリキュラムを自分で考えるようなものです。上手く行かないに決まっています。カリキュラムは子供が作るのではなく、教育の専門家が作るべきものです。

個人個人で修行方法を考えることは危険です。人には自我という錯覚があります。思考はすべて主観なのです。そのうえ感情にも支配されているのです。このような能力で、よかれと思って考えることも、結局は悪結果で終わるのです。「よかれと思ってやったのに」という反省は、ほとんどの人々にあることだと思います。でも、「お釈迦さまも自分で修行方法を考えたのではないか」と反論することができます。お釈迦さまだけは特別なのだ、というのは答えではありません。お釈迦さまは先ず、たくさんの人々が正しいと思っている修行方法を学んで実践してみました。ご自分で試してみて、結果がないと分かった修行方法を止めたのです。六年間の試行錯誤の修行の実験から「超越道」を見出し、その方法で覚りに達したのです。結果として、自分に師匠がないことになってしまったのです。覚りに達したのち、お釈迦さまは「師匠がいない生き方はとても不安だ」と、自分の気持ちを述べて、自分は誰を師匠に仰ぐべきかと調べました。しかし、仰ぐべき存在は見つからなかったのです。それで、自分が発見した真理(法)を師匠とするしかないのだと決められたのです。このエピソードも、未熟な人を導く熟練の人が必要であることを語っています。また、我儘好き勝手に何かをやることは危険であるとも語っているのです。

お釈迦さまは、人間のもう一つの問題を指摘されるのです。完全たる智者であるブッダの教えに従って出家する人々がいます。お釈迦さまが完全たる修行方法を指導するので、出家する皆、最終解脱に達することが当然の結果であるべきです。しかし仏道で出家したからといって、皆、解脱に達するわけではありません。お釈迦さまの立場から見ても、これは困った問題です。喩えで言えば、せっかく東大に入ったのに、卒業できなかったようなものです。仏道で出家しても、なぜ皆、解脱に達しないのでしょうか。修行方法が完全・完璧であるならば、解脱に達するはずなのに。

仏道は完全無欠の道であると、お釈迦さまは強調なさっています。間もないうちに、実践する人々は一切の煩悩を滅し解脱に達するのだと保証するのです。論理的に考えれば、在家はともかく出家は皆、解脱に達しなくてはいけないはずです。しかし、結果はそうではありません。ある日、お釈迦さまにこのような考えが浮かんだことがあります。「かつては戒律・規則などはほとんど無かったのです。しかし、出家する弟子たちは皆、解脱に達しました。いまはたくさんの弟子たちがいます。同時に、戒律・規則などもたくさんできて、サンガが組織として整備されています。しかし、解脱に達する人々は極めて少なくなっているのです。」(戒律・規則がたくさんあると、同時に複雑にもなるのです。それを学んだり実践したりすることで、精一杯になります。瞑想実践する余裕が無くなるのです。)

修行方法は完全であっても、中途半端で生半可な気持ちで実践するならば、大果には至らない、とお釈迦さまは説かれたのです。何かを行なおうと決めたならば、それを徹底的に実行するべきである、という意味になります。決めたことはしっかりと実行しなさい、という戒めなのです。俗世間でも、この言葉はよく耳に入ります。親も自分の子供によくいう言葉です。なぜ人間を「頑張れ、頑張れ」と後押ししなくてはいけないのでしょうか。皆、一生懸命応援してくれたから、優勝することができましたというスポーツ選手たちもいます。本当はそれが恥ずかしい言葉なのです。スポーツ選手だから、誰一人も応援しなくても、優勝をめざして頑張ることが当たり前の話です。
しかし、応援団の数がすくなくなったり、相手チームの応援が強くなったりすると、気が緩んで負けてしまうこともあります。

この例で、人間のひとつの弱さが見えてきます。やる気・意欲があっても、持続できないみたいです。気が緩んでしまうのです。それで期待する結果は得られなくなるのです。これは誰にでもある弱みかも知れません。他人に応援してもらうこと、励ましてもらうことは、俗世間ではよくあることですが、それは結局、他人に依存していることになるのです。本物の人なら、励ましがあってもなくても、精一杯努力して、成功を収めることでしょう。それでも、励ましてもらうことで優勝できる可能性が少しでも高くなるなら、励ましはあった方がいい、ということになるでしょう。しかしこの俗世間の論理は、仏道には適用できないのです。修行者を一生懸命応援してあげると、それがストレスになって、緊張してしまって、心の統一に達しないことがあるのです。

また、「皆の喜びの顔が見たくて覚りに達した」と言ってしまう可能性もあります。スポーツの場合は優勝したか否かは、皆に分かることですので、ごまかしはできません。人が覚りに達したと言っても、その言葉が本当か否かを判断することは難しいのです。

師匠と内緒で話しあって、相談して、修行を進めるのは、仏教のやり方です。

解脱というのは、心が完全に自由な境地に達することでもあります。自由は依存で成り立つものではなく、依存や束縛を絶つことで成り立つものです。ですから、修行者の解脱に達する意欲を持続してもらうために応援することは、逆効果になるのです。それでも、どんな経典を読んでみても、お釈迦さまが弟子たちを厳しく励ましている言葉に出会います。
仏教の励ましの言葉は、「頑張れ、頑張れ、あなたならできる」などとはニュアンスが違うのです。「明日は死なない、という保証がないので、今、行うべきことを完了しなさい」が、仏教の一つの励ましの言葉です。これは、正直に言うと脅しなのです。脅しのニュアンスが入った励ましは、俗世間ではしない方がよいのです。「あなたが勉強しないなら、バカになって、皆に笑われますよ」といった励ましは、それほど効き目がありません。人の意欲は、簡単に下がるものです。常に自分自身で自分を励まして、奮い立たせなくてはならない。たとえ善い、正しい道であっても、生半可な気持ちの実行では目指す結果には至らないのです。

正しく指導を受けて実践に挑戦しても、実践方法がいつの間にか変わってしまう、という現象があります。不殺生、不妄語などのシンプルな戒律を守るときでも、いつの間にか自分なりに「改良」しているのです。文字通りに行わないのです。蚊なら殺してもしょうがない、人を助けるための嘘だから不妄語にならない、などと自己解釈で改良するのです。
これは、改良ではなく、改悪なのです。瞑想の場合は、必ずと言えるほど起こる現象です。いつの間にか、これは妄想ではなく仏教の真理について考えることだから問題ない、と思ってしまうのです。やがて瞑想は、妄想実践になってしまうのです。

いくら道が完全無欠であっても、いつの間にか自分の実践が変わってしまうことは必ず起こると注意しなくてはいけません。持続する意欲に恵まれていても、これなら大果になるはずがない。方法を微妙にでも変えると、期待する結果に至らないのです。
この現象に、修行が汚れた、と言うのです。ブッダが説く道徳と修行に、より真面目に行う気持ちで、何かを付け加える人々がいます。例えば、不殺生戒は菜食主義者に変わってしまう場合があります。肉魚を食べないのは構わないが、菜食「主義」は、修行にとって汚染物質です。怠けず努力するのは正しいですが、怠けないことが、苦行してしまうことにも発達するのです。修行に汚染物質が入ったことには、本人が気づかないのです。本人は他人よりも真面目に行っているという気分に陥っているのです。

個人が修行を始めると、汚染物質が入る可能性が大いにあると理解しなくてはいけないのです。きれいな服を着ても、着た時点からその服が汚れるでしょう。洗わなくてはいけないのです。修行を続ける人々も、このポイントを考慮して、軌道修正しなくてはいけないのです。汚染物質が入ることに、本人が気づかないことが問題です。気づいたら、軌道修正するに決まっているのです。仏道は完全無欠であっても、修行する皆、覚りに達しない理由の一つです。方法が汚れると期待する結果に達しないのです。

では、次の問題に入ります。「修行者はこれでいいのでしょうか、この方法は合っているのでしょうか、指導者に叱られるのではないでしょうか」などなどで、悩むこともあります。また、「この方法で本当に解脱に達するのでしょうか、もっと早く楽に解脱に達する方法が有るのではないでしょうか、この修行は自分の性格に本当にあっているのでしょうか、指導者が私の気持ちを正しく理解しているのでしょうか」などなどの悩みも入ります。これらは自分自身に自信がないことを示しています。自信が無くなると、不安が割り込むと、緊張感が入ると、修行が揺らぎます。揺れ動く修行では、大果には達しないのです。

やっていることに自信がもてないことは、俗世間ではよくある現象です。はじめに自信があっても、あとで自信がなくなることもあります。早く結果を出したいという焦りが入る時も、自信がなくなってしまうのです。俗世間の人々も、一生懸命努力していることだけは確かですが、期待するほどの大果には至らないのです。何かを行ない始めたとき、不安が割り込んで、その行いが揺らいでしまうことは、ごく自然な心理現象です。注意しなくてはいけないのです。これも、修行する皆、覚りに達しない理由の一つです。

お釈迦さまの最後のアドバイスに入ります。「何かを行なおうとするならば、断固として不撓不屈の精神で行うものです。締まりの無い修行では、汚染物質が増えるだけです。」これは必ず期待する目的に達するための戒め、なのです。

現代日本語で言い換えてみます。やると決めたことはやりなさい。断固としてその道を進みなさい。諦めず、不撓不屈の精神で、結果を得るまで進みなさい。ということになります。何か原理主義者の言葉のように聞こえるかも知れません。しかしこれは原理主義にはならないのです。なぜならば仏道では、いま・ここで解脱という結果を得ようと努力するからです。他宗教の原理主義者たちは、自分たちの宗教の教えで悪行為を犯すために、悪意の解釈をしているだけです。もともと汚れた教えなら、もともと不完全な教えなら、(死後、天国に生まれるなどの)期待する結果に必ず達するという保証がないならば、原理主義はマズイのです。私たちも子供たちに決めたことを最後までやり遂げなさいと言うのですが、それでいいとは言い切れません。その「決めたこと」がその子供に善い結果にならない可能性もあります。

また、やってみなくてはわからない、というケースもあります。その場合は、やってみたところで善い結果ではなく、悪い結果になってしまったら、努力は無駄になるのです。俗世間では、誰にもこれが完璧だと言えないので、何かを覚悟を決めて行うことにしても、よい結果になるか否かをつねに調べてみる必要があります。

仏道においては、この不安が起こらないように、お釈迦さまがたくさん保証の言葉を語られているのです。道は完全無欠であると力説するのです。いま・ここに結果に達することはできるのだ、と説くのです。ですから仏道に励む人々は、徹底的に不撓不屈の精神で修行を結果が出るまで貫くべきなのです。

今回のポイント

  • 正しい道は自分自身では決められない
  • 智慧を完成した人の導きを仰ぐべき
  • 行うことは貫くべき
  • 半端な気持ちと揺らぐ心では結果は得られない
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