根本仏教講義

24.ストレス完治への道 3

感情の入れ替え

アルボムッレ・スマナサーラ長老

感情の分別

ストレスを観察すればよいのでしょうか? ただ漠然と「ストレスが溜まっている」と観察しても意味がありません。「どんな感情でいるとストレスが溜まるのか」と、ストレスを生み出している感情を観察するのです。たとえば仕事でストレスが溜まっているとしましょう。その場合、忙し過ぎるのか、焦っているのか、イライラしているのか、つまらないのか、浮わついているのか、とその時その時の感情を観察するのです。また、月曜日から金曜日まで毎日ストレスがあるのか、朝会社に入ったときから出るときまでずっとストレスを感じているのか、と細かなところまで観察するのです。これはちょうどゴミを分別するようなもので、ゴミを出すとき私たちは、生ゴミ、プラスチック、金物、ビン、缶、ペットボトルと、それぞれをきちんと分別して出さなければならないでしょう。これと同じように感情も、これは怒り、これは貪り、これは焦り、これは怠け、などときちんと分別して観察することが大切なのです。

分別ができましたら、次に因果関係を観察します。たとえば「上司に褒められたい」という気持ちがあって仕事を懸命に頑張っているとしましょう。この「上司に褒められたい」というのは「欲」ですから、まずその「欲」に気づき、観察します。それから「欲があるからストレスが生じ、そのために苦しんでいる」という因果関係を発見するのです。

このようにして、その時その時生じている貪瞋痴に気づき、「貪瞋痴で行動をすればストレスが生じる」という因果法則を理解することによって、心は落ち着き、ストレスも緩和してゆくのです。

貪瞋痴を入れ替える

さて心が落ち着いたところで、次に発見すべきものは、「貪瞋痴がなくても仕事はできる」ということです。お金を儲けるぞと踏ん張らなくても、他社や他人にライバル意識を燃やして勝とうとしなくても、仕事はできるのです。むしろ貪瞋痴がないほうが効率がいい良い仕事ができるのです。

この貪瞋痴がないエネルギーを「不貪、不瞋、不痴」と言います。これからこれら三つのエネルギーについて具体的に説明いたしましょう。

発見の手助け

不貪(献身・貢献)
 「不貪」とは、貪りや欲、執着の反対のエネルギーのことで、貢献的、献身的なエネルギーのことです。一円でも多く儲けたいとか、上司に褒められたいとか、いい仕事をして皆を驚かせてやろう、というのは明らかに欲です。そういう金銭欲や名誉欲、見栄で仕事をするのではなく、「これは皆のためになりますからやります」と、献身的な気持ちで行動するのです。見返りを求めずに、自分の行為によって社会や他の人々が助かること、自分が役立つことを大切に考えて行動するのです。そして終わったときには「皆の役に立ててよかった」と、そこでストップしてください。「こんなにやったのだから給料を上げてくれ」と、欲を出すところまでいかないように気をつけてください。見返りを求めれば、そこから苦しみが生まれてくるのだから。それから、手抜きをしたり、ごまかしたり、わざと安い材料を使ったりすることも悪行為になります。本当は四十万円かかる仕事なのに、経費をとことん切り詰めて二十万円に抑えようとするのは、明らかに欲であり罪です。その結果どうなるかというと、さらにお金と時間を費やす羽目になるのです。なぜなら中途半端で不完全な仕事をすれば、いずれは必ずばれるでしょう。そうすると否応なしに修正ややり直しを要請されます。さらには、やり直しを要請した相手のことが「自分を攻撃する敵」のように見えてきます。これで大変なストレスがかかるのです。

ですから、献身的に仕事をすることが大切です。献身的な気持ちでまじめに仕事をすれば、相手側は「いい仕事をやってくれました。ぜひ次の仕事もお願いします」と喜んでくれるでしょう。それで互いに「よかった、よかった」と気持ちよく終われるのです。敵も作らずにすみますし、早くお金をくれと請求しなくても相手は喜んでお金を支払ってくれるでしょう。これが不貪の行為なのです。

不瞋(慈悲・調和)
 怒りの替わりには「不瞋」です。不瞋とは、簡単に言いますと、怒らないことです。他の生命に対する慈しみや優しさ、いたわる気持ち。世界は一つのシステムでつながっていて、皆互いに協力して生きているのだと、そこをとても大事に考えるのです。これが「不瞋」です。不瞋は非常に強いエネルギーで、「怒り」よりも大きなエネルギーです。「怒らない」ということは、無力で、だらしなくて、弱いという意味ではありません。力強く、明るいエネルギーなのです。

ですから、ライバル会社や同僚に勝ってやろうという怒りではなく、互いの協力や共存を重視することを大事に考えて行動してみてください。そうすればストレスなんかひとかけらもなくなるでしょう。

不痴(探究・理解)
 理解しにくいのは「不痴」です。不痴の替わりには、探究する心、発見する心、ものごとを理解したり、新しいことにチャレンジしようとする前向きなエネルギーのことです。だらだらして生きるのではなく、自分から積極的に試したり、調べたり、考えたり、チャレンジするという活発なエネルギーです。「人に言われたからやる」のではなく「自分がやりたいから、面白いから、勉強になるからやる」という気持ち。ほとんどの人は、会社や誰かに命令されたから、あるいはマニュアル通りに仕事をしています。私たちは「言われたからやる」という人生を送っているのです。これは無知の働きです。そうではなく、勉強になるから、やりたいから、やってみたいから、面白いから、という気持ちでものごとに取り組んでみてください。これは非常に明るいエネルギーですから、仕事が終わった後には「あーよかった、いろいろ勉強になった」と、心に充実感が生まれてくるでしょう。

ロープを針の穴に通す

「金持ちが天国に行くのはらくだが針の穴を通るより難しい」という有名な聖書のことわざを皆さんもご存知だと思います。らくだが針の穴を通るということは絶対不可能なことなのに、金持ちが天国に行くということは、それ以上に無理だというのです。聖書はこの譬えをもって「あなたがたはいくら天国に行きたがっていても、天国に行けるような生き方をしていない。道が違いますよ」と私たちに忠告しているのです。

仏教では、さらに別の見方を持っていて、天国に行けるか行けないかはお金の有無に関係なく、その人の心の状態で決まると教えています。心が善良なら、善行為の結果として死後は善い境涯に生まれ変わるでしょうし、心が邪悪なら、悪行為の結果として死後悪い境涯に生まれ変わると。

ストレスの仕組み

そこで、この「らくだの譬え」を少々変えて、仏教的に「ストレスの仕組み」を説明してみたいと思います。「らくだ」のところを「ロープ」に入れ替えて「ロープを針の穴に通す」と考えてみてください。らくだが針の穴を通るのは絶対不可能なことですが、ロープですといくらかは通る可能性が出てきます。まったく不可能ではありません。でも、かなり困難。縫い物用の細い糸を針穴に通すときでも、結構ストレスがかかるでしょう。なのに、太いロープをあの小さな針穴に通そうとすれば、膨大なストレスがかかります。ロープを針穴に通そうとすること、これがストレスなのです。

次に「ロープ」のところを「無駄な考え」だと考えてみてください。私たちの無駄な考えは、ロープのように何本もの線が複雑に絡み合って、かなり太くなっているのです。

それから「針の穴に通す」のところを「行為する」と想像してください。私たちは二十四時間何らかの行為をしています。仕事をしたり、勉強したり、人と話したり、料理をしたり、子育てをしたり……。私たちは針の穴にすっーーと通したいのですが、ロープが太過ぎてなかなか通すことができません。つまりスムーズに行動したいのですが、無駄な考えがごちゃごちゃに絡まっているため、うまくできないでいるのです。何かをやろうとしても、頭の中では「やりたい、でもやりたくない、できるかしら、できなかったらどうしよう、成功したい、でも失敗するかも、面白そう、つまらない……」などあれこれ妄想して、感情が複雑に絡み合っているのです。心が定まっておらず、一つの行為に集中できません。そういう曖昧な状態でやっているから、何をやってもうまくいかず、ストレスが溜まってしまうのです。

(次号に続きます)