パティパダー巻頭法話

No.296(2019年11月号)

過酷な世界で安穏に生きる

恥らいは幸福のキーワード Live peacefully in this stormy world

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Hirīsuttaṃ (SN 1.18)
慚経(相応部 1.18)

  • “Hirīnisedho puriso,
    koci lokasmiṃ vijjati.
    Yo nindaṃ apabodhati,
    asso bhadro kasāmivā”ti.
  • みずから恥じて自己を制し、
    駿馬が鞭を受ける要がないように、
    世の非難を受ける要のない人が、
    この世に誰かいるであろうか。
  • “Hirīnisedhā tanuyā,
    ye caranti sadā satā;
    Antaṃ dukkhassa pappuyya,
    caranti visame sama”nti.
  • 恥を知って制する人は少ない。
    かれらはつねに気をつけて行ない、
    苦しみの終滅に到達して、
    逆境にあっても平静に行う。
  • (和訳:中村元『ブッダ神々との対話サンユッタ・ニカーヤⅠ』岩波文庫より)

馬の話

駿馬という馬の話は、たとえ話として経典にたびたび出てきます。ふつうの馬と違って、とても品格のよい馬です。その駿馬にかかわるエピソードを先に知ったほうが、今日の経典を理解しやすくなるかもしれません。一番目の特色は、駿馬に乗馬することは一般人にはできない。一般人が乗馬しようとすると、馬が暴れて人を蹴っ飛ばす。馬がどんな人に乗馬を許すのかと決めるのです。ということは、乗る人もそれなりの品格のある人でなければいけません。だいたいは、王様、皇太子、将軍クラスの人々が乗る馬なのです。次の特色は、駿馬の調教は難しいか、またはできないのです。では、暴れる野生の馬なのかというと、そうではありません。要するに、その馬は、馬が守るべきすべての事柄を自分自身で理解して守るのです。当然、乗る人を選ぶ権利も、駿馬が持っています。「調教するなよ」という態度でいるから、誰かが何かを教えようとしたら、それはその馬にとって耐え難い、恥ずかしいことなのです。プライドが傷つきます。馬車に繋いだ時も、人が乗馬している時も、駿馬が人の心と気持ちを読み取るのです。ですから、早く走りたい気持ちが人間に起きたら、馬が勝手に走り出します。乗馬している人がゆっくり進みたくなったら、その気持ちにあわせて馬はゆっくり走ります。この馬には、もうひとつ秘密があります。御者も、騎手も、ふつうに鞭を持ちます。馬は動物ですから、鞭で管理しなくてはいけない。駿馬も鞭を気にしますが、御者が鞭を振るう形を地面に映る影で見ているのです。影を見て、御者の気持ちを理解します。もしも、性格の悪い人から鞭で身体に触れられたりしたら、それは駿馬にとって、耐え難い恥になります。だから、駿馬は最初から乗馬する人を自分で選ぶのです。

こんな馬が実際にいるか否かは、私にはわかりません。ただ、伝説的にそのように言われているから書いてみました。人間が作るストーリーに、動物が適応しなくてはいけない、という法則はありません。人間から見たら、ライオンは百獣の王です。しかし、自然界にいるライオンは自分が王だと思っていないのです。一人では狩りもできず、群れで、集団で獲物をとる難儀な存在なのです。駿馬も人間の夢物語かもしれません。

駿馬が登場する理由

慚(恥じらい)の象徴が駿馬です。言葉を変えると、「プライドが高い」という意味にもなります。感情に負けてみっともないことをしてしまったら、周りから非難されるのです。周りが自分の欠点をあげつらうと、プライドが酷く傷つきます。一般の人間は、他人に非難されることも欠点をあげつらわれることも、それほど気にしません。できるだけ、ワガママに生きてみようとするのです。

人格向上を目指すならば、わがまま・感情で生きることは決して認めるわけにはいきません。理性ある人々のしつけを受けて、人格向上するのが普通の人間の道です。しかし、人間の中で恥じる気持ちを自分のガイドラインにする人々も、まれにいるのです。この「恥じる気持ち」を一般的な意味にとってはいけません。世界から批判・非難を受けることを恥じるのです。罪を犯すこと、失敗することを恥じて、自分自身で自分を制御します。他人には、しつけするべきところが何一つ無いのです。このような性格は、人間の中でも稀な存在だと思います。「恥ずかしいことをしない」というモットーで生きて、またその生き方によって人格者になる人々は現実の世界では見当たらないので、観念的に駿馬を想像した可能性もあります。

仏教徒は、ブッダと阿羅漢たちの導きにしたがって生きるのが当たり前のことですが、自分のこころを清らかにするのは自分個人の仕事なのです。他人に言われなかったら自分の間違いに気づかないならば、その人に問題があります。仏道で覚りに達することは至難の技になります。だからこそ、自己制御できる能力は、仏教徒にとってこの上ない宝物なのです。我々が駿馬の喩えが入った経典を読む時は、決して「そんな珍しい馬がいるわけない」とクレームをつけることはしないのです。その喩えから、自分の戒めは自分の仕事であると理解するのです。「あなたのせいで覚ることができなかった」という話は、仏教では成り立ちません。

女神の疑問

しつけが無ければ、人間は悪いこと以外何もやらないのです。生まれてきた人をまともな大人に育て上げるために、苦労しなくてはいけません。両親も教師も、人間を調教しようと頑張っています。しっかりと立派な大人になるために必要な事柄を教えますが、それをしっかり完璧に学ぶ人などいないのです。親に叱られること、教師に叱られることは日常茶飯事になって、叱られることについて何とも思わない人間もいます。そういう人々は、社会人になっても、社会から叱られることを気にしないのです。その場合は、決して立派な大人にはなりません。社会のリーダーになることも、責任を任されることもない人になるのです。人間には、昔も今もこの問題がつきまとっています。子供たちに、世界一流の教育を授けてはいるが、子供たちは世界一流の人間としては成長しないのです。

女神はこの現状が気になったのでしょう。そこで疑問が生じたのです。

Asso bhadro kasāmiva 駿馬が鞭を気にするように、hirīnisedho puriso 恥じらうことによって自己を戒めて、nindaṃ
apabodhati世間からの非難を避けることに成功する人など、koci lokasmiṃ vijjati 本当にいるのでしょうか?

覚りに成功する人

お釈迦さまは、「性格的に素直であるならば誰だって覚りに達しますよ」という立場で真理を語られました。昔も今も、経典を読む人々は、自分自身が解脱に達することにおいては失格者であると感じないのです。仏教を学ぶ人々は、みな「やればできる」という気持ちでいます。問題は、学ぶ時ではなく、やってみる時、起こるのです。自分自身の自我の性格が割り込んできて、まっすぐに説かれた完璧な仏道を捻じ曲げてしまうからです。一直線に進むべき道を歩む人が、1°2°でも曲がったら、最終的に目標に達することはできなくなります。しかし、原理主義者になってしまって、文字通りに実践しようと思うと、その気持ちが執着になってしまうのです。執着を育てることは仏道の正反対です。お釈迦さまが修行者に求めた資格は、「素直であること」だけです。素直な性格とは、単純ではないのです。①柔軟なこころを持つこと。②他人の教え・指導などを偏見無しに聴いて理解すること。③自分の間違いを正直に認めてただちに直す努力をすること。④知っていることは知っていること、知らないことは知らないことと認める。⑤自分のこころの内を何も隠さず指導者に報告すること。⑥人格向上を怠らないこと。

自己制御

解脱に達する実践は自己観察です。「自己」とまとめた単語を使っていますが、「身体の行為とこころの流れをその場その場で確認すること」を行うのです。他人の話を聴いたり、やり方を教えてもらったり時は、自己観察できなくなります。だから、自己観察の仕方を教えてもらって、一人ひそかに自己観察を行わなくてはいけない。その時、こころに悪思考が流れたら、誤魔化しをしないでそのまま観察しなくてはいけない。怠けが起きたり、やる気を失ったりする時も、何も隠さず、そのままの状況を観察しなくてはいけない。欲の気持ちが生まれたら、欲の気持ちが生まれたことも、それが執着であることも、観察しなくてはいけない。要するに、仏道を実践して成功に達する人々の生き方は、駿馬の性格になるのです。修行者が瞑想実践に入っても、導師が警策を持ってそばに坐ることは一切ありません。

ブッダの導きのもとで、無数の方々が阿羅漢果に達することに成功しました。それらの聖者たちは皆、立派な駿馬です。だから、女神に起きた疑問は、仏教の世界においては問題ではないのです。世にあり得ないと言えるほど珍しい性格を持つ人々が、仏道の世界ではありふれた存在なのです。

ブッダの答え

Hirīnisedhā 恥じらいによって自己制御する人々、tanuyā 柔軟な性格を持つ人々、ye caranti sadā satā 常に気づきを実践する人々は、antaṃ
dukkhassa pappuyya
苦しみの終極に達する。caranti visame samaṃ その人々は、悩み苦しみが激しい凸凹の世界を安穏に生きるのです。

今回のポイント

  • 自己制御できる人は珍しい
  • しつけだけに頼っても人格は完成しない
  • 素直な人にしか自己観察できません
  • 仏道に成功する人は駿馬のような人間です