根本仏教講義

1.釈尊の根本的教え 4

心のカウンセリング

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人間はもともと怠惰な動物です。ある意味では、生きもののなかでもっとも怠惰な存在かもしれません。寒い朝などは暖かい布団の中からなかなか起きだしてきませんし、家のなかの後片づけや学生ならやらなくてはいけない勉強と知っていながら、楽で安易なテレビの前からなかなか立ちあがろうとしません。どんな時でも、これはいいことだからやらなければならないと知っていても、辛いことは先のばしにして、いつも微温湯ぬるまゆに浸つかっていようとするのが人間の常のすがたです。

やらなくてはいけないと知っていることですらこう怠惰なのですから、実感として捉らえられないような形而上の問題になるとなおさらこの怠惰性は加速されるようです。例えばそのひとつをあげれば、正しい心にするための訓練などというと、もうそれだけで何かとてつもない面倒なことをやらされるのではないかと、話を聞くまえから拒絶の姿勢で身構えるひとが大半ではないでしょうか。心を正しく、清らかにしなければ人間本来の生きかたができないということを理屈の上では知っていても、現実的にはそのための実践をやはり嫌がるのです。

もっと卑近な例を引けば、特に若い女性などは肥満を嫌います。肥満になったのは自分のせいなのに、まるで世の中に悪くされたような顔をして肥満対策に頭を絞ります。肥満を解消するのは簡単なこととだれでも知っています。それはハードな運動と減食を実行すれば、すぐにスマートな美しいプロポーションに戻れるのですが、だれもそれをやりません。理由は、ただ単につらいからです。太る原因となる“飽食”の時点ではそれが快楽ですから積極的になりますが、運動となると苦痛を覚えて積極的にやろうとしません。その代わり、怪しげなクスリや民間療法、果ては無茶なダイエットにしがみついて結局はからだを壊してしまうのがオチです。つまり、人間は苦痛を避けるために、金の力で辛い運動をするという苦痛から解消されたいと願うのです。

心もおなじようなものです。心を清らかにするためには、まず自分の心の有りようを変えなければすべては始まりませんが、その心を変えることからして人間はすごく嫌がり、激しく抵抗するのです。運動せずに痩せたいという理屈とおなじで、心は変化させずいまの状態のままで一時的な心の気休めだけを作りたいと願うのです。いまの心の状態のまま世の中を見れば、社会ではいろいろな競争に敗れ精神は病み、何とか自分だけは幸福になりたい、商売がうまく行くように、仕事が成功してどんどん出世したいなどとさまざまに願望がひしめいています。そういう願望に即応呼するがごとく、いまの日本にはさまざまな宗教があります。なかにはこっちの水は甘いぞという蛍の唄ではありませんが、「それはもう入信したその日から心が平安になって、晴々とした人生を送ることができますよ」というのはまだしも、「ウチの教祖さまにすがれば、商売繁盛疑いなしですよ。病気なんかいっぺんに治ってしまいますよ]などと露骨な勧誘を堂々とする宗教さえ存在します。

努力をせず幸せになれたらこんないいことはありませんし、心の訓練なしに苦しみから逃れられると言えばたいていの人間はたとえそれがインチキ臭い宗教であっても魅力的に映りますから、引っかかってしまうのも仕方のないことかもしれません。しかし、信者の方はその宗教団体に人って心晴々とした毎日を送っている人がたくさんいることもまた事実です。ですがそうした人をよく考えてみると、宗教によって心晴々した人間に変わったのではなく、教祖や同志仲間のアドバイスによって自然と自分の心を変える状態に置かれたということが分かってきます。

心がいつも安らいでいれば人間はいつも幸福感、充実感で満たされます。ところがそううまく行かないのがまた心の厄介なところです。自分の心を根本的に変化させなければ、永劫の清らかさは得ることができません。一時的な安らかさは得られても、すぐまた違うかたちの苦しみに責めたてられるのが人間の心の難しさなのです。しかも、人間はいまの自分の心というものを変化させることに恐怖に近い忌避の感情があるという困った存在なのです。無明の心とでも言えばいいその有り様に人間はしがみつき、そこから離れると自分のすべてを失うのではないかと畏怖するのです。

そういう心理を逆手に取ってかどうかは分かりませんが、いまの宗教は本来人間が自分でしなければいけない修行を、その人に代わって勤めてあげることを売りものにしているといっていいでしょう。その代わりに、お金を要求するのです。信者はお金で心の安寧を買っているのです。先ほどの、ダイエットの例といったいどこが違うのでしょうか。信者は、いまのままの心の状態を変えることなく、金銭を支払うことによって、心を清らかにできたと錯覚しているのです。

ところで、私たちはお釈迦さまの教えであるヴィパッサナー瞑想を実践しております。
このヴィパッサナー瞑想は体験された方はよくお分かりのように、私たちのこれまでの心の概念というものを根底から覆してしまいます。これまで知っていた、あるいは慣れ親しんできた世の中の実体、本質といったものを根こそぎ引っくりかえしてしまいます。
従って、いまの自分というものにしがみついている人にとっては、ヴィパッサナー瞑想を実践するということには大変な抵抗があると思いますし、一方実践された方にとっては、その場から自分の心の状態が変化していくことが実感として分かりますが、ヴィパッサナー瞑想法を体験した人は初期の段階でたいてい不信感というか不安感というか、みなさん心の激しい動揺を訴えます。これはいったいどういうことなのでしょう。それはヴィパッサナー瞑想法が人間のほんとうの心を映しだしてしまうからです。
見たこともない、考えたこともない自分の弱い心が晒され、それは決して最初に考えていたような美しいものでも、優雅なものでもありません。言ってみれば、見たくないものばかりを見せられるのです。そういう意味では、ヴィパッサナー瞑想法は人間にとってはなはだ迷惑で、大変失礼なと言ってもいい瞑想法です。

見たくないものばかりを見せ、思いたくないものだけを思わせる、心は逃げたいと欲しているのに逃げたいと思っている事象ばかりを浮かびあがらせます。しかも、その瞑想では自分の弱点だらけの心と向かいあってその心と対峙たいじしやっつけることを目的としていますから、この瞑想はまた大変な勇気も必要とするのです。しかし、勇気を出して瞑想法を実践していきますとやがていろいろな物ごとの真実が見えてくるようになります。そしてそこには新たな不安が、また表出します。それは釈迦尊の言う、私たちは一瞬一瞬の変化のなかを生きているにすぎないのであるということ、言い方を変えれば私たちは瞬間瞬間死んでいくのだという認識を持つことができるようになるのですが、それはとりもなおさず、求めようとしても、そのものは常に変化していますから結局は求められないという不満から、実体のないという強烈な不安、恐怖という概念にとり憑かれるのです。

それはそうでしょう、人間はもともと何かにすがって生きていたのですから、そのすがっているものの実体が何にもなく虚無であり妄想であったと知ることは、何かとてつもない絶望の淵へと自分が追いやられたような恐怖感を抱くのも仕方のないことです。しかし、ここまで認識できる段階では、ヴィパッサナー瞑想法にもかなり馴染んできた証拠であり、そのひとの心もまた従前よりかなり逞しく成長しているはずです。ここで瞑想を止めてはいけません。さらにつづけます。

人間は観念の動物です。新しいこと、変化することはなかなか肯定しようとはしません。地球は丸いといったガリレオを馬鹿にしたように、海の彼方にアメリカ大陸があると主張したコロンブスを一笑に付したように、それ以上にこの世の無常も、瞬間瞬間の変化しかないこの世の実体も頭から理解しようとしません。ところが、ヴィパッサナー瞑想法を実践した人たちは、理屈ではなく実感としてその本質を知ってしまいます。一般的に言う神仏等は人間が作った概念にすぎず、その概念によって人間は自分をだまし、責任転化して世の中をスムーズに生きられるよう一種の倫理的な規制を敷いたのだと知ることは、観念的人間としては非常な精神的抵抗のあるところだとおもいます。苦しいときはだれでも神にすがりたいし、神を存在させることによって罪や罰、正邪の定義の方便として利用してきて今日まで人間の慣習としてとけ込んでしまったのですから。

誤解のないように言っておきますが、仏教は何も神の存在を肯定する宗教を非難しているわけではありません。人を救い、正しい道に導くにはそれぞれの立場、それぞれの素晴らしい方法があり人間の精神向上のために素晴らしい貢献をしていることは否定できません。ですから、いまここで申し上げているのは次元の違う話なのです。人間は元来弱い存在なのです。弱い心の持ち主なのです。ですから釈迦尊の教えを知って実践してみて、一時的な気休めとしての心の安らぎでなく、心の仕組みそのものから変えてしまう強固な心へと自分を育ててほしいのです。

また、人間は結局は一人であるということは究極の真理としても、だからすべてのひとが出家をして生きるべきだということでもありません。私たち人間は、親子の関係をはじめ学校や会社、または友人やご近所のつき合いなどさまざまな人間関係によって世の中を作っていくという規範を設けてきました。その人間の生活形態を変えよとは釈迦尊はひと言も言ってはいません。むしろ、そうした人間が自らよかれと思って築きあげたルールは尊ぶべきだと言うのです。

私たち人間の問題はこの世を生きるのに、ただ単に何かに頼りそのことをありがたがるだけの、いつもいい加減ではっきりしない弱い心で満足している人間が、つまり冒頭に述べたように微温湯に浸ることだけを求めるような存在であってはならないのです。弱い心をまっすぐに強固にする修行をこつこつとしていかなければ生まれてきた意味がないのです。ただ勉強して、会社に人って、仕事をして食事をして、精神的なものと言えばただ神さま、仏さまと言って死ぬだけの一生。それでは食べるためだけに生まれてきたようなものではないですか。それなら動物のほうが立派です。

人間を除けばすべての動植物は調和そのものなかで生息しています。自然を育て、微生物まで土を栄養化しているのです。人間は食べて、寝て自然を汚し破壊する。地球の環境に不適切、宇宙の構造にも迷惑なただのバイキン、それがいまの人間です。こうなると人間の存在とは何であるか分からなくなってしまいます。人間には人間にしかできない何かがあるはずです。その何かに気がつかせるのがヴィパッサナー瞑想法であり、ヴィパッサナー瞑想法こそ人間がやらなければならない何かそのものなのです。(以下次号)