根本仏教講義

10.診療カウンセリング 1

仏教は心の科学

アルボムッレ・スマナサーラ長老

さて、これから心療カウンセリングというテーマで話を、と言われて、何とかがんばってみようと思っていますが、もともとそういうテーマは仏教のテーマではないんですね。いろいろなことに心の悩みを持っているというのは、ある意味で「現代病」なわけですね。昔の人々には、今ほど精神的な病気があったわけじゃありませんからね。自然の中で生きていましたからそれなりに、ものを認めるという生活をしていました。現代人は、あまりにも頭が良すぎて、「認める」ということをしないんですね。何も認めたくない。台風が来たら、それを認めるのではなく、何とかとめようとする。地震が来たら、それを認めず、何とか地震と対決しようとする。病気がやってきたら、それを止めようとする…それは頭が良すぎるのか、悪すぎるのかどちらかでしょうねえ。昔の人はそんなことはなく、台風が来たら全部おしまい、干ばつになれば作物は全部だめになってしまうよ…そういうことは認めて生活したんですね。自分にどうしようもない現象については、そのまま認めて受け入れるということを、昔の人はしていました。ところが現代人にはそれがないんですね。全部自分の手で、コントロールできると思っているのです。でも何かをコントロールしているのかといえば、実はちっともコントロールできていないのです。こちらで何かを抑えると、他のところで違う何かがでてきてしまう、モグラたたきのようなものなのです。ですから現代人の高慢さというのでしょうか、「俺たちは知っているよ」といった高慢な態度さえ捨てれば、今現れてきているような精神的な問題は生まれてこないと思いますけどね。このような問題は仏教に本来的にある話ではないのです。

仏教は心の教え

前置きが長くなりましたが、では、仏教というのは一体何かというと、経典の95%くらいは全部心のことなんですね。心のことを話しているのです。体のことは話していません。それなら仏教は心の教えなのだから、心の悩みをなくす方法があるのではないかということです。そういう点からいうならば、あるんですね。

仏教というのは心の科学なんですね。心理学というよりは、科学といえると思います。いわゆる精神的な働きを徹底的に科学するのです。物理学や化学と同じような手法で、徹底的に分析して、お互いの関連性を理解し、法則を発見する。そして自分の思うがままに動かす。科学というのはそういうものですよね。新幹線があり、飛行機があり、宇宙船まである。いろいろ不思議なものが世の中にはあるでしょう。それらはすべて、科学のたまものなのです。科学の世界では、自然法則を科学して、自然現象の関連性を理解して、人間の幸福のためにうまく使うように工夫しているわけですね。

科学には、実践的なものが確実にあります。科学の実践的側面という観点から見ると、お釈迦さまは「心を科学」されているのです。一方サイコロジーというと、psycho(心)とlogy(学問)ということですから、同じような意味に聞こえますが、個々にはまた別の学問分野がありますから、私はあえてscience of the mind(心の科学)という単語を使いたいのです。これは私の造語なのですが。

そんなわけで、現代人が悩んだときも、カウンセリングや心理療法…そのような様々なことを試してみなくても、お釈迦さまの教えの中に心が落ち着くノウハウがたくさんあるのです。お釈迦さまの教えはどこを見ても、心を治すノウハウばかりだといえるかもしれません。膨大な心の法則が書かれていますので、与えられた短い時間にお話しきれるものではありませんができるところまでやってみましょう。

「仏教」と「精神科」の心理療法の違い

それから、仏教にはそれなりに目的があることも理解しておいていただきたいと思います。仏教の目的はわかりやすくいえば「超越」することなんですね。心の次元を突き破って、超越すること。それははっきりしているのです。

精神科の方々の立場から見れば、一般的な社会で、問題なく、うまく生きていられる状態、それが、心の健康な状態だと考えられていますね。仏教では、そうではないのです。社会と何の関係もなく生きていける生き方、いわゆる心の次元をどうやって乗り越えるかということが最終目的なのです。いかに社会を脱出して生きることができるか。それは現代社会の心療カウンセリングが、社会の中でうまく生きていくことを目指すのとは、大きな違いがあることは、まず理解しておいていただきたいと思います。

ちょっと別の視点から見てみましょう。普通、現代社会の人間は、ちゃんと勉強して、仕事をして、結婚して家族がいて問題なく生きている。それをノーマルな普通の人間だというんですね。そのなかで、たまに、学校に行きたくない子、行っても仲よくできない子、あるいはまるで勉強に興味のない子、そんな子が現れてきます。またもう少し大きくなったら、結婚したくないとか、あるいは結婚はしたいのだけれど、あの人もいい、この人もいいと、あまりに欲が多すぎてなかなか決められなかったり。また、仕事しようと面接に行くと、全部だめになる。人と会うとしゃべれなくなる。さらに、会社でなかなかみんなとうまくいかない。お金が入ったらすぐ使ってしまって、すぐ借金してしまう。あるいは、タバコを吸ったり、酒に頼らなければやっていられない依存症のようになる。また、家族関係がうまく行かない…など。そういうものを社会では、精神的な問題として扱っているんですね。子供なら普通は、学校に行って仲よく遊んで、勉強する。それが普通であって、それができない場合、その子は何か「心に問題」があるという。そして、カウンセラーがそれを手助けして「普通の状態」に引き上げてあげるわけですね。

では仏教ではどうかというと、仏教の見方では、普通の人はみんな、精神的な問題ありということになるのです。社会でしっかり仕事をして、きちんと家族を守って、ちゃんとやるべきことをやって死ぬ人々も問題がある。あなたがたみんな、その問題を解決するべきですよというのです。

図を描いて考えてみると、普通の人々というのは、ゼロ地点にいる。いわゆる精神科で問題ありとされる人々は、マイナス地点にいる。精神科ではこのマイナス地点の人々をゼロに持っていくことが目的だけれども、仏教では、今ゼロ地点にいる人々を含むすべての人々をプラス点に持っていこうとしているのです。つまり、人間に戻るのではなく、人間性を超えようということなのです。そこはまず、理解しておいてください。

仏教用語に見る仏教の目指すもの

その目的自体についても、お釈迦さまはいろいろな言葉を使って話されています。たとえば教えの中によく、ariya という形容詞がでてきます。直訳すれば「聖なる」という意味です。ariya dhamma(聖なる法)、ariya sacca(聖なる真理)、ariya magga(聖なる道)…四聖諦という、よく知られたことばですが、要するに「聖道」だということなのです。

また、バラモンという言葉も、われわれは別の宗教のひとつと思っていますが、お釈迦さまの言葉の中では、brahmana-(秀でている)という言葉ででてきて、お釈迦さまの教えについてまた心を清らかにしている人について、この言葉を使っています。 さらに、知恵、知識ということば。普通の世界でも一般的に使っていますけれど、仏教の世界ではそれとはまったく違って、はるかに超越した、随分レベルの高いものをいいます。ここでも、brahmanaとか、paññāという言葉を使いますが、日本語訳は「智慧」となります。

もっとわかりやすいのは、lokuttara。loka(世間、世界)とuttara(乗り越えている)という二つの言葉でできています。仏教では、世間の次元、世俗の次元を越えた道を教えているということです。もうひとつ、uttari manussaという言葉がありまして、uttariが「乗り越えた」「次元を超えた」、manussaが「人間」という意味で、あわせて次元を超えた人間という意味なのです。スーパーマン、ということですね(笑)。わかりやすくいえば仏教は、スーパーマンの教えなのです。空を飛ぶとか、壁を突き破るとか、そういうスーパーマンではなく、智慧、精神的に、人間の次元を飛び出してしまうということなのです。

仏教がカバーする領域はどこまでか

ですから仏教のことを軽く見てはいけませんと、お釈迦さまは何度もお坊さま達にもいさめています。知ったふりをして、いろいろなことを吹聴したり、軽くしゃべったりすることを厳しく叱っておられます。知っているということは人間性を超えているということですからね。それにもし人が、修行して何かそういう超越したものを得ても、他の人には言わないのです。

仏教の教えは、心の科学かもしれませんが、最終的には心を乗り越えることを教えているのです。科学が自然法則を勉強して自然法則を乗り越えることにチャレンジしているようにね。DNAを研究したり宇宙にまで行ったりね。そのように科学の世界では、自然法則を乗り越えることにトライする。仏教では、心の法則を乗り越えることにトライする。ですから、先程言った、science of the mind(心の科学)というのは適切な言葉だと思いますよ。

ところで、心療カウンセリングにもいろいろな面がありまして、心に問題があるといっても肉体的な問題によって精神的な問題が起こっている場合、たとえばホルモンの異状があったり神経システムに問題があったりして、そのせいで鬱になったりするような場合など、そんな場合は、それなりの治療を受けなければなりません。それは、仏教の手を出す範囲ではないのです。からだを治すのは医学の世界の仕事なのです。お坊さんたちには、「治療」をすることは禁じられているのです。昔は医療も発達していなかったですから、たとえばてんかんのような普通の病気でも、急に目をむいたり、体が震え出したり、意識がなくなったりすると、悪霊にとらわれたのだと言って昔の人たちは悪霊払いなどをやったのです。そういうことは、仏教では禁じられていました。祈祷や迷信で人をごまかすようなことは、初期仏教では許されないのです。仏教が担当するのは、「心の科学」の部分なのです。

わかりやすい例で言うと、人が足の骨を折って歩けないと言ってきたら、まずお医者さまのところへ行って足を治して、リハビリテーションをして歩けるようにしてきなさいという。そしてその人が、元気に歩けるようになったのできましたと言ってきたら、いえ、あなたはまだ正しく歩いていません。心が病気だから、歩き方を含めてあなたの行動のすべてが不自然なのです。と、心の病を治す方法を指導する。仏教とはそういうものなのです。

さて、前置きが長くなりましたが、さっそく心の悩みの話に入っていきましょう。お釈迦さまがどのように人々の心の悩みを治していったかということは、書き残されたさまざまなエピソードによってよくわかります。来月からは、これらのエピソードを拾いながらお話を進めていきましょう。(以下次号)