根本仏教講義

9.心の法則 5

一旦停止で心の安全

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、心は本来怠け者である、というお話をしていましたね。心は怠けたいのだけれど、怠けるとまた大変苦しい。
その葛藤というか、矛盾というか、そこに人間の苦しみが生まれてくるという話でしたね。

ストレスという心のはたらき

仕事はしたいけれども、仕事でストレスがたまるし、楽しく幸せに結婚したのに、そのうち旦那さんのことで悩みが生まれてくる。子供が欲しくて欲しくて子供を作ったのに、ものすごく忙しくて大変だとか、子供が言うことを聞いてくれず困ったりとか。
おしゃれやお化粧が好きで、したくてしているのに、やっぱりそれもストレスになるのです。ときどき鏡を見なければならないし、口紅ひとつ塗るにも、ささっと簡単には塗れません。きちんと丁寧に鏡に目を凝らして描いたりして、やっぱりそこには緊張とストレスがついてきます。
よく考えれば、人間に全くストレスのたまらない仕事はひとつとしてありません。
ストレスのたまらないような仕事を持ってしまったら、怠けてしまってどうにもならなくなってしまいます。

スポーツというのは遊びでしょう。
人間が考え出した娯楽であるはずなのに、スポーツにもまたプロのような世界が出てきて、むしろ普通の仕事よりも厳しい。
大変ストレスもかかるのです。
例えば野球の場合、飛んでくるボールを受け取ろうと思って手が滑ってしまったとします。
娯楽であるなら、どうということはないはずですよね。でも、手を滑らせた瞬間に、その選手の心臓は、飛び出さんばかりにどきどきしてしまうのです。なぜなら、その失敗は誹謗中傷につながるばかりでなく、その人の収入にも関係がありますからね。

そのように、人間の文化なんてそんなものです。
ただのスポーツなら、ボールが滑ったくらいで人が死ぬわけじゃなし、日本が崩壊するわけでもない、人類が破滅するわけでもないのに本人にとっては一大事なのです。
ボールが落ちたから拾います…そんな風に単純に済まないところが人間の馬鹿なところなのです。
これも心の法則なのです。
なぜそこにストレスがたまるのか、それをきちんと理解すると、人間は正しく、幸福に生きていくことができるのです。

感情には二種類ある

そこで、ストレスを感じると、心はすぐに何とかしようとします。
まずやりやすいのは、怠けること。
次に怒ること。それから嫉妬すること。まだまだたくさんありますよ。
それらは簡単で、誰にでもできてしまいますね。

逆にむずかしいのは、努力することです。
怠けることの反対のことです。
また、欲張らずに、ものごとをみんなと分け合って共有すること、ストレスを怒りに代えず忍耐すること、そういうことはむずかしいのです。

旦那さんが遅くなって、十二時過ぎて帰ってきたとき、一番簡単なのはどういう対応ですか?
「あんた、この時間まで何やってたの?!」と怒りをぶちまけることは一番簡単ですよね。
そうではなく、「今日は遅くなって大変ねぇ。お風呂に入りますか」と聞くことができるでしょうか。
自分が遅くまで待ったことを全く気にせず、相手が遅くなった大変さを考えることは、少しむずかしいことなのです。
だから、心は簡単なことから先にやるのです。
そして、簡単なことから先にやった結果は必ずよくありません。
子供が何かやらかしたらとにかく怒る。怒ることは簡単でやりやすいのです。
怒って叱って、結果は必ず悪い。
それで後で悩むんですね。
叱らない方がよかったのではないか、あんな言い方をしなければ良かったのではないか…。
そこでさらに悩みが生まれてくるのです。
それも心の特色です。

起こしやすい簡単な感情がいくつかありまして、この起こしやすい感情はすべて、仏教では「悪」「不善」と決めています。
ここでは、この、基本的に生まれてくる感情と、もう少し時間をおくと生まれてくる次の感情の二つを考える必要があります。
本来生まれてくる方の感情はすべて「不善」であり、もう少し時間をおいて生まれてくる感情が「善」なのです。

たとえば、お母さんがギャーギャーと子供に怒っているとします。
それをお父さんが聞いている。
お母さんは、いくら言っても子供が聞いてくれないから、お手上げ状態になって、あなたなんとかいってくださいとバトンタッチする。
そのような場合、お父さんは話を相当聞いていて、母親の怒りと子供の頑固さを見ていたので考える時間があったわけです。
それでお父さんは怒っていませんから、ちゃんと論理立ててしゃべる。
するとうまくいってしまうのです。

でももしそこにお母さんがいなければ、お父さんも同じことで「こら、何やってるんだ」と怒ってしまうのです。
一般的に、女性が我が子に対して感情的で男の人というのは落ち着いていると、考えられるような傾向がありますが本当はそうでもないのです。
それは、お母さんが先に感情的になってしまっているから、時間的な余裕があって、そこに「基本的な感情」の後から生まれる方の感情が成り立つということなのです。
そこで、心を育てるということは、一時的に「基本的に本来生まれる感情」を使わない訓練を行うことなのです。ちょっとした智慧を用いて、正しい感情を使うということなのです。

一旦停止で、心を育てる

正しい感情というのは、理解する心です。
欲張らず、怒らないで、相手に対して優しい、理解の心をつくることなのです。

嫉妬しないで人のことをしっかり理解する。
その人はそれなりの努力をしたのだから、それなりの結果を得ているのだ、だからいいではないかと。
隣の奥さんが自分より美人だったら、そういう家系なのだから美人なのだわと、ただそういう風に理解すること。
それらはすべて「善」なのです。

心を育てるということは、心が「不善」の活動をしないように、智慧をプラスして「善」の感情が生まれるようにすることなのです。

ただで生まれてくるのは「不善」です。

怒りや嫉妬、怠けなど、そのような感情はただで生まれてきます。

それが心の本来の姿なのですから。

心の本来の姿は、暗くて怠け者で悪そのものなのですが、智慧によって努力、精進することで、どんどんきれいになっていきます。
どんどんきれいになり、最後に心そのものを壊してしまったところに究極的な幸福というものが生まれてくるのです。
それを仏教では解脱、悟りといいます。

ところで、仏教ばかりでなくいろいろな宗教で「悟り」という言葉は使われていますが、意味は仏教と同じではないかも知れません。
宗教によっては、心は本来善だという立場で語られる場合もありますが、その場合、お釈迦様のいう悟りとはものすごくかけ離れたものであることも覚えておかなければなりません。

では、もっと具体的に、心を守る方法を考えてみましょう。

ひとつ、ものすごく簡単な方法があります。
「一旦停止」という方法です。
それだけでかなり人生はうまくいきます。
一旦停止というのは、皆さん、よくご存知ですよね。
交差点の手前で「一旦停止」でしょ。そうしなければ、問題が起こるのです。
どういうことかというと、何かすぐに言いたくなってしまって、そのまま突っ走って、しゃべってしまうと問題が起こるのです。
特に、女性ののどの造りは、男性より声の出やすい造りになっていますから、しゃべってしまうわけです。
男性は声を出すのに、ちょっと力が必要なのです。
そのせいで、女性は片っ端から口に出してしまい、それでひどい目にあってしまうんですね。
しかし、しゃべりたくなったら、一旦停止です。一旦停止してから、さあ話そうと決断し、それから話すと一時的な感情はすっと隠れてしまい、活動しなくなります。

これは大変厳しい修行なんですよ。行動の場合も同じ。何かやりたくなっても一旦停止。ちょっと待てよと考えてから次に行動する。
それだけのことでかなり身を守ることができるのです。これは最強のお守りです。
交通安全のお守りなんていくらあっても事故は起こるのです。事故を起こす車を調べてみたら、交通安全のお守りが全然なかった…そんな話は聞いたこともない。交通安全のお守りはあるが、それでも事故は起こすのですから、

それよりも確実に一旦停止をすることが、どれほど事故防止になるかおわかりなのではありませんか。一旦停止法則をきちんと守ると、安全なのです。
人に何かを教えるとき、子供たちに話すときもそうです。学校の先生が、悪いことをした生徒を部屋に呼んでとにかく無茶苦茶に叱る。
そうではなくて、まずちょっと話し合いましょう、という風に始めてみたらどうでしょう。
その段階で、本来生まれる方の感情は、お互いにおさまってしまっているんですね。

子供たちは、叱られることはわかっているのです。
しかし悪いことをしている子供は、本当の意味で悪いとわかってしているのではないのです。
もし本当の意味で悪いとわかっているのならもうやめているはずです。建前はどうにせよ、心の底では正しいと思ってやっているのですから、先生がいくらうるさく言っても新しい喧嘩が生まれるだけで、ひとつの病気のかわりに別の新しい病気が出てくるだけで根本的には治りません。院内感染と同じです。そうでなく、何か事件を起こした子がいるなら職員室に呼んで、ちょっと話したいことがありますからどうぞ座って下さい、そう言ってきちんと話すとお互いに心が落ち着いてくるのです。そして科学的、合理的に物事を話すことができ、みんな納得のいく結果が得られるのです。ですから、自分を守るために、非常に大切な、「一旦停止」の法則を覚えておいてください。

一旦停止さえすれば、極論を言えば、人をぶん殴ってもいいのです。ぶん殴りたくなって、ちょっと待てと考え、それから殴るなら、ほとんどトラブルにはならないはずです。私たちが育てられた社会は体罰が正しいと認められた社会でしたから、子供たちは毎日先生に殴られるわけですね。10分遅刻するともう体罰です。だからといって死んだ人がいるわけじゃなし、子供たちが悪くなったわけでもないのです。悪いのは、感情でかっとなってすぐ殴ることなのです。そこには一旦停止の法則がありません。

私はよく悪知恵を使って、先生に殴られないようにしていましたが、一度だけ殴られたことがあります。三人で捕まえられ、教頭室に呼ばれたんですね。すると先生は「では、そっちで待っていなさい」と言って、これから体罰があるというのに、いろいろと用事をしているのです。結局30分ばかり待たせて思い出したように「あ、おまえら」と言って、スティックを持ってきて手を出させ、スティックで手を打つんですね。すぐ殴るのではなく、かなり時間をおいて、互いの理解の上で体罰を与えたのです。
子供のことを愛していて、本当は殴りたくないのだけれど、一番早く効くのはこの方法だと考え先生が殴っていることを、子供たちもわかっているのです。
ですから、私の学校で一番厳しくて、よく手をあげた先生は一番いい先生でした。休みの日さえ、自分の時間を使って、我々を家に呼ぶような人でした。家でご飯を作ってくれたり、いろいろなことを教えてくれたり、何か親父みたいなのです。24時間先生だから、どこで見ても怖いし、どこででも何でも教えてくれる。とても不思議な関係で、未だに忘れられない先生なのです。一旦停止法則を守るならば、体罰さえも何の問題にもならないということです。

心の法則はいろいろありますが、みなさんまず、安全を保障する、一旦停止の法則を使ってみてください。(この項終了)