根本仏教講義

10.診療カウンセリング 4

「エゴ」と「目標」の問題

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、仏教の心療カウンセリングの実例を見ながら、現代社会に見られる「優等生の病」について考えました。現代社会に見られる病をもう少し掘り下げて見ていきましょう。

人間は「心」で生きる

何かひとつだけをとことんがんばってきた優等生が、恐ろしい問題を起こすことがあるという話を先月しましたが、これらはやはり「心」の問題ですね。
ここで、どのように「心」が問題を作るのかということを考えてみましょう。
まず前提として覚えておいて欲しいのは、我々は「心」で生きているということです。
「ごはん」で生きているのではないということです。
それはつまり「ごはんを食べる」という行為さえも「心」の命令によるものであり、「食べよう」という意志がなければなしえないことだということです。他のどんな行動についても同じことなのです。

心がなければ手をあげることもできないし、しゃべることもできない。歩くこともできません。
無意識のうちにやっていると感じるような動き、たとえば「瞼を閉じる」というような行為も、実は「心」の働きなのです。
からだの行動はすべて「心」がやっているのです。
「心」がどういうものかということについては、1998年11~12月号の「心の法則」の中でお話ししましたね。
そのときもお話ししましたように、からだというのはいわばただの物体です。
ただの肉のかたまりです。
心がなくなれば腐ってしまうものであり、平気で燃やしてしまうようなものなのです。
ですから大切なのは心なのです。手をあげることさえ、心で手をあげている。足を動かすときも、心で足を動かしている。
そのような「心」というものが、なぜ病気になるのかということですね。
病気には、次元が2つあります。
一般的に社会の中では、普通の社会人としての働きができなくなったときに、「病気」であるといいます。
そして2つ目に、仏教では、心が超越していないとき「病気」だといいます。
どちらも病気は病気なのですが。以下思い浮かぶままに具体例を挙げてみましょう。

自我意識は必要でもあり問題でもある

まず最初に「自我意識」という問題。
私たちには「自分」という意識があるんですね。
それは一般的に「アイデンティティ」ともいわれます。
自分がいるということ。私は田中です、森田です、にはじまっていろいろなこと。
世間一般の常識では、ちゃんとしたアイデンティティがあったほうがいい、自分というものをちゃんと持て、といわれますね。
私はこういうことをやりたいと、しっかり知りなさい、いわゆる自我意識をはっきり持ちなさいと、言われたりもします。
しかし自我意識を持つことはいいのですが、そこで自我意識があるから問題を作る人もいるのです。ほかの言葉で言うなら、あまりにもエゴが強い。ですから、自我意識はよいけれども「エゴ」はよくないのだと、覚えておいた方がよいと思います。エゴイストでは良くない。
つまり、私はこのような能力のある人間であり、こういう勉強をしたい、こういう仕事をしたい、このような生き方をしたい…そのように人生のプログラムを組み立て、そのように生きていく。それは、ちゃんとした自我意識でありアイデンティティですね。
では「エゴ」とは何かというと、よく似た同じような言葉なのですが、私はこのような人間であり、私にはこのような才能があって、このように生きます、こういう人間になりますと、決めてしまう。するとエゴが出てくるのです。言葉で言うと大変似ているが、このふたつは極端に違う。
自我意識はなくてはならないし、あっては危ないものなのです。心理学の世界では、言われないことですが、仏教ではそこが大切です。

たとえば、私は会社を作りたい、こういうふうな感じの会社を作りたいとしっかり考えて、その方向で行動し、なにかことが起これば柔軟に方向性を修正していく。そのような姿勢であれば別に何の問題もないのですが、そこにほんの少しエゴが入って、私はこのような会社を作りたいのだからといって、何でもかんでもやるようになってしまったら、どんなことになるかわからないのです。
あまりにも強いエゴが生まれたら、その人はどうなるかといえば柔軟性を失ってしまうのです。やりたいことしか見えなくなってしまうんですね。

別の例を挙げてみますと、たとえば、ある学生が東大に入りたいと思った。東大に入りたいと思うことはべつに問題ありませんね。そしてそれなりにきちんと勉強もする。そうすれば問題ありません。
しかし「絶対に入ってやる」と思ったら問題になるのです。東大に入るか入らないかということは、いろいろな要素が組合わさって作用した結果であって、自分だけのものではないことを理解しておいた方がよいのです。東大なんてそんなに大きな学校ではないのですから、絶対入ってやるという人が何万人もいても入るわけにはいきませんし、その年試験を受けた人たちの得点がかなり高かったりすれば、また不得手な問題がたまたま多かったりすればやはり入れないこともあるわけです。
ですから、自分は能力があって、勉強もしたのだから絶対に入るのだと思ってしまえば、ものすごい挫折感で悩まなければならないことになります。どうして私が受験した年にかぎってみんなが点数が高いのだと、怒りまで生まれてくるのです。なんて自分は不幸なのだ…と落ち込んだり、大変な問題が起きてしまったりします。

ですから、自分の道についてはいくらかは方向を決めるのですが、その道が成功するかしないかということは、単に自分の努力だけではないのであって、いろいろな要素が複雑に組み合わさって決まることだと理解して欲しいのです。

親の強い希望で子供に勉強させている場合も、もし子供が落第でもしようものなら、大変な勢いで親が叱ったりします。
それもまた間違いであって、その子が成功するかしないかは、その子供ひとりの努力だけによるものではないのです。
たとえば10人しか入れない学校の試験を100人もの子供が受けた。その100人それぞれが、みんな能力があってがんばって勉強してきたなら、仕方がないでしょう。
ですから、柔軟性が必要なのです。
あまりにエゴイストになってしまうと、自分がすぐにポキンと折れてしまうのです。自己というか、アイデンティティを作ろうと思うのはいいのだけれど、そのアイデンティティというのは固まって凝り固まってしまう可能性がありますから、そうならないように、柔軟性あるアイデンティティを作らなければなりません。
それができれば、問題は起こらないはずです。

目標は必要でもあり問題でもある

それから次に出てくるのが、「必ず成功してやる」という気持ちなんですね。
これもまたなくてはならないし、あっては危ない気持ちなのです。
それをご理解いただいきたいのです。
自分で何かをやるならば、成功しなければ意味がないでしょうし、失敗するために何かやることは無意味ですよね。
だからといって「絶対成功してやる」と強く思ってしまったら、また大変な問題につながりかねません。
成功するかしないかは、様々な要因、要素によって決められるものですから。

たとえば、ある塾では、自分の塾に入った生徒たちの9割以上が希望の大学に合格しなければならない。塾の経営をしている人がそのように先生方を指導し、責めるのです。
その責め方というのがまたひどいのです。
頭にはちまきを巻いて、目をつり上げて、何か戦争でもしているような様子なのです。
教えている先生にしても自分の首がかかっているし、必死です。気持ちよく、リラックスして教えるなんてこととはほど遠いのです。生徒たちにも余計な怒りや苦しみ、お互いに憎み合い、競争し合う争いの心ばかりが生まれてしまいます。
あまりにも自然否定なのですね。100人教室にいて90人以上が希望の大学に合格するというのは不可能に近い話です。
ここでは何となく、中道というものを考えなければなりません。

生徒たちには、思う存分がんばりなさい、あとで悔いが残らないようがんばれ、よく勉強したと自慢できるようにがんばりなさいと話してやり、私もあとで教え損なったという悔いが残らないように、よく教えてあげたと自慢できるようにとことん教えるのだと。
それで十分ではないかと考えた方がいいのです。
もし希望の大学に入れなかったら仕方がない、ほかの大学に入ればいいのだという自然な態度でいた方がよいのです。
しかし塾では、そんな自然法則を否定するんですね。
それは、太陽が東から昇るということを否定するのと同じようなことなのです。私たちがいくらいやだと思っても、太陽は東から昇るのですから仕方がありません。いくら否定したくても、冬は寒いのですから仕方がないのであって、そこで冬を怨むのではなく、何か厚いコートでも着れば問題は解決するのです。

ですから、目的を作るのはよいのですが、あまりにも非合理的に、自然法則を無視して目標を作ると、精神的な問題が起こるのです。

ですから人間にとって、希望というのはなくてはならない、しかしあったら大変危険なものなのです。
アイデンティティの場合も同じ、なくてはならないけれど、あったら大変危険。
目標や希望というものも、なくてはならないけれど、あったらとても危険なのです。

どうして自信がなくなるかというと、それは自信がありすぎるからです。
たとえば結婚式で挨拶することになる。
それで頭の中でどんどん考えを膨らませて、抜群の挨拶をしてやろうと考えていると、3分の挨拶に30分かかっても何もしゃべっていない。
心臓はどきどきするし、冷や汗は流れるし、膝はがくがくするし、もう大変なんですね。
前もってあまりにも妄想を膨らませている人は、実は自分に自信がありすぎる人なのです。自分のことを、あまりにも評価しすぎているのです。

ですから自信が何もないという人が、抜群にいい挨拶をしてしまうのです。
自分は口べたなのだから、さっさと1分くらいで終わらせようと手短に話す。
その少ない言葉が、ものすごくぴったりした、いい言葉だったりするのです。

それができないのは、自信がありすぎる人ですね。
会社で仕事するにしても、自信がありすぎる人というのは、何かものすごい奇跡的な成功を収めようと、心の底で妄想しているのです。だからできない。まあ、そこそこでいいのではないかと思えないんですね。

しかしまた危ないのは、そこで「そこそこでいいんじゃないか」と思ったら、ろくに仕事をしなくなるということです。
要は、自分に悔いがないようにということが大切なんですね。
自分は自分ができる限り、精一杯やりました。そのあとの結果は自分だけのことではないのだということです。(以下次号)