根本仏教講義

6.心の働き 5

私のものはあなたのものでもある

アルボムッレ・スマナサーラ長老

怒りの話が続いていますが、今月も怒りのひとつの形である「嫉妬」についてのお話から始めたいと思います。嫉妬も、実は怒りなのです。

嫉妬という怒り

嫉妬というのは、他人に対して生まれるものです。わかりやすい例でいえば、他人がうまくいくとショックを受ける、というものです。

自分の同級生、また会社に一緒にいる仲間、あるいは自分と一緒に会社に入った友人が、突然、特別な昇進をした。そうなると、自分がいきなりみじめな人間のように感じてしまうのですね。あるいは一緒にいた仲間が外国に派遣されて、「同じ学校を出て同じ教育を受けているのに」と思ってしまうような場合。そういう場合を嫉妬というのです。

女性は自分のアクセサリーであるかのようにそのような「嫉妬」をよく実践している人もいますが、だからといって男にないというのではなく、男性か女性かにかかわらず誰にでもあることなのです。真理には性別は関係ありませんから。

この嫉妬が起こった場合、自分をみじめに感じてしまったり、不幸に感じてしまったりします。それは、怒りなのです。「あの人はいいなあ、うまくいって」といろいろな面で嫉妬をする。そして、それが身についてしまったら、何もうまくいかなくなってくるのです。なぜならば世の中がうまくいけばいくほど、その人は暗く暗くなって、悲惨になってダメになってしまうのですから。友達がものすごくいいところに、お嫁に行ってしまったら嫉妬して、この人にはもう見つかる相手もいなくなってしまいます。

ですからこの嫉妬というのは、ものすごく危ない性格です。嫉妬がある人はなんのこともなく、どんどん不幸になるのです。自分でも何もしなくてもいいのです。不幸になれてしまうのです。なぜなら、世の中の人々はがんばっていて、成功している人はいくらでもいるわけですから、自分の地獄を作るには、それだけで十分なのです。なんてばかばかしいことでしょう。
それでも嫉妬する人は嫉妬するでしょう。すると、それは怒りと同じですから、すごく体もこわしてしまいます。とても単純な、わかりやすい論理だと思います。

この辺でその説明はやめますが、もし嫉妬する性格の人が、それを直すためにどうすべきかというと、やっぱりがんばって相手の幸福を喜ぶようにするしかありません。「ああ、よかったじゃないか」と心から感じるようにしてください。それで直るのです。私に出来なかったからって、別にどうということはない。その人が幸福になったんだからいいじゃないか。私の友達なのだから、それは私にとっても自慢になるのではないか…。自分と一緒に勉強した仲間がいて、あいつは今アメリカで社長をやっているんだ、そんな風に威張ればいいのです。たまに電話でもして「休みにそちらへ行くので、きちんと面倒を見てくれよ」と変わらずつき合えばいい。そのように相手の幸福を心から喜ぶと、自分をも幸福にしてしまうのです。

たとえば女性が2人いて、1人がとてもお金持ちのところへお嫁に行き幸福な結婚をしたとすると、「自分の旦那は普通の人間だ」と嫉妬するのではなくて、「自分にはとてもいい友達がいるんだ。自分の旦那には贅沢をさせてもらうことは出来ないけれど、たまに友達のところへ行って贅沢させてもらえる。旦那はアクセサリーを買ってくれないけれど、友達に借りることができるようになった。」と考えればよいのです。友達にアクセサリーを借りてパーティーに行ったからといって、誰も「そのネックレスは誰に借りたものですか」とは聞きません。「すてきなネックレスですね」と言うだけですから問題はありません。

他人の幸福と自分の幸福

ですから、結局、他人の幸福を自分の幸福に回すことが幸福の道なのです。逆に、嫉妬することはあまりにもばかばかしい自己破壊の道になるのです。

パーリ語の言葉で、issā(イッサー=嫉妬)の反対の言葉はmuditā(ムディター=喜び)なのです。慈悲の瞑想で「生きとし生けるものの願いがかなえられますように」と願うのは、ムディターなのです。「人々の願い事がかなえられても、自分には何の得もないではないか」というような嫉妬の心、怒りの心を持ってはいけません。そうすると自分がダメになってしまいます。誰であろうが何か成功したら、私たちも喜べばいいのです。

わかりやすくいえば、日本人の一人がオリンピックで金メダルをとったら日本人みんなが喜びますよね。そんな感じなんです。その人は自分でがんばってメダルをとって、それで、自分の人生ができあがっていきますが、わたしたちには全然関係ないと言えば関係ない。一銭の得にもなりませんけど、それでも我々は「日本がメダルをとった」と喜びを感じる。どんなものにもその感情を広げればいいのです。
人々の幸福を見て、心からお祝いしてあげる。
祝福し、楽しがってあげる。それで人生は幸福になるし、悪い嫉妬のエネルギーは消えてしまうのです。

Macchariya(マッチャリヤ)というのはその反対の性格で、自分の幸福が他人に行き渡るのをものすごくいやがる性格なのです。いわゆる「ケチ」な考え方なんですね。単なる「ケチ」とも言いにくいですが。

子供の世界を見ても、見えるんです。たとえば、自分の本を兄弟がさわると怒る。自分のベッドに兄弟が乗ると怒る。「これは、ぼくのベッドじゃないか」「私の部屋に入らないで」といちいち喧嘩したり、そんな性格が成長してしまったらマッチャリヤになってしまう。それはとても暗いのです。

このような場合は、自分がみじめだというより自分の持っているいろいろなものを他の人々と共有するのがいやなのです。それでも別にいいじゃないかと思われるかもしれませんが、そうではありません。

我々は一体なんのために成功するのでしょうか。なんのために「人生を成功させて幸せになろう」と思うのでしょうか。それは本当は社会のためなのです。成功して社会からバカにされるならば、たとえば、「あなたはすごく金持ちだからあっちへ行け、こっちに来るな」と追い払われるならば、誰がいったい金持ちになるでしょうか。お金がたくさんあると、みんなによく思われ、結婚式やいろいろなところに歓迎されて、認められて、仲人を頼まれて…それで幸福を感じるのです。銀行口座にゼロがいっぱいあるからと、そのことで幸福を感じるわけではないのです。

たとえばある人がとても立派な家を建てたとします。その家には犬猫の一匹も入ってはいけません。あっちこっち、どこにもここにもいろいろな道具がありますからね。セキュリティがいろいろ設置されていて、猫一匹でも入ったらものすごいアラームが鳴る。人ひとりも呼ばない。友達を接待することもない。そんな家は、いくら大きくても高価でも、お化け屋敷になってしまうでしょう。それではすごく不幸になってしまいます。皆に嫌われ、社会から見放されたら、我々の人生はそれで終わりです。なにもできません。

たとえば、子供が親と喧嘩して結婚して親に勘当され、「家に来るな」と言われた。そのときは腹が立って、親とは縁を切って生活を始める。しかし親もすごく悩んでいるのです。それから子供もでき、毎日の生活がすぎていきますが、親に嫌われているということは、やはり人生にとっては黒い点としてどこかに残っているのです。別に親から何をもらうというわけでもないのですが、「自分には子供が3人いて、よく仕事をして、家庭として成功しているが、両方の親から勘当されている」というふうに、ずっとそれは残っています。ある日親が許してくれたら、それは大変な幸福なのです。
「わかったよ、お前たちのことは。また仲良くやろう」という一言が大変な幸福で、それからはとても楽に生きていけるようになるのです。

ですから、社会に認めてもらうこと、社会に見放されないことも人間の幸福のひとつです。
このマッチャリヤがあればこの幸福は消えてしまいます。社会からは排除されます。イッサーがあっても同様です。

ですからそうならないように、マッチャリヤの反対のことを考えれば、皆と分かち合い、共有することです。自分の持っているものや才能というものは、皆と共有することです。たとえば自分が英語がとてもしっかりできるというなら、英語の必要な人には役に立つようにしてあげるというようなことです。たとえば外国人が来て、自分の友達である、ある日本人と大切な話をしなければならない。友人にとっては大きな仕事となるかもしれない場面だが、彼は全然英語が分からないとします。それで「ちょっと通訳してもらえませんか」と友達に頼まれたら「えっ、私はとても苦労して、何年も寝ないで勉強して、大金をかけて勉強してきたのに、何のために、全然勉強してこなかったこの友人のために通訳しなければならないのか」と思ってしまう。そんなことはばかばかしい考えなのです。自分ひとりで頑張って、英語の知識は得たかも知れませんが、友達に通訳してあげ、友達がうまくいって幸福になり、そこでやっと幸福を感じるのというのが当り前なのです。

そのように、「自分のものは皆のもの。社会のためにあるものだ」という気持で生きていなくてはいけません。それも幸福の道になるのです。皆と幸福を分かち合って生活する。それがマッチャリヤの反対の生き方です。

4つめのネガティブエネルギー

ここまでdosa(ドーサ=怒り)、issā(イッサー=嫉妬)、macchariya(マッチャリヤ=物惜しみ)と、我々の人生を不幸にするネガティブエネルギーを紹介してきましたが、最後の4つめはkukkucca(クックッチャ)、後悔です。
後悔も怒りのひとつです。
後悔とはたとえばこんなふうなものですね。自分が悪いことをしたとき「ああ、悪いことをしてしまった。失敗してしまった」と後悔し、良いことをできなかったとき、「ああ、良いことをできなかった。若いときは勉強できなかった。すればよかった」と後悔する。
「悪いことをした」と後悔する。「良いことをできなかった」と後悔する。
どちらにしても過去のことを後悔する。その後悔するということは、またものすごく猛烈な猛毒なのです。すべてなくなってしまうのです。

なぜならば、後悔をするときは、自分がアクティブではないのです。心とからだの活動力はすぐに止まってしまうのです。後悔したときのことを、思い出してみてください。そのときは何もやらないでしょう。「失敗した」と思うとやる気が消えてしまうんですね。来月またこの「後悔」のお話を続けましょう。(以下次号)