根本仏教講義

14.因縁の話 2

全てが無常であるならば『自己責任』はないのでは?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

先月は、因果説は仏教そのものともいえるほど重要な教えであるというお話をしました。そして、自分が行うすべての行為の結果は、長い時間をかけても自分に向かってくるのだということをお話ししていましたね。

無常観から生まれやすい虚無主義

このことをもう少しご説明すると、永遠の魂や自我、あるいは我というような何か実在するものがあるという哲学的な考え方は、真理を誤解しているからこそ生まれる考え方であると、お釈迦さまは「因果説」をもって説明なさっています。

では万物のあり方はどうだろうというと、万物は、英語でいうところのimpermanent、一瞬一瞬変化していくものなんですね。科学的に言えば、波動、何かエネルギーの振動のようなものなんですね。無常なのです。

永久に実存するものが何もないというならば、今の一瞬一瞬をやりたい放題にやり、好きなように生きて、楽しんで、後のことには何の責任も持たなくてもいいのではないかという人が出てくるんですね。哲学用語で言うと「虚無主義」なんだそうですが、「無常」だと思ったら、虚無主義的な考え方が生まれてくるんですね。

因果説では、何でも物事は無常であって、瞬滅していくのですが、自分がやっていることには自分で責任を持たなければならないのです。なぜなら、自分の今の行為が、次の結果の因縁になるからです。それは大宇宙の真理であり、法則です。どんなに小さな行為でも、結果を生むエネルギーを内包しているのです。自分が行うすべての行為が、次の結果を生む…だから、智慧が現れた人でない限り、私たちが思うほど私たちは自由ではないのです。

自由というのは、修行して、悟りを開いて得られるものなんですね。今のままなら、私たちのやっているすべての行為の結果が出てくるので、自分で責任を感じて、よく考えて行いをしなくてはいけないのです。たとえば、心の中で何かを考えているとき、あるいはそれを口に出すとき、あるいはからだを使って何かをするとき、この結果がどうなるのかと、ちょっと考えてやってみて欲しいのです。このように人間が、自分の行為の結果を考えて行為を行うことはひとつの修行なんですが、それも因果説をもって説明していることなのです。自分がやっていることは自分に結果が現れてくるのだから、自分で責任を持つべきという、説明というほどのこともない単純な考え方なのですが。

行為の結果は自分に向かう

ミリンダ王という実在の歴史的な王様がいましたが、ナーガセーナというお坊さまにいろいろ質問をして答えた、その答えを書いた本があります。お経の次の時代の、古い本です。この本の中で王様が、すべてのものは無常で、瞬滅していくのですから、今、実在しているものも次にはなくなっていて、後には関係のないものが残るのであるから、私たちがやっていることも自分たちには関係がない、だからそれはそれでいいのではないかと問う場面があるんです。これに対し、ナーガセーナ和尚はひとつのたとえをもって、そう簡単にはいかないのだとおっしゃったんですね。

王様がマンゴーの小さな種をひとつ、植えたことがありました。そのうち小さな芽が出てきて、小さな枝が出てくるのですが、その枝を栄養分にして、別の種が発芽し、どんどん大きく育っていったのです。王様のマンゴーの種が枯れていく一方で、別のマンゴーが育っていったのです。そしてそのうち立派なマンゴーの木になり、マンゴーの花が咲いて、マンゴーの実がなった。そのマンゴーが熟したのを見て、ある人がひとつ採って食べたんですね。食べたら、王様のものだから捕まるんです。するとこの人は王様の前で、これは、王様のマンゴーじゃありません、王様のマンゴーはずいぶん前に枯れてしまって、なくなってしまったのだと。ですからこのマンゴーは別物であって、自分は王様のマンゴーを盗んだことにはなりませんと弁明したのです。

しかし王様は、この者にはきちんと罰を与えるとおっしゃいました。なぜかというと、自分が植えたマンゴーの種が、今この人が食べたマンゴーを育て、つまりは結果となった。だからやっぱり責任はもつべきだと言うのです。このように、今実ったマンゴーは、王様の植えたマンゴーのひとつの結果であると、王様ご自身もおっしゃった。そういった事実に見られるように、仏教の因果説も、万物は無常であり、変化していくものであっても、それぞれ個人がやっている行為には、その個人が必ず責任を持つべきだと話されたのです。

このようにいろいろな場面で因果説が使われているようですが、すべての仏教のお経のなかには「因縁」のはなしが含まれているといっても過言ではありません。この世の中で、因果関係で説明できないものは何一つありませんし、すべてのことは因果関係を見て判断しなければならない、というのが仏教の考え方なのです。

どんな考え方にも執着しない

もうひとつ、因縁の考え方を使っている例があります。

私たち人間は、自分が知っているものに大変執着しています。特に一番わかりやすいのは宗教です。ある宗教に入った人は、自分が入った宗教だけが正しくて、ほかの宗教はすべて大変間違っているのだと思いこむんですね。そして、この宗教を信じている自分だけは天国に行く、他の人は皆地獄に行くのだと思いこんでいるようなところがある。

宗教以外でも同じなんです。たとえば政治家の場合も、自分の党や自分の考え方は正しくて他の党や他の人の考え方は、全部間違っているのだと強く信じて、執着して生きているんですね。自分が正しいわけですから、正しくない人をやっつけなくちゃいけないですし、正しくない人には強引に教えて、自分の考え方のほうへ引きずり込まなければならない、もしくは何とかして消さなければならないということになって、戦争にまで発展して行くわけです。

私たちは何に関しても、そのように自分が思いこんだ概念、考え方に執着して、自分だけが正しい、他の人は間違っていると思いがちですが、そう考えるのはまた間違っているんです。世の中にはわけあっていろいろな考え方がありますし、間違っているように見える考え方でも、その本人においては間違っていないのです。

仏教の因果説というのは、世の中のどんな考え方、どんな哲学にも執着しない考え方なのです。常に中立的な、言葉を変えると常に超越した立場にいて何でも観察するのです。ですからどちらかが正しいとか正しくないではなく、こちらのこの部分は正しいし、この部分は正しくないと、あるいは、こちらの人はこういう風に考えて、こういう風な結論に達したのだと、もう一方の人はこのように考えて、別の結論に達したのだと、しかしこの結論は、この部分は正しいが、他の部分は正しくないのだという風に何でも客観的によく考え理解して、どんな考え方にもとらわれずに、自由に生きていることが、因果説の立場なのです。因果説をよく理解したという人は、お釈迦さまの教えを「信じる」人だと思いますが、お釈迦さまの真の教えというのは自分で真理を発見し、理解することですから、何かを「信じなさい」というような部分はまったくないのです。

ですから、特別に仏教というものを信じなくても、具体的によく考えてみると、自分で真理を理解することができます。そのためにはやっぱり、宇宙の根本法則である「因果の法則」を理解する必要があると思います。仏教では、このように何ものにもとらわれない生き方のために、因果説を重要視しているのです。因果説にずいぶん時間をとられ、そのうえ話もむずかしくなって、申し訳ありません。

どんな考え方にも執着しない

これからもう少し実践的な、あるひとつの側面をお話ししようと思います。それは、今を自由に生きるために、この因果関係をどう使うかということなんです。人間の生命の、あるいは生きとし生けるものの解脱、永久的な自由というものは、悟りを開いて得られるものですから大変なものです。それは皆さんが一瞬に得られるものかどうかは、私にはわかりません。ですからそれを目的として、一生苦しんで生きる必要はないのです。仏教というのは、今、結果が出る教えだそうです。もし仏教を少しでも実践したならば、実践した分だけすぐ、自分に幸せが返ってくるのです。そのような小さな幸せを得て、それを確信として、自信を持って最終的な幸せ、最終的な自由、解脱、涅槃といったものを得られるように励んでいかなくてはなりません。

そこで、今現在の私たちの苦しみ、悩みをなくし、問題を解決し、今だけでも自由に生きるために、因果説を使いましょう。あるいはすべて解決しなくても、心の悩み、からだの悩みをともかくなくして、今というときを自由に、軽やかに、生きていくべきなのです。

来月はそのあたりを、できるだけ具体的にお話ししたいと思います。(次号に続く)