パティパダー巻頭法話

No.280(2018年6月号)

解脱を知っているでしょうか?

存在欲の根絶で解脱に達する Unconditional detachment

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Nimokkhasutta 解脱経(相応部1.2)より

  • Nandībhavaparikkhayā
    Saññāviññāṇasaṅkhayā
    Vedanānaṃ nirodhā upasamā
    Evaṃ khvāhaṃ, āvuso, jānāmi
    Sattānaṃ nimokkhaṃ pamokkhaṃ vivekaṃ
  • 歓喜の有の滅尽により 想と識との尽滅により
    諸受の滅と寂止とにより 友よ、私はこのように
    生けるものたちの解脱、解放、遠離を知っています
  • 和訳:片山一良

極端主義

ある女神が、夜、祇園精舎に現れて、お釈迦さまに質問したのです。女神の質問に入る前に、前置きとして考えなくてはいけないことがあります。

世の中に、宗教というたぐいに入る考えがたくさんあります。いまの人生が完全・完璧であるならば、人は悩むことなく、そのまま人生を楽しめばよいのです。そのようにしようと覚悟しても、思うようには行きません。極端な楽観主義者になってみたら、現実から目を逸らすはめになります。偏見で、極端主義で、気に入らない情報に対して盲目でいない限り、楽観主義者にはなれません。

では、悲観主義はどうでしょうか? なんでも悲観主義で見ると、楽しいものでさえ、無理に苦しみであると決めつけなくてはいけません。その人も、現実の一部を無視するはめになるのです。この二つの主義を合わせて考えると、世の中はバランスを取れていないことが見えます。苦・楽のあいだで揺らいでいるのです。苦・楽の揺らぎに疲れる人々は、「揺らがない安楽はないのでしょうか?」と探してみる気になります。

他宗教の世界

一部の人々は、安楽の境地を仮定して、それに達する方法をいろいろ試してみたのです。ひとにも教えたのです。この探求者たちは、宗教家のたぐいに入ります。この世で宗教は一つではないのです。ひとが仮定する「安楽の境地」の数だけ、宗教があります。教えは同じであっても、安楽の境地に達する方法が異なるならば、一つの宗教が分裂して違う宗派になるのです。

一般的には、「宗教は多数だが、中身はほぼ似通っているのではないか」と言われています。その考えを極端に推し進める人々は、「宗教は違っても、教えは一つである」と自分勝手に互い違いの宗教を一つの教えにまとめようとします。しかし、宗教を信仰する人々は、自説のみを誇示して他説を否定するので、宗教家のあいだでは調和がないのです。「宗教は一つである」と謳っているのは、宗教に興味のない人々ばかりです。仮定する安楽の境地が同一概念にならない限り、世界にある多数の宗教を一つにまとめることはできないのです。

宗教の課題

教えは違っていても、宗教家の課題は似ているのです。この世はこのままでは納得いけません。なんとかしなくてはいけない。しかし、完璧な世をつくることは無理です。完全無欠な世界(境地)は、別にあるはずです。それはなんなのか、それに達するためにどうすればよいのか、という課題は共通なのです。

それを説明するために、生命とは何か、いつ生命が誕生したのか、世界と命を創造したのはだれなのか、生命に過去があるのか、将来があるのか、生命は流転するのかしないのか、などなどの課題も解説します。現象は壊れてゆくのに、それだけを見ると宗教が成り立たないので、すべての宗教が「壊れていく現象の中でも壊れない永遠の霊魂がある」ということを前提として認めたのです。魂の姿、魂の汚れと浄化の仕方などなどの説明は、信仰によって変わります。

宗教の正しさの立証

仮定した安穏の境地に達したならば、またその境地が安穏であり変わらないものであると証明できれば、その宗教が正しいと立証されます。だから、宗教家は頑張っているのです。神がいること、天国があること、人を誘惑する悪魔がいること、人々は神に限りなく愛されていること、などなどを立証するために宗教家たちは必死に頑張っていますが、まだまだ説明は曖昧で、誰一人として納得に達していないのです。自分の教えは立証されていないにもかかわらず、いまだに自説に愛着を抱いて、他の教えを批判しようと努力しているところです。この戦いは、地球上に人類がいる限り続く可能性があります。

宗教がつくる人の悩み

生きること自体が悩み苦しみに満ちているのに、宗教家たちの思想争いで一般人に新たな悩みが現れるのです。どんな宗教を信仰すればよいのでしょうか? 自分が信仰している宗教の教えが間違っていたらどうしましょうか? 信仰を二つ以上持つのは危険で罪になることでしょうか? 宗教が語る安穏の境地に達することはできるのでしょうか? 日常的な生活よりも宗教的な生活を優先すべきなのでしょうか? そもそも宗教家自身は自分で教える安穏の境地に達しているのでしょうか? けっこう悩む問題だと思います。お釈迦さまを尋ねた女神にも、この悩みがあったような気がします。

女神の質問

“Jānāsi no tvaṃ, mārisa, sattānaṃ nimokkhaṃ pamokkhaṃ viveka”nti?
「尊師よ、あなたは生けるものたちの解脱、解放、遠離を知っていますか?」

「あなたは解脱に達する方法を知っているのか?」という質問です。解脱を示す同義語を三つ使っているのです。生命は日常、ありとあらゆるものに執着して、苦しんでいます。期待どおりにはいかないのです。財産に執着しても財産が無くなる。家族に執着しても家族が老いて死ぬ。自分自身に執着しても、病に罹ったり老いて死んだりします。ありとあらゆるものに引っかかることで、こころの安らぎは完全に消えるのです。生命が安穏を期待するならば、うまく行っていないこの世に対する束縛を断たなくてはいけない。しかし、人はそれができなくて、苦しんでいる。だから、誰か一人でもいいから、束縛を断って解脱に達している方はいるのかと知りたくなるのです。女神はその質問をお釈迦さまに出したのです。

お釈迦さまの答え

“Jānāmi khvāhaṃ, āvuso, sattānaṃ nimokkhaṃ pamokkhaṃ viveka”nti.

「友よ、私は生けるものたちの解脱、解放、遠離を知っています。」

お釈迦さまは、安穏の境地に達する方法を知っているのです。その境地を「涅槃・解脱・安穏・苦の終焉」などの同義語で示されていますが、他宗教が仮定した安穏の境地とは全く違う考えなのです。他の宗教家たちは、「永遠不滅で極楽である境地に徹底的に執着するべきである」と考えていました。それに成功するためには、日々変化して揺らぐ俗世間的なものに対する執着を断たなくてはいけない。要するに、執着の置き換えを教えていたのです。お釈迦さまの説かれた「涅槃」とは、執着を一切捨てることです。置き換えではないのです。修行の結果、たとえ安穏と喜悦を感じられるようにこころが成長しても、その境地にさえ執着してはならないのです。

なにかに執着すると、それが現実であろうが観念的な妄想概念であろうが、それについて語ることが可能です。執着があると、こころに思考の概念が現れます。執着を一切根絶したならば、一切の概念も消えるのです。ですから、涅槃については「語れない」のです。語れる概念は実在しないのです。概念はすべて対照的です。しかし、個人が一切の執着を根絶するならば、涅槃に達するのです。

女神の次の質問

“Yathā kathaṃ pana tvaṃ, mārisa, jānāsi sattānaṃ nimokkhaṃ pamokkhaṃ viveka”nti?

「尊師よ、それでは、あなたはどのように生けるものたちの解脱、解放、遠離を知っていますか?」

パーリ語の訳では少々わからないかも知れませんが、女神は「どうすれば解脱に達するのでしょうか?」とその方法を尋ねているのです。

解脱に達する方法

Nandībhavaparikkhayā
Saññāviññāṇasaṅkhayā
Vedanānaṃ nirodhā upasamā
Evaṃ khvāhaṃ, āvuso, jānāmi
Sattānaṃ nimokkhaṃ pamokkhaṃ
vivekaṃ

釈尊の答えは偈としてまとめるべきところですが、ふつうの音律で決まっている行の数より多いし、音節も統一されていないので、偈ではなく散文として扱ったテキストが多いのです。しかし、釈尊の答えは、この場合、偈でなくてはいけないので、偈になるように行を分けてみました。

現代日本語訳

歓喜の有の滅尽により
想と識との尽滅により
諸受の滅と寂止とにより
友よ、私はこのように
生けるものたちの解脱、解放、遠離を知っています

解説しないと、直訳だけでは理解しがたい文章だと思います。これから解説していきます。

存在欲を断つ

Nandīとは、喜ぶことです。しかし、単なる「喜」ではなく、喜びを期待して執着することがnandīなのです。「これはいい、これはいい」という気持ちのことです。Bhavaとは、存在です。要するに、生きることです。すべての生命は、生きることに執着しています。生きることに執着している限り、無常の瀑流に流されているのです。生きるとは、生老病死の流れに流されることです。ひとは生老病死を期待しないのです。その代わりに、安穏に達したいという気持ちを薄々、持っています。しかし、存在することに対する執着も捨てたくはない。安穏の境地に達して、そこで永遠に生きていきたいと思っているのです。生きることは生老病死の回転なので、それは安穏の境地と正反対の現象です。溶岩のなかで氷を探しているような、ありえない両立不可能な期待です。生きることが苦であると発見したお釈迦さまは、存在に対する執着を根絶したところでparikkhayā、涅槃という境地に達すると発見したのです。

思考の回転を停止する

生命は、絶えず思考することも、認識することも行っているのです。「身体とは純粋に物質の塊である」と、まず思いましょう。石、水、机のような純粋な物質です。しかし、身体は純粋な物質とは違いますね。身体という物体のなかに、思考が回転しているのです。身体という物体のなかに、認識するという機能が絶えず起きています。要するに、純粋物体には知る機能が無いのです。身体という物体には知る機能があります。ものごとを認識したり、概念を回転させたりするからこそ、ありとあらゆる悩み苦しみが起こるのです。思考と概念の回転を止めない限り、苦しみから抜け出すことはできません。お釈迦さまは、思考と概念の回転を停止させる方法を教えたのです。思考と概念の回転を停止することによって「解脱の境地」が成り立つので、saññāviññāṇasaṅkhayāと答えたのです。

感じることは起源

思考・妄想を回転させるためにも、概念をつくるためにも、まず対象を感じなくてはいけないのです。生命は、眼耳鼻舌身意で色声香味触法を感じてから認識します。感じることも認識することも同時に起きますが、理解しやすくするために、「感じては認識する」というふうな順番にしただけです。色声香味触法によって、感覚も変わります。つねに六種類の感覚が起きているのです。色声香味触法はつねに無常で変化するので、それに合わせて感覚も変化します。執着・煩悩などは、感覚から起こるものです。たとえば、眼に見えるのは物体のかたちいろだけです。それが美しいものか、醜いものか、欲しいものか、遠ざけたいものか、楽しくなるものか、苦しみを感じさせるものか、などなどの差は、感覚の問題です。見えた対象の問題ではありません。

感覚の流れを観察しない限り、人は外の世界のせいで煩悩が生まれるのだと勘違いするのです。ゆえに、苦行したり、断食をしたり、世間を拒否したり、その他の制御方法も試したりするのです。眼耳鼻舌身意という対象を敵に回して攻撃しても、さらに苦しむだけです。解脱には達しないし、こころの煩悩は無くならないのです。すべての宗教家たちが、俗世間の対象と戦って打ち勝つことを教えています。自分ひとりで頑張っても、色声香味触法が消えて皆無になることはありえません。結局、修行者は煩悩を断つことができないまま、人生を終えるのです。仏教では、「世にある美しいものは煩悩ではありません。世にある美しいものに対する愛着こそが煩悩である」と明確に説いています。

解脱を期待するならば、自分の身体に起こる感覚を観察することです。感じたものは感じただけで止める訓練をすることです。愛着も拒絶反応もつくらないように、と修行することです。そこで、感覚の激しい流れが平穏に流れるようになります。さらに進むと、「感覚の滅」を経験する。それが解脱です。Vedanānaṃ nirodhā upasamāと説かれているのは、そういうわけです。「感覚の寂止に達することが解脱である」と最終的に説かれたのです。

お釈迦さまの結論

Evaṃ khvāhaṃ, āvuso, jānāmi
Sattānaṃ nimokkhaṃ pamokkhaṃ vivekaṃ

友よ、私はこのように
生けるものたちの解脱、解放、遠離を知っています

パーリ経典によく見られる特色は、質問者の言葉と回答の言葉を合わせることです。質問者が使っていない概念を羅列することはしないのです。質問者がまったく知らない概念と言葉を使って答えても、相手には理解できません。だから、答えを相手が出した概念に合わせなくてはいけないのです。お釈迦さまの答えには、女神が使わなかったnandībhava、saññā、viññāṇa、vedanāという四つの概念が入っています。これは、すべての生命にあるこころの働きなので、相手に理解できないはずはありません。相手に理解できないのは、無執着に関わる言葉だけです。これがお釈迦さまの回答の言葉です。最後に質問に答えを合わせる目的で、「友よ、私はこのように、生けるものたちの解脱、解放、遠離を知っています」と結論づけるのです。

女神が解脱に達する方法を訊いたので、お釈迦さまは女神のもちいた言葉を使用して、その方法を説いたのです

今回のポイント

  • 「この世は不完全」とすべての宗教が認める
  • 宗教家はバラバラの概念で「安穏の境地」を述べる
  • 他宗教の「安穏の境地」も執着の一種である
  • ブッダは存在欲を断つことを説く
  • 感覚が煩悩の起源である