根本仏教講義

7.業と因縁 1

全てのことに理由がある

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今回から「業と因縁」という新しいテーマでお話しさせていただきます。このテーマでお話しするのは難しくてあまり好きではないのですが、私にできる限り説明させていただきます。
もし何か分からなかったことがあれば、どんどん質問していただければと思います。

日本でいう「業と因縁」とは?

「業と因縁」と言えば日本ではごく普通に使われている言葉ですね。
私もよく耳にしますが私がよく聞くのは「業が悪い」という言い方なんですね。また「因縁」という言葉もよく出て来ますが、たとえば、人に会った時に「ご縁があったんですね」というふうに言う。「これも何かの縁ではないか」とかね。何かよくわからない場合に、私達はそういう言葉を使うようです。

なぜこうなったか分からない、或いは偶然人に会って、何かものごとが非常にうまくいったような場合。まあ、それも何か縁ではないかと思うんですね。このように私が知る限りでは日本で縁というのは「何か分からないもの」について言うものではないかと思います。

例えば人が来るという約束があって会った場合、或いはこちらから会いたいと、アポイントを取って会った場合は「これは何かの縁ですよ」とは言わないんです。
「業」の場合も同じです。自分の希望どおりではなくて何かちょっと自分の希望と違ったことが起きた場合、特に悪いこと、不幸なこと、あってほしくないことが自分に起こったならば「業が悪い」と考えたりすると思います。

これらの言葉は仏教から出て来た言葉なんですね。そうすると皆様がたが因縁とは何か、業とは何かを知りたいと思うのは、ごく普通のことだと思います。では、お釈迦様は、業と因縁という2つの言葉についてどういうふうにおっしゃっているかというと、業については、そんなことは放っておきなさい、普通の人間の頭で分かることじゃない、とてもとても難しい、深いことなのだと話しておられます。人間には考えても考え切れないことなので、考えない方がいいとおっしゃいます。考えたら頭が狂ってしまうという四つの事がありまして、その一つが業なんですね。

ですが因縁のことは、考えるなとは言っておられません。因縁については、みんなが因縁をわかっていないから、そのためにあらゆる苦しみを味わっているんだとおっしゃっています。

人間の人生というのは、糸があっちこっち、無茶苦茶に絡まってしまったような状態なんですね。たとえば猫に糸でもあげて、自由に遊ばせてやるとどうなるかというと、ぐちゃぐちゃになりますよね。そしてもう元には戻らない。そういう風に我々の頭も人生も全部ぐちゃぐちゃになっているのは、この因縁がわかっていないからだとおっしゃっているのです。ですから因縁はもしかすると理解出来るものかも知れません。しかし業は放っておいた方がいい。同じものでもないし、テーマとしてもなかなか合うものでもないのです。

お釈迦様の時代に、お釈迦様の話しは全部聞いて覚えていたある大阿羅漢、お坊さまがいたんです。お釈迦様のお世話役をやっていたお坊さまで、パーリ語でアーナンダ尊者、日本語では阿難尊者という、八十大阿羅漢達の一人です。
阿羅漢になった、つまり悟ったのはお釈迦様がお亡くなりになってからなんですけど、そのアーナンダ尊者という人は頭が良く、記憶力が抜群で、何でも一回聞いたら明確に覚えているのです。
お釈迦様が、どこでどんな人に、どんな訳で何を教えたかということを、一回聞いただけで明確に覚えているんですね。昔は機械がなかったわけですから、お釈迦様にとってはまさに生きたテープレコーダーみたいでしたのでお釈迦様はいつでもそばに居てほしがったそうです。また、お釈迦様の親戚でもあって二人は大変仲が良く、お釈迦様はアーナンダ尊者がそばにいないと何か少し寂しいような気がするほどだったそうです。そのアーナンダ尊者がある日、お釈迦様と仲良く喋っていまして、こんな風に言ったんですね。「お釈迦様はいつも、因縁の話を難しい、難しいとおっしゃっていますが、私にとってはそんなに難しいとは思えません」
するとお釈迦様はこう言うんです。「冗談じゃない。本当に難しい話なのだ」と。もしわかったとすればそれはどういうことかというと、完全な悟りを開いたということなのです。

ですから私達が因縁の話をわからないというのは別に恥ずかしいことではないし、わかってますと言う方がちょっと危ないんです。わかってると言う人がいれば、ではあなたはすべての問題が解決しているんですかと聞きたくなってしまいます。ですが、わかるように頑張ってみるのはよいことです。といって、わからなくても別にかまわない。ですが努力しなければ何も得られません。難しいからやめたと言うならば、それっきりで終わりますから、一応チャレンジした方がよいのです。途中で出来なくてあきらめたとしても途中までは進めるわけです。

全てのことに理由がある

話を戻しますと、日本では分からないことに「何か縁があったのではないか」と言います。
いい人に会ったとき、これも何か縁だからなどと言いますが、「縁」という言葉を使うポイントは「理由が分からない」という点にあるようですね。ところが仏教で因縁というのは、まったく逆で、いわばとても科学的な、合理的な話なんです。物事、出来事の理由、なぜこうなったのか、それを知っていることを「因縁」というわけなのです。

例えば、「このごろ大分寒いですね、それも何か縁ですね」というと、日本の感覚ではおかしいんです。でも仏教でいう因縁というのは、そういうものなのです。何か因縁があって今日は寒い。なぜ今日は寒いかということを皆様ご存じでしょう。季節はもう冬ですし、ちょうど寒波が来ている、だから寒い。つまり因縁とは「理由」「訳」のことなんですね。それは知ろうとすればいくらでもわかることなのです。寒さについても、更に因縁を捜せばもっと詳しくわかります。この地球というのは、私たちの頭と同じように少し曲がっていますね(笑)。ですからある時期は、太陽がずっと長い間北半球に当たるわけです。そうすると日に当たる時間が長いわけですから、その間日本あたりは暑くなってしまう。そして11月、12月になると逆になり寒くなる。我々は、今なぜ寒いかという理由をきちんと知っているんですね。因縁の話とはそういう話なんです。きちんとした理由、訳を捜すということ。つまり物事には、全部、きちんとした理由があるということなのです。

それでおわかりかと思いますが、我々が日本で一般的に言っている因縁と、お釈迦様がおっしゃっている因縁はちょっと違いますよね。たとえば、科学も「因縁」の話なんです。なぜ重い物は空を飛ばないのかとか、なぜ鳥は空を飛べるのかとか。昔の人が見れば不思議なことです。人はいくら手をばたばたやっても、飛べるどころか手が疲れてしまうだけです。鳥ならばちょっとばたばたやるだけで、すぐ上に飛んで行ってしまう。それをよく考えると、因縁がわかるんです。因縁がわかってしまって、なるほどこういう訳で鳥が空を飛べる、それなら人間はどうしようかと考え、昔の人間は翼を作り、自分ではばたいてなんとか飛んでみようと思ったんですね。でも骨も首も折って、大怪我して終わってしまったんですね。それでも、考えて考えて今、我々は飛行機を作るようになりました。飛行機には、エアロダイナミクスというのでしょうか、空気の物理学があって、空気抵抗を考え、空気はこれぐらいの熱さ、速さでこういうふうに翼に触れると物体が上に上がるんだと計算したんですね。それも、因縁の話なんです。因縁が狂ってしまうと、飛行機も空を飛びません。そんなふうに科学、医学も因縁の話す。正しい話は因縁の話なのです。

因縁の話ほどつまらない話はない

へんてこりんな話だったら因縁の話ではないんです。ですから我々も喋る時はきちんと合理的に喋らなくちゃいけないんだそうです。ところが人間の世界ではきちんと喋るとあくびが出るわ、寝るわ、もう全然聞いてくれません。それで漫才みたいに、ありもしないもの、いい加減なこと、へんてこりんなことを喋ると、よく聞くこと。それは因縁の話じゃないんです。

昔ちょっと聞いたことがあるのですが、チャップリンという有名な人がいましたが、大変おもしろい映画を作りますよね。古い映画ですけど、今見てもおもしろい。それで彼に、「どうやってそんなおもしろいものが作れるのですか」と聞くと「そんなの簡単だよ。ちょっと常識を崩してしまえばいいだけだ」と言ったという話があるんだそうです。よくわかる話です。私の頭に耳が二つついていますよ、と言っても誰も笑わないんですね。ですが、夜寝ていると何か耳が痒くて痒くて、一体なんだと見たらムカデが入ってた、とか何とか言ってみたら笑うかも知れませんし、本当かなと思うかも知れません。
何か変なことを言えば笑わせられる。大体、おもしろい話、人気のある話、よく理解できる話というのはそういうおもしろい話なんです。しかしそういう変な話というのは因縁の話にはならない。つまりおもしろい話は真実の話にはならないんですね。

ではお釈迦様は何を喋られたのでしょう。お釈迦様は質問すればそれなりには答えてくださいます。たとえばどうすれば我々は家族の面倒もちゃんと見て、お金も適当に儲けて幸福に生きていられますかと聞けば、また私は大変悩んでいますがどうすればこの悩みが消えますかと聞けば、それなら、こうしなさいと。王様が来て、自分の国の国民が言うことを聞いてくれないんだと言えば、それだったらこうしなさいと、全部きちんと因縁に則ってお話するんです。そういうことで仏教の話はおもしろくない。おもしろいと思ったらそれは違うんです。

例えばある人が来て、私の人生は、毎日不幸なことばかり起こりますが、どうすれば明るくなりますかと聞いたとすると「あなたには何か死者の霊、怨念が付いていますね。大変です。今すぐ除霊してあげます。そうすればあなたは幸福になれます」と言えばすごく興味津々のってくるわけです。しかしもし「あなたの性格が悪い。あなたの喋り方は良くないし、人に親切でない。仕事のやり方もまずい。だから不幸になるのは当たり前だ。しっかりしなさい。良い言葉を喋りなさい。やることはちゃんとやりなさい」と言ったとすると、それは因縁の話で、あまり人気がないんです。それよりは「えいっ」と言って言葉でもかけて清めてもらった方が気持ちが良いんですね。

因縁の話はとても合理的で科学的で、おもしろい話ではありません。しかし人間というのは理由、訳を知りたがるものです。物事の理由、なぜそうなったかを知りたがります。それは、知った方が良いのです。知ろうと思って、変なところに行くのがおかしいのであって、きちんと、とことん追いかけて、追って、追って正しい原因を見つけるべきなのです。(以下次号)