根本仏教講義

17.人とのつきあい方 3

善友に勝る宝なし

アルボムッレ・スマナサーラ長老

幸福は友人次第

前回は、仏教では人間関係をたいへん大事にしているということを、「愚か者とつきあうな」という視点からお話ししました。
人間はどうしても他人の影響を受けます。周りからの影響を受けないでいることは全く無理で、不可能です。

必ず人の影響を受けるのだから、誰とつきあうかということは、とても大事にしなければいけません。
誰と仲良くするか、真剣に考えなくてはならないのです。
その辺を無責任にしていると、自分の人生に対しても責任をとれなくなる。自分の生き方がどんな結果になるか、わからなくなる。「将来はどうなってもいいですよ」という生き方は、良くないのです。そのような無責任な生き方は、惰性的な生き方です。わずかでも智慧は現れてこないのです。将来はどうなるのか誰にもわからないという事実はありますが、どのように変わっても悪いようにはならないように計画的に生きるのが仏教的です。

ですから、つきあう人々を選ぶことは、生きる上で決して欠かせない大事なことです。
周りの影響で自分の人格が変わるのです。自分の幸福も、不幸も、周りの環境に左右されます。今自分が生きている環境を観察してみると、自分の将来が見えてくるのです。

極端に言えば、自分の幸不幸は、自分が仲良くしている社会次第だということになります。

自分の責任、どうなるの?

私はよく「他人のせいにするな」という話をします。
「あなたの不幸も悩みも他人のせいではない。自分のせいですよ」と言ったりもします。
この話と上に述べた話は、全く逆で矛盾ではないかと思われるかもしれません。でも矛盾ではないのです。幸福も不幸も、極端に自分だけの責任でもないし、極端に他人だけの責任でもないという意味です。自分と他人との関わり方によって結果が生まれるのです。

どのように他人と関わるかということは、自分の責任になります。良い方向へ進もうと自分が徹底的にがんばっても、自分の周囲の人間関係が全く逆の方向に行くならば、成功する見込みは薄くなるのです。逆に、周りの人々が良い方向へ導こうと徹底的に努力しても、自分にその気が全くない場合も良い結果が期待できません。

そのように、人生の幸不幸は〈自分のアプローチ〉と〈周りの人間関係〉、その両方が原因となるのです。社会を変えることは、個人にはほとんど無理なことです。
それに比べて、自分の心の管理は簡単にできるのです。ですから、一般的には、自己責任を重視して、仏教を語ることになるのです。

たとえば、真冬に雪道を歩くことを考えてみましょう。外の寒さに全く影響を受けないことは不可能です。冬の寒さを変えることも不可能です。冬空の下で歩く人は、防寒着を身にまとって、安全に雪道を歩きます。そのように、自分を管理することで環境に対応することができるのです。
しかし、いくら自己管理ができても、周りの社会からの影響は巨大であることを忘れてはならないのです。たとえ自己管理ができる人でも、砂漠という環境を選んだならば、水も食べ物も得られません。農業のプロであろうとも、住環境として北極を選んだら、何もできないのです。やはり、仲良くする相手は選ばないといけないのです。

善友はすべてだ

友人関係について、どのくらいお釈迦さまが大切に考えておられたか、というエピソードがあります。

ある日、お釈迦様の側近であるアーナンダ尊者が、「仏道というのは、たいへん頭の良い、自分を指導してくれる、仲の良い友人がいるならば、その友人の力で道の半分を達成できるだろう」と考えました。そして、良いことを考えついたからお釈迦さまにお話ししようと思って、そのことをお話ししたのです。

するとお釈迦さまは「その通りではありません。仏道は、善友に巡り会えたならば完全に成功しますよ。半分ではありません」とおっしゃったのです。

(Upaddhaṃ idaṃ bhante brahmacariyassa yad idaṃ kalyāṇamittatā klyāṇasahāyatā kalyāṇasampavaṅkatā.

善友がいること、善友と共にいること、善友と交わることが仏道の半分である。

Mā hevaṃ Ānanda mā hevaṃ Ānanda. Sakalam eva hidaṃ, Ānanda, brahmacariyam yad idaṃ kalyāṇamittā klyāṇasahāyatā kalyāṇasampavaṅkatā.(Saṃyutta Nikāya 5,2)

その通りではない、アーナンダよ。善友がいること、善友と共にいること、善友と交わることが、仏道のすべてである。)

またある時、智慧の第一人者であったサーリプッタ尊者が、「善友がいることこそ仏道のすべてです」とお釈迦さまに報告しました。

お釈迦さまは「全くその通りです」と賛成なさったのです。(Saṃyutta Nikāya 5,3)

また別なところで、お釈迦さまが、このように述べられました。
「八正道を実践する人にとって、それを完成するために必要な唯一の条件は何かというならば、それは善友がいることのみで、他にはないのです。」(Saṃyutta Nikāya 5,35)

またある日、コーサラ王が、自分が考えたことをこのようにお釈迦さまに報告しました。
「世尊の教えは完全に語られています。しかしその意味も善友と関わる時のみに限ります。悪友と交わる時ではありません。」

お釈迦さまは「その通りである」と賛成され、善友と交わることについて説法されました。(Saṃyutta Nikāya 1,87)

良い友人は自分をしっかりと導いてくれるし、すばらしい影響を与えてくれる。それどころか、良い友人に恵まれることが、人格を完成させるための、たった一つの条件なのです。

とにかく、卑しい人々とつきあうと卑しい人間になる。
優れた人々とつきあうと優れた人間になる。
誰かと仲良くした結果、自分の道徳、自分の知恵、自分のしっかりした生き方が危うくなってくるならば、その友人は真の友人ではありません。
逆に、ある友人とつきあうと、自分のだらしない生き方ができなくなって、しっかりとした人格ができてくるならば、その友人とは決して離れずに、なんとか仲良くしてもらうように努力するべきです。

打ち出の小槌を捨てても善友を失うな

人間にとって善友はいかに大事かと教えてくれる、非常に古い経典がもうひとつあります。

Sace labhetha nipakaṃ sahāyaṃ,
saddhiṃ caraṃ sādhu vihāri dhīraṃ;
Abhibhuyya sabbāni parissayāni,
careyya tenattamano satīmā.(Suttanipāta 45)

もしも汝が〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。(「ブッダのことば」 中村元 訳)

この偈に出てくる「うち勝つ」べき「危難」とは、善友と共にすることを妨げるあらゆるもののことです。
たとえば家族、財産、仕事などに足を引っ張られて善行為ができないという人もいます。その場合は、家族や財産などがその人にとっての障壁となるのです。

仏教では、金持ちになること、知識人になること、有名人になること、記録保持者になること等が生きる目的ではありません。これらは、いくらあっても、いとも簡単に自分から離れていくものです。これらの価値は、すべて、死と共に消えるのです。普通は人がやろうともしない善行為をすること、献身的になること、こころを清らかにすること、そして一切の執着を断って生を脱出すること(解脱)、それらのことに人間はチャレンジするべきです。それこそが価値あることなのです。

善友に巡り会えたならば、この生きる目的を達成することができるのです。
善友に巡り会ったならば、財産を守ることや記録にチャレンジすること等の俗世間の価値などは生ゴミのように捨ててしまうべきですよ、とお釈迦さまは説かれているのです。

私たちが一般的に仲良くするために人を選ぶ時は、何を規準に選んでいるでしょうか。
一緒にいて楽しい、趣味が合う、お金がある、有名人だ、権力者だ、美男美女だ、等のことではないでしょうか。
「人間は互いに影響し合って成長するものだ」とは全く考えていません。
このような軽薄な気持ちで他人に自分の人格を委託するべきか、考えた方がいいのです。

時々、自分の仲間の中に、性格が悪くてつきあいたくないと思われる人間がいることに気づく場合があります。だからといって簡単に縁を切ることは、なかなかできないものです。
「今までお世話になってきた。仕事の同僚だ。同じ団地の人だ。PTAのメンバーだ」等の理由で離れにくいのです。
自分一人で「よいことをしたい」と決めたときに、親から「そんなことをしても金になりません」と言われることもあります。
あるいは周りから「誰もそんなことやってないでしょ。誰もがやっている同じことをやりなさい」と言われる場合もあります。
これらすべてのことが、上の偈で述べられている parissaya(危難)なのです。

仏教は、心の成長を妨げるものは何であろうとも捨てるべきだ、という立場です。
お釈迦さまも、何の躊躇もなく王位を捨てられたのです。
「善友と出会ったら何を捨ててもいい」ということになります。
しかし、ここで拡大解釈して極端に走ってもいけないのです。
今まで仲良くしてきた人々が自分の足を引っ張ろうとしないならば、問題はありません。たとえ自分を成長させてくれることはできない人々であっても、自分の成長を応援してくれるのならば、「危難」とはなりません。
修行のためにやみくもに社会環境を捨てなさいと言っているわけではないのです。

話が脱線して、修行や解脱の話になりましたが、我々の日常の生活の中でも、安全に、成功もしながら、危険にも遭わないように生きていきたいと思うならば、友人を選ぶことです。すべては自分が生きている環境で決まるのです。

そこで問題は、誰が善友で、誰が悪友かということです。
「自分が悪人だ」と認めている人は一人もいません。たまにそういうことを言ったとしても、それはただふざけて遊んでいるだけのことです。
私たちも、自分が他人にとって善友なのか悪友なのか、わかっていないのです。仲良くする人のことを心配するつもり、相手のことを案ずるつもりではいても、本当のところはどうかわからないのです。

たとえば、母親が真剣まじめに子供のことを案じていても、母親の言うとおりにしたら子供が幸福になるかどうかはわかりません。善友・悪友の区別判断について、次号でお話ししましょう。(この項つづく)