パティパダー巻頭法話

No.277(2018年3月号)

ブッダ特有の智慧

脳みそで理解できない解脱 Ineffable freedom

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章

  1. Pubbenivāsaṃ yo vedi
    Saggāpāyañca passati
    Atho jātikkhayaṃ patto
    Abhiññāvosito muni
    Sabbavositavosānaṃ
    Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
  • さきの世を知り 天界と
    地獄をも見て解脱して
    明智みょうちまどかな牟尼ムニ聖者
    全ての執着終えし者
    そをバラモンと我は説く
  • 訳:江原通子 補訳:スマナサーラ長老
  • (Dhammapada 423)

語れないことを語るという難行

解脱者のこころの内をさまざまな角度で解説してきました。解脱に達してない人には、解脱者のことを直接理解することは不可能です。ですから、一般人のこころの弱み、人生の悩みなどの概念を元にして、「解脱者はそのような問題から解放されているのだ」と説くのです。言葉の手段として考えると、否定形を使って肯定的な概念を説明するようなものです。俗世間的に考えると、否定形を使うのはとても弱い言語表現です。たとえで説明します。リンゴを見たことのない人がいると想像しましょう。その人の周りに、バラの花・キャベツ・白菜・バナナ・みかん等々たくさんのものがあるのです。その人に、一度も見たことのないリンゴを紹介しようとして、「リンゴとはバラの花と違うものだ」「リンゴとは白菜と違うものだ」等々の否定形でリンゴを肯定してあげようと思っても、上手に語れたことにはなりません。

否定形で肯定的概念を表現する信仰の世界

お釈迦さまは、相手に通じるように明確に語った方です。意味が通じない、曖昧な否定形は使わないのです。信仰を土台にする宗教世界では、否定形で肯定的概念を説明する方法が盛んです。特に、神様・魂・天界・地獄・永遠という概念で、宗教が成り立っているのです。それらの概念を具体的な証拠を出して立証することは不可能です。ですから、一般人が知っている概念を使って、否定形で肯定的な概念を理解させようと努力するのです。たとえば、「人は死ぬ。しかし、魂は死にません」「この世界は苦しみに満ちている。しかし、天界は幸福に満ちている」極端な苦しみに遭遇すると、人は死ぬのです。その経験は人間にあります。その概念を使って、「地獄とは、極端な苦しみに満ちている境地だ」と説くのです。この言葉を聞いても、人間には地獄も天界も魂も理解することは不可能です。否定形で肯定的概念を説明する方法は、相手になんの意味も伝わらない、最弱の方便です。

自ら体験しなくては

解脱とは、一切の概念を超える境地です。完全なる自由の境地です。対照的な現象世界を乗り越えた境地です。ですから、人間の知識範囲に入らない境地なのです。そのように語っても、人々の知りたがる気持ちは消えません。ですから、解脱について聞きたがるのです。この場合は、お釈迦さまさえ、否定形で肯定的概念を示すような最弱の方便を使わざるを得なかったのです。リンゴを説明するために、「バラの花と違いますよ」と言うのはウソではありません。事実です。しかし、人はリンゴを理解したのでしょうか? 理解していないのです。バナナとは違いますよ、と言っても同じことです。完璧な方法は、本物のリンゴを見せて食べさせてあげることです。その人に、説明する必要はないのです。仏道と仏法(本物のリンゴ)とは、人に解脱を体験させる方法です。

過去生を知る智慧

今月は、『ダンマパダ』最後の偈の解説になります。『ダンマパダ』26章は、覚りに達した聖者はどのような人格でしょうかと、釈尊の説かれた言葉を集めたセクションです。最後の偈は、解脱者一般の説明ではなく、お釈迦さまご自身の能力を説明しているのです。この偈では、極力否定形を使わず、解脱を語ることに努力しています。最初の言葉は、pubbenivāsaṃ yo vediです。これは、過去生を知る能力のことです。ブッダに具わった超越した智慧の一つです。一般人にその能力が無いのは当然です。話を聞く人が信じるか否定するか、理解するか否かはわかりません。一応、肯定的に、釈尊に具わった超越した智慧を発表するのです。

お釈迦さまは修行中、観察能力が超越レベルに達したところで、自分自身の過去の生まれを遡って見ることにしたのです。一回二回だけの過去ではないのです。無数劫にわたって、自分の過去生を観察したのです。劫とは宇宙の時間単位です。無数には、その意味とともに数学的な定義もあります。数字の数え方はいろいろありますが、だいたい10120です。経典によれば、数学的に60無数劫年まで過去を観察したという話です。さらに遡れば、いくらでも過去を観察できるので、「過去には限りがない、始点は成り立たない」ということで止めたのです。

また、自分に過去があるという事実は、他人にも過去があるという証拠にならないので、他の生命のことも観察してみたのです。この場合は、いろいろデータサンプルを取って観察しただろうと思います。なぜならば、すべての生命の過去を調べることは実行不可能で成り立たないからです。とにかくお釈迦さまは、自分の前にいる人が輪廻転生してどのような過去を流れてきたのかと、ご自分の超越した智慧でご存じなのです。お釈迦さまはこの能力を、人々を解脱へ導くために使われたのです。

生死の回転と業を知る智慧

次のフレーズはsaggāpāyañca passatiです。直訳は、「天界と地獄を知っている」。意味は、さまざまな天界の状況を直接観察して知っていることと、それらの天界に生まれるために必要な業も知っていることです。地獄の場合も同じです。どのような罪を犯した生命が、どのような地獄(悪趣)に堕ちて、どのように苦しむのかと知っているのです。お釈迦さまは自分がおこなった観察の仕方を説かれているのです。

まず、自分の過去を観察して、輪廻転生では始原が成り立たないことに達する。それから、他の生命の過去を観察するのではなく、死にかけている人々を観察対象にするのです。世の中で、いまわの際の生命はいくらでもいます。その生命が死んで、どこに生を受けたのかと観るのです。それから、その生命が死ぬまでどのような生き方をしていたのかと調べて、新たな生を惹き起こした力(業)はどのようなものであったかと観る。このケーススタディを無数におこなうことで、生命の行方を説くことができるようになったのです。「どのような生き方をする生命が天界に赴くか?」「どのような生き方をする生命が悪趣に陥るのか?」と明確に語れる能力を獲得された釈尊は、他の生命の行方を観察したデータから、さらに業論を導き出したのです。

解脱には差がありません

このような能力は、一般人には不可能です。正自覚者に特有の能力です。修行者も、サマタ瞑想とヴィパッサナーを完成まで実践すると、いくらか過去を観られる可能性があります。しかし、そのためには、修行者があえて過去を観ることに集中しなくてはいけないのです。こころを過去まで遡らせるときは、当然リミットがあります。正自覚者と弟子の阿羅漢たちの間で、超越した智慧の能力差があります。正自覚者と等しくはならないのです。しかし、智慧の差はあったとしても、ブッダと弟子たちの「解脱」に差は無いのです。解脱とは一切の執着を捨てることなので、差は成り立たないのです。ブッダとして覚っても、阿羅漢として覚っても、解脱には差がありません。

生の滅とは執着の滅

次のフレーズは、三番目の智慧を示すatho jātikkhayaṃ pattoです。直訳は、「(ふたたび)生まれることは無くした」。生命は死を迎えると、生きることに執着があるから、また新たな生を結ぶのです。いまの生で、いまの肉体と環境に依存して、こころが認識回転しています。死とは、いまの肉体のなかで認識回転をストップすることです。まず、環境(色声香味触法の世界)を認識できなくなる。次に、自分自身の肉体を認識できなくなるのです。その瞬間、こころが別な環境で認識をスタートします。ですから、死とは「こころが別なところで認識回転を始めたこと」という意味にもなります。

生命は、生きるとはどのような働きなのかと、客観的にありのままに観察しないのです。感情の奴隷になって、色声香味触法を追い求めて、必死なのです。生きることに強い執着を持っているが、それにすら気づかない。生きることばかり考えて、生きることに極力集中するのです。観察してみるならば、生は死がなければ成り立たないし、死は生がなければ成り立ちません。生死は相対的に依存している、コインの裏と表のようなものです。ですから、執着のある生命が死を迎えたら、次の場面は生になるのです。解脱に達するとは、無明のせいで無期限に流れる生死の回転を停止することです。生死を回転させる衝動が、執着です。一切の無常たる現象に対して、執着が無くなったら、生死の回転は終了するのです。Jātikkhayaṃ pattoとは、生死の回転を惹き起こす執着を根絶することです。

知るべきことを知り終えた

次のフレーズは、abhiññāvosito muniです。「知るべきこと知って、実行するべきことを実行し終えている仙人(牟尼)」という意味です。知るべきことと言っても、俗世間に限った知識範囲ではないのです。ひとは真理を知るべきです。牟尼・仙人とは、それを知り終えている方なのです。「人間は不完全である」とは有名なフレーズです。仏教的に修正するならば、「生命は皆、悉く不完全である」となります。人間に限らず、神々・梵天などなど超越した生命さえ、不完全です。不完全な生命には、いつでも「物足らない」という気持ちがあるので、輪廻転生するはめになるのです。輪廻転生と言っても、自分の希望通りに生まれ変わることはできません。死後、どこに生まれるのかということは、こころに蓄積されている業のエネルギーで決定されるのです。特別なプログラムを実行しない限り、一般の生命には自分が死後、期待するところに新たな生を結ぶことはできないのです。

「知るべきことは知り終えている、実行するべきことは実行し終えている」とは、不完全であった生命が完全に達したということです。ですから、人間でも生命でもないのです。強いて言えば、牟尼・仙人です。

いのちの実家を破壊すること

次のフレーズは、sabbavositavosānaṃです。まず、「修行が完成している」という意味で理解しましょう。それから、詳しい解説に入ります。Vositaとは、直訳すると「住んでいた」となります。ここは仏教なので、人が住む家のことではありません。生きることが回転する中心点を指しているのです。私たちは、精神的に何を中心にして、何を頼りにして、何をホームベースにして、生きているのでしょうか? 第一は「私がいる」という実感です。そこから、頑張らなくては、成功しなくては、健康でいなくては、知識・財産・権力などを手にしなくては、等々の生きる衝動が限りなく現れるのです。

「何を目指して、あなたは生きているのか?」と訊けば、さまざまな答えが返ってくるでしょう。しかし、誰も第一の答えを出さないのです。第一の答えとは、「私がいる」です。この実感から、欲・怒り・慢・嫉妬・恨み、等々の千五百の感情が現れてくるのです。感情とは即ち、煩悩のことです。生命は煩悩を実家にして、輪廻転生しているのです。地獄に堕ちようが、天界に赴こうが、人間に戻ろうが、実家は自分自身のこころにある煩悩です。解脱に達するとは、煩悩を根絶することです。二度と実家に戻りませんと、実家を破壊することです。もっと理解しやすく言い換えるならば、「私がいる」というあの実感が、跡形もなく消えるのです。それは否定的な単語ではないのです。なぜならば、「私がいる」実感が私たちにあっても、この気持ちは錯覚なのです。幻覚なのです。真理を知らないから、錯覚を作って、錯覚が現実であると勘違いして、限りのない輪廻転生を回転して、苦しんでいただけです。すべては錯覚のせいです。

では最後に、sabbavositavosānaṃを直訳してみましょう。「住むところはすべて住み終えた」です。(もう飽きたので、二度と住む気持ちは無いのです。)

結論として、tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ「この条件がそろった人こそが、真のバラモン(聖者)であると私(ブッダ)が説く」のです。

鵜呑みにしないこと

以上の説明は、「お釈迦さまはどんな人?」という質問への答えになりますが、正自覚者特有の智慧以外は、すべての覚者に当てはまります。この偈は、お釈迦さまが否定形を極力避けて説かれたものです。否定形を使っているのは、jātikkhayaṃ pattoという一ヶ所だけです。しかし、肯定の表現を使っても、否定形で肯定的概念を示しても、一般人には解脱者のこころは理解しがたいということには変わりありません。たとえば、「自分には自らの過去生を観察できる能力がある」と言われても、聞いている人はどう理解すればよいのでしょうか? いろいろな反応が考えられます。①私にはそんな能力はありません。②それはあり得ません。③事実であると証明しなさい。④すごい、脱帽だ。⑤尊い方だ、拝みましょう、従いましょう。⑥私には関係がありません……などなどです。要するに、解脱者のこころの状況を理解していないのです。三番目の反応をさらに分析しましょう。現代人は、証明されたら信じる性格です。しかし、人が明確に「私の過去生の名前は○○です。仕事、住んでいた場所、寿命、家族環境、死因は……」などなどと言っても、どのように実証するのでしょうか? 過去の出来事はすでに終わっているので、参考にするデータが無いのです。

助かる条件が一つだけあります。釈尊は、決して嘘をつかないのです。決して、人をだますことはありません。Yathā vādī tathā kārī語るごとく行うyathā kārī tathā vādī行うがごとく語る性格なのです。したがって、tathāgata如来と言うのです。しかし、釈尊はものごとを鵜呑みにすることを禁止しています。ですから、やっと達することのできる結論は、「釈尊が説かれた言葉だから事実でしょう。しかし、私には理解できない」です。ひとには、釈尊が説かれた実践方法を実行して、各自で解脱に達するより他の道はないのです。

今回のポイント

  • 解脱者は一般人の理解能力範囲を超えている
  • 解脱者のこころを説明すると否定形で肯定的概念を示すことになる
  • 正自覚者には特有の智慧があります
  • 解脱はブッダも阿羅漢も同じです
  • 一切の執着がないことが解脱です