パティパダー巻頭法話

No.221(2013年7月)

自己破壊を招く「おしゃべり屋」

正しく語ることも修行のひとつです Are you talkative or eloquent?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

経典の言葉

Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
第24章 比丘の章

  1. Yo mukhasamyato bhikkhu
    Mantabhānī anuddhato
    Atthaṃ dhammañca dīpeti
    Madhuraṃ tassa bhāsitaṃ
  • 比丘ありて 言葉つつしみ智慧もて語り
    穏やかに義と法を説く 彼説くところ そのげんや好し
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 363)

白鳥と亀の悲劇

必ず一度くらい聴いたことがあると思いますが、今月の話は一つの有名な逸話から始まります。
昔、ヒマラヤ地方のある池に亀が棲んでいました。二羽の若い白鳥は、餌を探しているうちに亀と親しくなりました。彼らは強く信頼しあっていましたが、ある日、白鳥たちが亀にこう言いました。「亀さん、僕らが棲んでいるヒマラヤのチッタクータ山にあるカンチャナ窟はとても気持ちのいい所です。ぜひ一緒にいらっしゃいよ」

亀「でも、僕がどうやって行けますか?」

白鳥「僕らが君を連れていってあげます。ただし、君が口を守って、誰にも一言も喋らなければね」。

亀「守りますよ。僕を連れていってください」。

二羽の白鳥「それでは」と、一本の棒切れを亀にくわえさせ、その両端をくわえて空中に飛び上がりました。このように亀が白鳥たちに連れられているのを見て、村の子供達は囃し立てました。「見ろよ、二羽の白鳥が亀を棒切れで運んでいるぞ」。

亀は「友達が僕を連れていってくれるのさ、どんなもんだいッ、悪ガキども!」と言いたくなり、白鳥たちが高速でバーラーナーシーの王宮にさしかかった時、思わず口を開けて棒切れを放してしまいました。亀は王宮の中庭に落ち、真っ二つに割れてしまいました。

このお話はジャータカ物語の第二一五話に収録されています。これは面白いはなしなので、後世に『パンチャタントラ』『ヒトーパデーシャ』といった説話集にも載せられました。さらに『イソップ物語』にも収録されています。昔は人に何かアドバイスをしたくなったら、お説教するのではなく、何か寓話を教えてあげたのです。誰でもお伽話ならば聴きたいものなので、その話を聴いて喜ぶのです。しかし本人も気づかず、こころのなかに人間として欠かせない何かのアドバイスが刻まれるのです。ひとを嫌な気持ちにさせないで躾したければ、これはよい効き目のある手段です。上の物語は、「言葉を慎みなさい。そうしないととても危険です」という教訓を伝えているのです。

「おしゃべり」とは何か?

仏教は、嘘、悪語、噂話、無駄話、という四つの戒めに加えて、「おしゃべり」もよくないという態度なのです。
おしゃべりを戒める場合は、少々困ったことが起きます。嘘をついてはならない、と規則を作るのは簡単です。誰も反対しません。
しかし、おしゃべりを止めるべき、という規則項目は作りにくいのです。人間にとっては、話すことが重要なのです。話してはならない言葉を決めてから、「それ以外なにを喋っても構わない」というのはよくない。喋る時、さらに気をつけるべきモラルがあるのです。おしゃべりはその一つです。

いったい「おしゃべり」とはどういうことでしょうか。意味のない言葉であるならば、それは無駄話で禁止されています。
おしゃべりとは、延々と話すことです。ピリオドがないことです。いったん話が終わったように見えても、また続けて話してしまうのです。何かを話す場合は、結論を出して、終了しなくてはいけないのです。要するにおしゃべりとは、「話が長すぎ」ということです。

おしゃべり大臣が食べたもの

もっと面白いエピソードが仏典にあります。
ある王様の顧問役を担うバラモン人の大臣がいました。幅広く勉強した超一流の知識人に違いありません。しかし王様が何かを質問すると、この人は延々と喋るのです。いくら喋っても話が終わらないのです。王様は忙しい身です。この人の話が終わるまで待つと日が暮れてしまいます。超一流のインテリの人なので、王様に話しを止めさせることもできなかったのです。それでかなり悩んでいました。

その時、菩薩も王様の御世話をしていました。王様は菩薩と一緒に、この顧問大臣の口を閉ざす方法はないのかと考えていました。ある日菩薩が街を散歩すると、あるガジュマルの樹の周りに人々が集まっているのを見てそちらに行きました。皆、地面を見ていました。地面を見ると、白鳥・象・馬・人間などのいろいろな影が写っていました。樹の上を見ると、葉っぱに小さな穴が開いていました。その穴から光を通して、地面に動物の絵柄を写していたのです。樹の下に、歩けない身体の不自由な人が座っていました。彼がひとの要求に応じて小石を木の葉に投げると、それで絵柄が出来上がるのです。見事な腕でした。

何か閃いた菩薩は、足の不自由な人と話しあって、彼を宮殿に連れて行きました。玉座の裏にカーテンが掛かっています。その人をそこに座らせて、カーテンに小さな穴をひとつ開けました。ひと籠くらいの干した山羊の糞を用意してあげました(山羊の糞は珈琲豆のような形で粒粒です。しかし珈琲豆よりは微妙に大きいのです)。
それから菩薩は、王様に説明しました。「今日は顧問大臣が言葉を慎むようにして差し上げます。王様は顧問大臣に何か訊いてください。彼が話している間に、ひと籠の山羊の糞を食わせましょう。糞が尽きたら、カーテンを揺らします。それから、バラモンがひと籠の山羊の糞を食べたことを本人に言ってあげてください。」
王様は賛成しました。次の朝、宮殿に来たバラモンが話しだしました。彼が口を開けるたびに、体の不自由な人がカーテンの穴から山羊の糞ひと粒をその口めがけて投げます。話に夢中なバラモンは、気づかず飲み込み続けました。糞が尽きて、カーテンが揺れました。そうすると王様は、「先生、あなたはさっさと下剤を飲んで身体を綺麗にしてください。話している間で、あなたはひと籠の山羊の糞を飲み込んだのです」と言いました。
大恥をかかさされたバラモンは、それからおしゃべりを止めて、言葉を慎むようになったのです。このエピソードで、仏教がどれほどおしゃべりを嫌がっているのかと理解することができます(おしゃべりには糞を食わせるのです)。

嫌われる性格

おしゃべりは、皆様も嫌いな性格だと思います。おしゃべりとは嫌われる性格です。
しかし私たちは、必ずしも、延々と話す人のことを嫌いなわけではありません。
繰り返し繰り返し同じことを言う人、話しに終止符がない人、何を言っているのか分からない人、相手の気持ちに無関心で喋る人、聴いていると気持ち悪くなる言葉を使う人、何のオチもない話をする人、などなどは嫌いです。
「噺家」とは日本の文化芸術のひとつです。噺家の長い話を聴きたくないどころか、前もって予約をしてお金を払ってまで聴くのです。オチがいっぱいあるのです。聴く人を笑わせるのです。しかし誰でも噺家にはなりません。それにも修行が必要です。面白い話を作るだけではなく、発音、イントネーション、言葉遣い、相応しい身振り手振り、なども訓練するのです。噺家の最初の挨拶から、最後の別れの挨拶まで、台本通りに進めるのです。話が長くても、皆に好かれるようにしたければ、適切な師匠のもとで何年も修行することになるのです。

しゃべるのは難しい

人間には言葉は欠かせないものです。しかし少々長く人に話をすることは、迂闊にできないのです。訓練しなくてはいけないのです。その訓練をしていない人々は、短くポイントだけ述べるようにしたほうがよいのです。人にしゃべるのは難しいことです。みな仲良くおこなう結婚式であっても、優秀な司会者がいなければ式は台無しです。司会者とは、話す訓練を受けた人なのです。

お釈迦様にも、「人にしゃべる時、どのようにすべきか」と比丘たちにアドバイスした経典があります。
決めたテーマからずれないこと、短く話すこと、明確に言葉を発音すること、声を高くしないこと、聴く相手に理解できる単語やフレーズを選ぶこと、分かりづらいポイントは例やエピソードなどを出して分かりやすくすること、品格のある言葉を使うこと、などなどです。
美声も大事なポイントですが、それを訓練しなさいとは言われていないのです。美声とはもって生まれるものです。それはそれで有難いことです。しかし、発声練習などをして美声を人工的に作るのは、出家に相応しくない行為です。

正しくしゃべる人

お釈迦様は、正しいしゃべり方の基本を守っていた阿羅漢たちに称号を与えて褒め称えたのです。
ラクンタカ・バッディヤ尊者は美声の第一でした。
ピンドゥーラ・バーラドバージャ尊者は人々の感動を引き起こすように語れる比丘の第一でした。
プンナ・マンターニプッタ尊者は優秀な説法師の第一でした。
マハーカッチャーナ尊者は短く語られている経文の意味を詳しく明確に解説できる人々の第一でした。
ソーナ・クティカンナ尊者は美しい言葉遣いをする人々の第一でした。
ワンギーサ尊者は歌人としての能力に優れていました。ブッダの話を即座に詩にして詠うことができたのです。
クマーラカッサパ尊者は人の心を惹くように語れる比丘の第一でした。
チッタ居士は在家として見事な説法をできる人々の第一でした。
お釈迦様は、このようにお話のモラルを守って上手に語られる方々に称号まで与えて褒め称えたのです。それで、人に語るとはどれほど気をつけるべき作業かとお分かりになるでしょう。「ただ喋ればいい」わけではないのです。

言葉のリスクは計り知れない

言葉を誤ったらどんな結果になるのかは、推測できないものです。
現代社会でも、偉い人々が少々口を滑らせただけで、大変な問題を引き起こすのです。時々、国際問題まで引き起こしてしまうのです。誤った言葉を使ったことで、世界から批判を浴びます。それから、「そんなつもりではなかった。自分の言葉のニュアンスを誤解されました。正しく通訳されなかった。私が言わんとした意味はそうではなかった」などなどの弁解をしても、後の祭りになります。
お釈迦様の時代、僧団のなかにコーカーリカという比丘がいました。この比丘は、サーリプッタ尊者に怒りを抱いていたのです。気持ちが収まらず、「質素な方々のなかでサーリプッタ尊者が第一だと言われているが、彼は実は多欲だよ」と言ってしまったのです。
お釈迦様は「すぐサーリプッタ尊者に謝りなさい」と注意したが、本人は言葉を撤回しなかったのです。その重罪によって、コーカーリカ比丘はたちまちパドゥマという地獄に堕ちてしまいました。ひとは感情を好き勝手に撒き散らすことを戒めて、言葉に気をつけるべきです。言葉とは遊びではありません。

ブッダが教える正しい言葉遣い

コーカーリカ比丘の出来事に因んで、お釈迦様が言葉遣いについて教えられたことがあります。

① 口を制御すること Mukhasamyato
比丘は口を制御するべきです。出家した人には、走ってはならない、はしゃいで遊んではならない、歩くとき派手に手を振ってはならない、木登りしてはならない、などなど身体に対する戒めがたくさんあります。同じく、言葉を制御する規則もあります。言葉に対する戒めを守ることは、mukhasamyatoと言うのです。
② 有意義な言葉を語ること Mantabhānī
有意義な言葉を語るべきです。この単語は幅広く解釈できるのです。Mantaとは、考察する、考える、という意味です。比丘は考察するに値する言葉を喋るべきです。 その時だけ聴いた人の役に立つ言葉になるのです。無意味な世間話は禁止です。比丘の喋る言葉が、聴いている人々にとって宝物になるならば、正しくmantabhānīと言えるのです。Mantabhānīになる修行も必要です。Mantaには、計量するという意味もあります。言葉も計量して語るべきなのです。ダムが決壊したような感じで喋ってはいけないのです。まず喋るテーマを設定して、次に例などを出して説明する。最後に結論を出す。このように企画に基いて喋るべきなのです。この能力にもmantabhānīと言うのです。自分の語る言葉が、後に聴いた人々のディスカッションのテーマになるならば、立派なmantabhānīなのです。Mantabhānīの条件は難しいと思われるかもしれません。その通りです。修行なしに、訓練なしに、できるものではありません。Mantabhānīは美声のようにもって生まれるものではありません。獲得するべき能力です。
③ 興奮しないこと Anuddhato
興奮しない。おしゃべり屋によくある病気です。おしゃべり屋というのは、結局、もともと落ち着いてないのです。興奮しているのです。感情を制御していないのです。自分の感情を、言葉を通して吐いているのです。ひとの前で吐くのは、決して気持ちいいものではありません。食べたものを吐いたならば、「この人は突然、病気になりました。調子が悪くなりました」と思って親切にしてあげる事もできますが、感情を吐き出されると、それもできません。喋る人を追い出すか、自分が逃げるか、どちらかしなくてはいけない。感情を吐き出す人を理解しようとすると、同調しようとすると、とても危険です。欲・怒り・嫉妬・憎しみ・怨み・落ち込み・無知などなどが感情です。同調しようとすると、聴いている人もこの細菌に感染して発病するのです。
ほとんどの人々は、誰かとしゃべりたがっているのです。伝えたい大事なことがあるわけではないのです。ただ感情が溜まって、発散したくなっているだけです。もう一つ問題があります。伝えたい大事なポイントがあるとしましょう。それを話し始めます。その時、ジワジワと感情が紛れ込んでくる恐れもあります。感情が紛れ込むと、感情が話を誘拐するのです。伝えたかったポイントは、どこへ飛んでいったか分からなくなるのです。収拾不可能な話になってしまうのです。ですから喋っている間も、感情が紛れ込まないように、厳しく気をつけなくてはいけないのです。それでも失敗して紛れ込んだら、ただちに話を中止することです。「いま感情が起きたので、話を止めます。また落ち着いたら続きをしゃべります」と謝ったほうがよいのです。要するに一般の人々は、感情という細菌に感染して、おしゃべり屋という病気にかかっているのです。
正しく語る人は、理性に基づいて語る。論理的に語る。証拠を出して語る。相手に理解できるか否かをチェックする。言葉と表現を慎重に選ぶ。正しく発音をする。文章の意味は曖昧にならないようにする。聴く相手の集中力にも気をつける。話の長さもチェックする。ですから、おしゃべりを戒める場合は、anuddhato・興奮しないことが欠かせない条件です。

真の「美しい言葉」

このような条件が揃ったら、その比丘は有意義なことをしゃべる(attham)人になるのです。真理を輝かす(dhammañca dīpeti)人になるのです。このような比丘の言葉こそ、真の「美しい言葉」と言う(madhuraṃ tassa bhāsitam)のです。
これで、「なぜおしゃべりは戒律で禁止できないのか?」と理解できると思います。話すことは必要です。理性のある人、知識のある人が話してくれないと、後輩の人生は無知のままで終わります。世に仏教のような真理も現れなくなります。ですから、語ることは欠かせないが、おしゃべり屋はだめなのです。おしゃべりは悪行為、危険な行為です。せっかく空を飛ぶチャンスに恵まれた亀さんに、口が災いをもたらしたのです。我々人間にも、口が災いのもとです。

今回のポイント

  • 言葉の悪行為は四つです
  • 「おしゃべり」は危険な行為です
  • うかつに喋ってはならない
  • ひとと話すならば訓練が必要です
  • 感情に打ち勝った人の言葉こそが美しい