根本仏教講義

24.ストレス完治への道 1

ストレスの正体

アルボムッレ・スマナサーラ長老

皆様もご存知のように、仏教は「心」のことを説いています。魂のことでも神のことでもなく、心のことを細かく説明しています。説明だけではなく、具体的に悩みや苦しみを解決して心を清らかにする方法も教えているのです。なぜ苦しむのか、どうすれば苦しみの原因を減らせるのか、本当の幸福とはどういうものか、完全なる平安の境地とは何か、その境地に至るためにはどうすればよいのか、ということを、きめ細かく丁寧に説明しています。ところが、これほど膨大な量で信じられないほど厳密に心の分析をしているのに、仏教にはストレスに該当する専門用語がないのです。言葉がないということは、ストレスは昔の人にはなかったもので、近年突然現れた病気だということでしょうか? 鳥インフルエンザやエイズヴィールスみたいに解決法のない、どうしようもない現代特有の病気なのでしょうか? このあたりを一度考えてみたほうがよいのです。

ストレスとは何か?

まず「ストレスとは何か」ということを理解しましょう。現代心理学や医学の世界には「ストレスはこういうもの」という明確な定義があるでしょうか? おそらく、ないと思います。なぜかと言うと、ストレスを完全に解決する方法がいまだに見つかってないからです。民間療法や薬物療法、心理療法など治療方法はいろいろありますが、どれをとっても完全ではなく、「これっ」という的中した解決方法がありません。それぞれが「こーすればいいのではないか、あーすればいいのではないか」と暗闇のなかで模索している状態なのです。たとえばストレスが原因で頭痛や胃炎が続き、医者に行ったとしましょう。医者はいろいろな検査をしますが、脳にも内臓にも異常は見つかりません。そこでどうしようもありませんから、とりあえず身体に現れている症状を抑えるために何らかの薬を出すのです。常識で考えれば、病気の原因が分からないのに薬を出すというのは大変危険なことでしょう。でもストレスの場合は堂々とやっているようです。したがって、このポイントの結論として言えるのは、私たちは「ストレスとは何か」ということを理解していないために、その解決方法も分からないでいるということです。

楽しいときにもストレスがある

それでは、どのようなときにストレスがかかるのでしょうか? 一般的には、人間関係がうまくいかなかったり、過度に忙しかったり、嫌なことがあったとき、と考えられています。しかしそれだけではありません。楽しいことをしているときにもストレスはかかるのです。「今日一日遊び過ぎた、やらなければならないことがあったのに」と。有給休暇をとって温泉や海外旅行に出かける人も多いでしょう。そのときも心のどこかで「こんなにのんびりしていてもいいのだろうか、みんな一生懸命仕事をしているのに」と不安になり、あるいは逆に、休暇の最終日が近づいてくると「あー、休みが終わってしまう。明日からまた会社に行かなくては。もう二、三日休みがほしい」と、こうやってストレスを溜めるのです。それから、寝ることでもストレスはかかります。寝ればストレスは解消されると思っている人も多いでしょうが、寝てもストレスは解消されません。逆に「寝すぎてしまった」と自己嫌悪に陥るのです。何かに没頭して夢中になっているときにもストレスはかかりますし、退屈で何もすることがなくても、ストレスはかかります。退屈だと心が暗くなって元気がなくなり、落ち込んでしまうのです。

したがって専門家のあいだでは、ストレスは生きている限りずっとあるもので、ストレスのない人はいないと考えられています。もし嫌なことをやっているとストレスがかかり、楽しいことをやっているとストレスがかからないというのなら、ストレスを定義することができますし、それを解決することもできます。嫌なことをやめて楽しいことをすればいいのだから。しかしストレスは厄介なもので、そう簡単には解決できません。好きなことをしていても、寝ていても、何をしていても、ついてくるものなのです。

能率の低下

それから私たちは疲れたりイライラすると、今やっている仕事(あるいは、やらなければならない仕事)を中断して、別のことをやりたくなる傾向があります。たとえば会社で仕事をしているとき、ちょっと疲れてくると、気分を変えるためにお茶やコーヒーを飲んだりします。そして仕事に戻りますが、少し経つと、タバコを吸ったりガムを噛んだりします。そしてまた仕事に戻りますが、十分や二十分ぐらい経つと、今度はとなりの人にしゃべりかけたり、携帯電話を見たり、新聞を開いたりするのです。それでまた仕事に戻るのです。このように、私たちは仕事に集中しないで、やることをしょっちゅう変えています。それでどうなるかというと、仕事が途切れ途切れになりますから仕事の流れが分からなくなり、やる気もだんだん薄れて能力がなくなってしまうのです。さらには「自分にはこの仕事が向いてないのかなあ」と考えて、もっと落ち込むのです。

家庭の奥さんが夕飯のおかずに天ぷらを揚げているとしましょう。そのときに電話がかかってきたり、お客さんが訪ねてきたり、子供が泣きだしたりすると、そのたびごとに料理を中断しなければなりません。せっかく熱くなっていた油も、ほかの用事をしているあいだに冷めてしまい、また熱し直すところから始めなければなりません。このように仕事が途切れ途切れになると能率が下がりますし、このときにかかるストレスは結構大きいのです。

良いストレスと悪いストレス

私たちは「ストレス」と一言で言っていますが、楽しいときにかかるストレスと、嫌なときにかかるストレスは同じものでしょうか? 退屈なときにかかるストレスと、忙しいときにかかるストレスは同じものでしょうか? 仲の良い友人と話しているときにかかるストレスと、会社の上司と話しているときにかかるストレスは同じものでしょうか? 専門家のあいだでは、ストレスには二種類あり、心身に悪い影響を与える悪いストレスと、善い影響を与える善いストレスがあると考えられています。過労や不安、人間関係のトラブルなど嫌なことがあるときにかかるストレスが「悪いストレス」で、希望や目標をもって何かに取り組んだり、感動したり、楽しんでいるときにかかるストレスが「善いストレス」とみなされています。しかし仏教の立場から見れば、先ほども説明しましたように、楽しんでいるときのストレスも「悪いストレス」のカテゴリーに入るのです。

そこで、仏教では次のように考えています。善いストレスとは、人格が向上する衝動のことです。「こんな調子ではだめだ、前進しなくては、成長しなくては」という、いてもたってもいられない状態になるのが善いストレスです。緊張感や緊迫感のようなポジティブな衝動で、破壊的な悪いストレスではありません。一つ分かりやすい例をあげますと、夜、家ですやすや寝ているとき、やけに熱さを感じて目が覚めたとしましょう。目を開けると、壁やタンスに火がついてパチパチと燃えています。あっちこっちから火が燃え上がり、家の消火器ではもう手遅れ。もう手に負えません。そのとき、普通の人は混乱して動揺して、消防署の電話番号まで忘れてしまい、どうすればよいのか分からないまま、ただうろたえるだけでしょう。そこで、頭のよい落ち着いている人はどうするかというと、状況を瞬時に把握して、安全な場所を見つけだし、さっと逃げるのです。この「逃げよう」という緊張感が善いストレスなのです。仏教の世界では、説法するとき、時々ものすごくストレスがかかるように話をすることがあります。脅迫するような感じで、聞いている方々に、いてもたってもいられなくなるような状態をわざとつくるのです。「では、あなたはどうしますか」と。そうすると、勇気のある人は「逃げる」気持ちになるのです。解脱を決めるのです。それで解脱するのです。このときにかかるストレスは並大抵ではありません。究極のところまで追い込まれて、巨大なストレスを感じないと、悟りには至れないのです。

したがって「人格を向上させよう、心を清らかにしよう、善い行為をしよう」と自分を奮い立たせるポジティブな衝動が「善いストレス」で、それ以外のストレスは「悪いストレス」だと仏教では考えています。

ストレス=貪瞋痴

冒頭でお話した「なぜ仏教にはストレスに対する専門用語がないのか」という質問に対する答えをお出ししましょう。仏教から見れば(悪い)ストレスとは、貪りと怒りと無知のことです。ですから、仏教にはあえてストレスに対する専門用語がないのです。「ストレス=貪瞋痴」だと理解すれば、ストレスを明確に理解することができますし、それを解決する方法も見えてくるのです。

(次号に続きます)