パティパダー巻頭法話

No.294(2019年9月号)

聖なる道を閉ざす障害

悪魔の役目を果たす己のこころ Self stands against self-realization

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Niddātandīsuttaṃ(SN 1.16)
惰眠経(相応部 1.16)

  • “Niddā tandī vijambhitā
    Aratī bhattasammado
    Etena nappakāsati
    Ariyamaggo idha pāṇina”nti
  • “Niddaṃ tandiṃ vijambhitaṃ
    Aratiṃ bhattasammadaṃ
    Viriyena naṃ paṇāmetvā
    Ariyamaggo visujjhatī”ti
  • 眠気、だるさ、あくび
    退屈、食後の倦怠感
    ――という原因で生命に
    聖なる道が現れない
  • 眠気、だるさ、あくび
    退屈、食後の倦怠感
    ――という障害を精進で乗り越えれば
    解脱への道が現れる
  • 和訳 スマナサーラ長老

修行が進まない

これはブッダの教えを実践する誰もが悩む問題です。実践してみたい、という気持ちはあるが、いったん行なってみると、壁にぶつかって進まなくなるのです。それで実践者は、「あとでやります」という気持ちになる。しかし、人は「あとでやる」と計画したものをほとんど実行に移さないまま、忘却してしまうのです。

ひとが何を実行しようとしても、ハードルはあるものです。人生を不幸に陥れる行為なら、人はハードルだと感じないのです。そこで誰でも、やりやすい事柄にしがみつくのです。わかりやすい例でいえば、子供にとって勉強するよりはゲームをやることのほうが楽しいです。いくら時間が経っても、気づかないのです。ひとは、役に立つものであるならば、必ずハードルもパッケージで伴ってくると理解しなくてはいけない。ゆえに、成功を目指す人は、ハードルのこともしっかり学んで理解するのです。決して、闇雲にハードルに突進することはしないのです。

ハードルの研究

まずは張り切って実践を行なってみます。新鮮な意欲なので、ある程度まで進むと思います。それで実践者は、自分の能力に対して自信を持つことになります。次に実践に挑戦したら、希望したとおりに進まないことに気づいて落ち込むのです。瞑想実践に限らず、良いとされるどんな計画を実行しても、パターンは同じです。最初にうまくいったことを誤解しているのです。学校でも会社でも、初日は楽ちんです。実戦はそれからです。理性のある人なら、ものごとは水のように自然に流れると思わないものです。ハードルが当然あると理解するのです。達したいと思っている目的しか眼中にない場合は、成功しない確率があまりにも高くなります。「目的に達した」とは、道中にあるさまざまなハードルをうまく乗り越えた、という意味です。俗世間で企画されたプロジェクトであろうが、成功を収めたい人々はその日その日に現れる問題を解決しながら進むのです。

仏教の実践の場合、俗世間の企画よりもハードルが厳しいのです。なぜならば、仏道は人格向上の道だからです。人間が人間性の限界を破って、ariyamagga・聖なる道を歩んで覚者になろうとしているのです。まずその人は、「覚ります、聖者になります」などの気持ちを、残念ながら忘れなくてはならないのです。唯一正しい目的をめざしているのだ、と思ったならば、その気持ちが怖い煩悩になるのです。自我を強化する足かせになるのです。正しく実践する人は、その場その場で現れる問題を学んで、乗り越える工夫をするのです。仏道の場合、その道を邪魔するのは誰でもなく自分自身なのです。ですから、俗世間的なプロジェクトよりは、ハードルがややこしくなります。修行者自身が、自分の修行を邪魔するのです。「あり得ない」と思うでしょう? しかし、それが現実です。「私が私の修行を邪魔するはずはない」と思うのは構いませんが、修行中に起こるさまざまな障害に対して、客観的に理解する必要があることを忘れないでほしいのです。

女神の発見

今月の経典の状況説明は、経典本文にも注釈書にも無いのです。仮に一つ作ってみます。森のなかに、たくさん修行者が来て修行に励んでいる。それを見ていた女神に、解脱に成功する人、修行が進まなくて困っている人がいることが分かるのです。ハードルに引っかかって、修行が進まず困っている人々を観察した女神は、その原因はなんでしょうかと調べます。そこで自分が発見した原因をお釈迦さまに報告しようと思ったのです。自分は天界の神なので、修行者に向かって直接アドヴァイスすることはできないからです。だったら、大師匠であるお釈迦さまに教えてあげることが筋です。釈尊の御前で、女神が偈の形にして唱えた原因について、これから詳しく考えてみましょう。

Niddā眠気

眠気は二つあります。一つは、物理的に身体が疲れて眠たくなることです。眠たくならなくても、身体が疲れたならば睡眠をとって、休ませなくてはいけないのです。一日中働いている人々は、夜眠くなります。真夏の猛暑の攻撃を受けると、昼間であっても身体がクタクタに疲れて眠くなる可能性があります。これは物体である身体の機能をいったん休めなさい、という健康的な指令です。脳のこの指令を忘れると、健康に問題が起きます。ですから、第一の眠気障害として見ないのです。苦行を推薦するジャイナ教の信者であるサッチャカというバラモンが、釈尊と対話したエピソードがあります。お釈迦さまの道は安楽ばかりを目指すだらしない道であるという考えを持っていました。サッチャカさんは、「楽をすることによって、こころに執着が生まれて汚れるのだ」という考えを持っていたのです。お釈迦さまが彼に正しい修行方法を説明してあげて、ご自身がなんの執着も汚れも起きない超越した喜悦感を感じていることを詳しく説明しました。それに反論できなかったサッチャカさんは突然、「釈尊は昼寝したことがありますか?」と質問します。釈尊はなんのこともなく、「真夏のある日、昼寝をした憶えがある」と答えたのです。お釈迦さまは煩悩にやられて昼寝したわけはなく、肉体がくたくたに疲れていたから昼寝して休ませたのです。

二つめの眠気は、何らかの計画を実行する人にとっての障害です。受験生が本を読もうとすると、眠くてしょうがなくなります。大人にも、大事なことをやろうとすると睡魔が襲うことがあります。電車に座っただけで眠ってしまう人々もいます。やることが無かったすぐ眠くなる人も、何かやろうとするとすぐ眠くなる人もいます。このような性格だったら、人生でなにも得られないのです。それらは、煩悩の問題です。煩悩がこころにthīna-middha・惛沈睡眠という膜を張っているのです。それで、こころに成長することができなくなるのです。勉強になる本を読むと眠くなるというのは、脳が内容を理解することを拒否している状態です。それを身体の疲れだと勘違いしてはいけません。修行を始めても、眠気の攻撃が入ります。仕方がないと思って寝ても、問題は解決しません。こころが修行したくないのです。それは自分のこころです。自分のこころが自分の邪魔をしているのです。

惛沈睡眠という障害は、とてもタチが悪いのです。一回、惛沈睡眠に勝ったからといって、終わるわけではありません。惛沈睡眠は、しつこく繰り返し現れるハードルです。このハードルを突破しない限り、解脱に達するどころか第一禅定に達することもできないのです。

Tandīだるさ

身体のだるさは環境の影響だと簡単に理解することができます。たとえば、夏の昼間は疲れて眠くなります。ご飯を食べると眠くなります。冬は身体が寒くなると、やけに眠たくなります。身体が渇くとだるくなります。これは一般的な例ですが、個人的な原因もあり得るのです。たとえば、雨が降ると眠くなる人も、雷の音で眠くなる人もいるのです。車や電車の音で眠くなる人もいます。それらは、修行者には関係ないかも知れませんが、瞑想実践に入った人々は、周りの環境と天気の状況によって、身体がだるくなって、次に眠くなることに気をつけなくてはいけないのです。原因を発見したならば、その人に解決策がわかるのです。食べたら眠くなる人だったら、食べすぎに注意して空腹感を無くす程度にする、などです。夏は暑いから眠くなる人は部屋でクーラーを付けても良いですが、涼しくなったら眠くなる人はクーラーを消して暑い状態を保つことです。身体を動かして、血液の流れを復活させるという方法もあります。

Vijambhitāあくび

瞑想実践しようとしても、あくびが出始めたら修行ができなくなります。身体と脳の機能が低下する時、あくびが出るのだと思います。あくびそのものが運動することになりますけど、それでもって脳が活性化するわけでもないのです。あくびをする時、深呼吸になります。ということは、脳が酸素を必要としているか、増えた二酸化炭素を排出したがっているか、とも推測できますが、原因ははっきりしないのです。なぜならば、あくびが出始めたら深呼吸してもあくびは止まらないからです。かえって深呼吸して身体を整えると、その疲れを取るためにあくびが出る場合もあります。眠気が来る前に、あくびが現れる場合もあります。瞑想修行する人があくびに襲われたら、身体と脳の機能が鈍くなっているのだと理解したほうがよいのです。軽く身体を動かしたり、環境を変えたり、坐る瞑想から歩く瞑想に切り替えたり、などなどして、あくびが出る問題を解決しなくてはいけない。あくびは修行の邪魔です。脳が活性化していきいき働いている状態ならば、瞑想は進みます。

Arati退屈

ひとは何をやろうとも、その瞬間その瞬間、喜び・充実感・やる気・意欲などがあったほうが、中断しないで進むことができます。修行を始める人も、「なんか面白くない」と感じてしまったら、修行は進まないのです。中断してしまうのです。ひとが何か大事なことを行なう場合は、「これ、けっこう面白いよ」という気持ちで行なうべきだと思います。能力次第で、人生に起こる何事であろうとも、面白く観ることができるのです。

何事に対しても、面白くない、つまらない、というアプローチでかかる人々もいるのです。その人々は何事も成功しません。それらのアプローチは、怒りの煩悩の働きです。これは、世間で「ネガティヴ的」と言われるものです。だからといって無理矢理、ポジティヴ・アプローチをすることも良くないのです。「なんか面白い!」というアプローチが良いと思います。

Bhattasammado食後の倦怠感

みな喜んでご飯を食べますけど、身体にとっては「食べたものを消化する」という重労働が待っているのです。十五分で食べ終わるかも知れませんが、消化するためにはおよそ八時間程度かかるのです。それでまた、お腹が空いてないにもかかわらず、食べるのです。朝昼晩と食べてはいても、お腹が空いたという感覚は無いでしょう。ふつうに生活している人々は、いつでも食後の倦怠感を経験しているのです。カフェイン、タンニン、ニコチンなどなどの刺激物を身体に入れる癖は、食後の倦怠感を解決するためです。しかし、それでまた身体が壊れるのです。

修行者は、俗世間で習慣的に行なっている「三食たべる」ということをしないのです。理性的にいえば、お腹が空いたならば軽く何かを食べて、空腹感を無くすほうが正しいのです。しかし、その場合も問題が起きます。お腹が空いたら口に入れるために、何か食べ物を手元に置いておかなくてはいけないのです。それも煩悩を惹き起こす危険性を持っています。だから、修行者は午前中に食事をして、それから食べないことにするのです。身体に苦労しないで消化できる時間を与えるのです。しかし、修行者が一日一食にしても、食後は倦怠感が起こるので、気をつけなくてはいけません。その倦怠感をどうやって無くすのかと、修行者が考えなくてはいけないのです。

女神のことば

眠気、だるさ、あくび
退屈、食後の倦怠感
――という原因で、生命に
聖なる道が現れない

女神はこの偈を唱えることで、修行しても進まない、覚らない理由を説明したかったのです。女神が取り上げた五つの障害は、そのとおりです。修行する人にとっても、俗世間で生きるために頑張っている人にとっても、これは障害になるのです。しかし、女神は障害を乗り越える方法までは語っていないのです。

ブッダの答え

眠気、だるさ、あくび
退屈、食後の倦怠感
――という障害を精進で乗り越えれば
解脱への道が現れる

お釈迦さまは、女神の言葉にあった五つの障害(原因)はそのとおりであると認めました。その上で、障害を乗り越えるための方法を「精進」という一言で示したのです。

精進

ここで、精進とは何かと理解しなくてはいけないのです。簡単な答えは、「良い道であるならば必ず障害があるので、その障害を乗り越えるために頑張らなくてはいけない」ということです。目的に達する人は、障害に対して備えるだけであって、障害を嫌がらないのです。エベレストに登れたら最高だ、と思う人がいるとしましょう。しかし、それは普通の山に登るような感じでラクラクできることではありません。厳しい障害がたくさんあるのです。少々の失敗で命を失うことにもなりかねません。エベレストの頂上に登ったからといって、たいしたことではありません。証拠写真を撮ってから、すぐに降りなくてはいけないのです。では、何が自慢でしょうか? なぜ、それがニュースになるのでしょうか? 厳しい障害を乗り越えたからです。ですから、「成功とは障害を乗り越えることである」と理解しても構わないのです。ひとは目的に達することをいったん忘れて、目の前にある障害を乗り越えることに挑戦するのです。それが「精進」という一言にまとめられています。

正精進

精進は俗世間的ですが、解脱を目指して努力することは「正精進」というのです。俗世間の目的に達したからと言って、すべて無常なので、たいした意味は無いのです。恐ろしい輪廻転生の苦しみを乗り越えることが、生命にとって最終的な目的になります。だから、それだけが正精進なのです。

具体的に正精進を実行する方法は、修行者も自分で考えなくてはいけないのです。お釈迦さまは理論的に正精進をまとめて教えられています。

  1. いま、こころにある悪を無くす努力。
  2. いまだ、こころに起きていない悪をこれからも起こらないようにとする努力。
  3. いま、こころにある善を完成しようという努力。
  4. いまだ、こころに起きていない善が現れるようにとする努力。

この四項目を憶えておけば、修行者にその場その場で現れる障害を乗り越えることができるようになります。

眠気などの五つの項目は、誰にでも既にある問題です。ですから、修行者はいまある悪を無くすように精進するのです。瞑想がある程度まで進んでいるのに、突然、惛沈睡眠の煩悩が現れてくる可能性があります。修行者も、こんな眠気は経験したことがないと驚くかも。または、「脳に問題があるのではないか?」と、怖くなる可能性もあります。その場合は、いままで無かった悪が現れたと思って精進するのです。修行が進んで、集中力が現れて、喜悦感をおぼえたり、軽安を感じたり、光が見えたり、いまだ聴いたことのない美しい音が聴こえたりする場合もあります。また、「これこそ究極の安らぎだ」と思って、喜ぶ場合もあります。「覚りに達したのではないか?」と思ったりもします。このような状態も、「いままで無かった悪」が現れたことになります。精進で乗り越えなくてはいけないのです。

悪魔の誘惑

経典に「悪魔」という言葉が出てきます。それで私たちは、一神教で説かれている悪魔みたいな感じで理解しようとするのです。要するに、「邪魔者は外から入りますよ」と。それは勘違いです。なぜならば、「私は真面目に修行している立派な人間なのに、悪魔が迷惑をかけているのだ」という意味になるからです。修行する人にとっての悪魔とは、自分自身なのです。他人には、あなたを惛沈睡眠に陥れることはできません。そんなことをやられると、却って腹が立つのです。他人には、食後の倦怠感を作ってあげることはできません。真夏の猛暑、真冬の厳寒など、外から降りかかる条件もあるが、それに眠気という反応をするのは、自分自身なのです。

というわけで、仏道を実践しようとする人は、強い覚悟をしなくてはいけないのです。自分自身に打ち勝たなくてはいけないのです。存在欲も、死の恐怖感も、他の煩悩も、自分のこころにあるものです。自分が妄想と思考で栄養を与えて育てているものです。解脱に達したければ、自分自身とたたかわなくてはいけないのです。これは世にある一番むずかしい戦いなので、慈悲深いお釈迦さまが、完璧な修行方法を語っているのです。道は完璧に説かれています。実践してみるのは、われわれの責任です。

今回のポイント

  • 悪の道はスムーズに進む
  • 善の道には障害がある
  • 成功・達成とは障害を乗り越えることです
  • 自分を襲う悪魔は自分自身である