パティパダー巻頭法話

No.271(2017年9月号)

存在の要(かなめ)である束縛

束縛を断つと自由になる Attachment is an essential element of life

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章

  1. Hitvā mānusakaṃ yogaṃ
    Dibbaṃ yogaṃ upaccagā
    Sabbayogavisaṃyuttaṃ
    Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
  • 人間界のばくを棄て 天界の縛ものりこえて
    すべての縛を離れたる そをバラモンと我は説く
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 417)

因縁物語

お釈迦さまの時代に、ある芸人(名前はウッガセーナ)がいました。インド文化では、職業は世襲するものでした。子供のころから芸を学ぶので、若いうちに一人前の芸人になります。現代と違って、一種類の芸だけできたからといって一人前にはなりません。ダンサーであるならば、楽器の演奏も、歌唱力も必要になります。インドの伝統的な芸は、長い修行を必要とする複雑で難しいものです。

この芸人は、芸を諦めて出家したのです。のちに修行して、覚りに達したのです。ある日、この阿羅漢が托鉢にでかけました。町に旅芸人がやってきて、とても難しい曲芸を披露して、人々を楽しませているのを見ました。この阿羅漢も元は曲芸のプロでした。一緒に托鉢に出た他の出家の方々は、もしかすると出家した比丘のほうがより優れた芸人だったのではないかと、思ったかもしれません。そこで阿羅漢の比丘に、「あなたも過去のことを思い出すでしょう。未練を感じるかもしれませんね」と話しかけたのです。阿羅漢は、「私には執着がまったくないので、未練を感じません」と答えました。

覚りに達した聖者たちは、「私は覚りました」と世間に言いふらすことも、宣言することも一切しません。皆、サンガの仲間として謙虚に生活するだけです。特に、覚りに達していない比丘たちは、自分の仲間のなかで誰が覚りに達しているのかは分からない。しかし、覚った人々が何か言葉をかけられたり質問されたりする場合に、自分の心境が思わず漏れてしまうこともあります。

「執着はまったくないので」という言葉を聞いた仲間の比丘たちは、この人は自らが解脱に達していると言ったのではないかと思ったのです。「あなたは阿羅漢ですか?」と本人には訊けません。そこで、「元芸人だった比丘が、自分は阿羅漢に達していると認めました」と、お釈迦さまに報告したところ、釈尊は「彼は勘違いしているのではなく、阿羅漢に達している」と公に発表したのです。今月の偈は、このエピソードをテーマにしてお釈迦さまが語られた言葉です。

Yoga束縛

生きるとは、何かに依存することです。依存がないと命は成り立たない。生命には、生きていきたいという存在欲があります。生きていきたいならば、何かに必ず依存しなくてはいけないのです。生きていきたいから、依存するものに激しく執着するのです。俗にいう、依存症という状態に陥ります。解脱に達していない一般の方々は皆、この依存症にかかっているのです。依存症なので、ひたすら依存するだけで、自分自身が病んでいることに気づかないのです。「依存する対象から離れない」という精神状態を、お釈迦さまはyoga束縛という言葉で説かれています。

依存する対象

「束縛とは何でしょうか?」と一般人に訊けば、財産・家族などのことだと軽く答えるでしょう。しかも、それらに束縛されるのは常識だと思っている。束縛が、悩み苦しみを司る原因であることを知らないのです。また、財産・家族だけではなく、人々は自分の知識・能力・社会的地位・権力・自分の身体にも依存しているのです。

ここで、依存の対象について整理する必要があります。生きるとは、眼耳鼻舌身意という六根が活動していることです。眼耳鼻舌身意が活動するためには、色声香味触法という対象に触れて、感じなくてはいけないのです。六根が活動しないと、生きることが成り立たない。ですから自然と、色声香味触法に頼ったり、依存したりしなくてはいけないのです。素人的な話なら、人は家族・財産・知識・能力、云々に頼っているのだと言えます。ブッダの智慧で説明するならば、それらはすべて、色声香味触法という六つのカテゴリーに入ります。

意は勝手に活動する

色声香味触は、簡単に理解できます。難しいのは意と法の関係です。我々のこころは、見る・聴く・嗅ぐ・味わう・触れる、ということ以外、思考する・妄想する・計画を立てる・たくらむ・恨む・憎む・恋する、などなど沢山の働きをしているのです。「意」が勝手に活動するとき、使う対象のすべてを「法」と名づけてあります。この場合の法は、仏法の「法」と違う意味を持っています。存在欲がある生命は、色声香味触に執着します。しかし、この五つの対象には、二十四時間、絶えず依存する必要はありません。何かを食べるとき、味に依存します。何かを聴くとき、音に依存します。その時その時、適切に依存するのです。しかし、意は対象に絶えず依存しているのです。意は勝手に仕事をします。たとえば、「午後九時から十時まで妄想します。十時を過ぎたら妄想をやめます」なんてことはできません。「午前中なら怒ります。午後は何が起きても怒りません」という話は成り立たないのです。この例で、意は勝手に、法という対象に依存して活動していることを理解できると思います。

四種類の束縛

お釈迦さまは、yoga束縛というテーマを特別に取り上げて説法することもあります。その時、四種類の束縛を説かれています。

① Kāmayoga欲という束縛。色声香味触に束縛されていることです。

② Bhavayoga存在という束縛。存在欲のことです。

③ Diṭṭhiyoga見解という束縛。生きるために見解・概念が必要になります。良し悪しを判断して、それに従って生きなくてはいけないのです。自分自身がどのように生きるのかという、独自の人生論も必要です。また、知識人なら、存在とは何なのか、宇宙と生命はどのように現れたのか、生命は死後どうなるのか、創造神はいるのかいないのか、魂は有るのか無いのか、などなどの思考概念にひっかかって依存しているのです。決して、自分の見解を捨てたくはないのです。皆、自分の見解が正しいと思っているのです。強烈な束縛です。

④ Avijjāyoga無明という束縛。皆、無明を喜んでいます。無明に依存しています。「一切の現象は無常・苦・無我である」と、発見する努力はしていないのです。眼耳鼻舌身意を刺激して生きることに必死です。調べることもしないで、命に究極の価値を与えているのです。生きることに究極の価値があるならば、解脱することは極端に悪いことになってしまいます。問題は、人が無明に気づかないことなのです。生命は無明に支配されて、無明に管理されて、無明の指令に従って、無明の奴隷になって生きています。生命に、自由は一切ないのです。束縛の親分は無明です。

解脱

一切の束縛を根絶することが解脱です。それは簡単にできる仕事ではありません。例を出します。子供が親に激しく逆らっているとしましょう。親は激しく悩みます。子供に愛着があることが原因です。では、できることなら子供に対する愛着を捨ててください。楽になれます。しかし、子供が原因で悩んでいることは確かですが、愛着を捨てることはできませんね。ある日、恋人から突然、「今日でお別れしましょう。私のことをきれいに忘れてください」と言われたら、「はい、わかりました。今日から、あなたのことはきれいさっぱり忘れます」ということはできませんね。愛着を捨てることも難しいのに、束縛を完全に断つことはなおさら難しいのです。しかし、解脱とは束縛を根絶することなのです。

如実知見

こころの働きを知り尽くしていたお釈迦さまは、私たちに完全無欠のプログラムを教えているのです。このプログラムを実行すれば、束縛を根絶することが可能になります。それが、ものごとをありのままに観察することです。思考も妄想も知識も私見も判断も一切はさまないで、ありのままに「生きる」という過程を観察してみるのです。いくら失敗しても、訓練すれば上達します。正しく観察できることに、如実知見といいます。

如実に観察すると、「一切の現象は無常である、苦である、無我である」と発見します。「生きるとは、原因がそろって一時的に現れる瞬間の現象に過ぎない」と発見します。「瞬間の現象に執着することによって、輪廻転生の苦しみがあるのだ」と発見します。その結果、存在欲が減って、「何としてでも生きていきたい」という気持ちが消えてしまいます。こころから束縛が消えます。解脱に達します。

束縛は、「はい、捨てます」という感じで捨てられるものではありません。ブッダの説かれた、智慧が顕れるプログラムを実行しなくてはいけないのです。

人間界の束縛 Mānusakaṃ yogaṃ

冒頭で述べたエピソードに関わるキーワードは、束縛yogaでした。それに関する説法で、お釈迦さまは違うアプローチをしているのです。Mānusakaṃ yogaṃとは、人間界にかかわる一切の束縛です。人間界と天界の生命は、眼耳鼻舌身意で色声香味触法に依存して生きているのです。その束縛を捨てるのだと説かれています。

私たちにも、束縛を捨てる経験はそれなりにあります。たとえば、土地を持っている人がいるとしましょう。その人の家族の誰かが借金してしまって、返済のために大金が必要になります。借金取り立て屋の脅しには耐えられない。そこで、土地に対する束縛を捨てて、土地を売ります。借金を返して安心します。このケースでは、一つの束縛を捨てて別なものに束縛されるということになります。

束縛を順番に捨てることも可能です。酒・麻薬・賭け事などに束縛されて刺激を受けている人が、その束縛を切って、まともな人間になることは、苦労するならば可能です。しかし、まともな人間になることに強い執着がなければ、実行はできません。「価値の低いものを捨てて、価値の高いものに進む」というだけです。

天界の束縛を超える Dibbaṃ yogaṃ upaccagā

人間界の束縛を捨てるとは、欲界に対する未練を捨てることです。五欲を捨てて冥想実践するならば、サマーディという安楽な境地に達します。死後、梵天界に生まれます。この安らぎは、欲界の安らぎとは比較にならないほど高度なものです。

すべての束縛を絶つことに挑戦できない人は、せいぜい梵天の優れた喜悦感を目指して、眼耳鼻舌身の世界に対する束縛を捨てることにします。成功したければ、冥想実践してサマーディ状態に達しなくてはいけないのです。価値の低いものを捨てて、価値の高いものを取ったのです。Dibbaṃ yogaṃ upaccagāというフレーズで、サマーディ世界(梵天界)に対する束縛も超えるべきであると説かれています。

一切の束縛から離れる Sabbayogavisaṃyuttaṃ

価値の低いものから価値の高いものへと、束縛の対象を変えていく修行者は、ある観察をしなくてはいけないのです。いま、自分が嵌っている束縛の短所を徹底的に観察するのです。その束縛から現れてくる悩み・苦しみ・不幸を徹底的に観察するのです。その時、自分が目指している高度な束縛と比較してみます。(たとえば、「人間として苦労するよりは、善行為をして神に生まれ変わることのほうがマシだ」というような感じです。)

このような観察をおこなう修行者は、「束縛とは何であろうとも、結局は悩み苦しみを司る原因である」と発見するのです。「一つ二つの束縛を捨てることでも幸福になるのだから、いったんすべての束縛を捨ててしまえば、究極の安穏に達するはずだ」と正しく推測します。その人は、「解脱に達したい」「涅槃に入りたい」という妄想概念を抱くことなく、「一切の束縛を根絶したい」と思って励むのです。なぜならば、涅槃の境地をこころで認識することはできないので、妄想概念を作るしかありません。束縛は現実的で自分に経験があるものです。それを根絶すれば、言葉すら成り立たない涅槃の境地に達するのです。

一切の束縛を根絶した人が、真のバラモン(真の聖者)なのです。

今回のポイント

  • 生きるため・存在するために束縛が必要です
  • 存在欲がある限り束縛は消えません
  • 束縛がある人に自由は成り立ちません
  • 悩み苦しみの原因は束縛です
  • 断ち難い束縛を計画的に断つのです
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