根本仏教講義

28.希望と欲望 1

底なしの欲

アルボムッレ・スマナサーラ長老

希望と欲望 ―― どちらの言葉にも「望む」という言葉が含まれています。しかし一般的に「希望」のほうは善いものとされていますし、「欲望」のほうは悪いものとされています。私たちが「どのように望むのか」ということで、意味が善いものにも悪いものにも変わってくるのです。

まず「希望」から見てみましょう。これは、何かの実現を願い望むという意味です。英語では、hope・wish・aspiration など、いくつか言葉があります。これらはどれも肯定的な意味で使われています。とくにaspirationにはとても積極的な意味があり、否定的な意味で使われることはありません。否定的に使う場合は、たとえばhopeなら、語尾にlessを付けてhopelessとします。そうすると否定形になるのです。

十悪

次に「欲望」を見てみましょう。文字どおり、欲望は、欲に基づいて何かを望むことです。欲に基づいているのですから、道徳的な立場から見ますと、これは善いものではありません。

欲には、いろいろなレベルがあります。一番悪くて病的な欲望は、パーリ語で「Abhijjhâ(アビッジャー)」と言います。これは、非常に欲が深く、必要以上に欲しがること、貪欲、という意味です。Abhijjhâ の語を分析してみますと、Abhi と ijjhâ の二つの語からできており、Abhi は「常識レベルを越えている」という意味、ijjhâ は「希望する、欲しがる」という意味です。そこでAbhijjhâ は「常識レベルを越えて欲しがる」という意味になります。

ところで、仏教には「十悪」という教えがあります。悪い行為を十種類に分けているのですが、その十種類のなかに Abhijjhâ (貪欲)が含まれているのです。

十種類の悪行為とは、

一 殺生(せっしょう) 生き物を殺すこと。
二 倫盗(ちゅうとう) 盗むこと。
三 邪淫(じゃいん) 邪まな行為。
四 妄語(もうご) 嘘をつくこと。
五 悪口(あっく) 悪い言葉で人の心を傷つけたり、貶したり、誹謗したりすること。
六 両舌(りょうぜつ) 人の仲を裂くためや調和を壊すために噂話をすること。
七 綺語(きご) 意味のないことを話すこと。無駄話。おしゃべり。これは時間と頭の知識を無益に浪費します。
八 貪欲(とんよく) 強い欲望(abhijjhâ)
九 瞋恚(しんい) 強い怒り(vyâpâda ビャーパーダ)
十 邪見(じゃけん) 見方が間違っていること(micchâditthi ミッチャーディッティ)

この十種類のうち最も重い罪は、貪欲・瞋恚・邪見です。その中でも最も重いのは、邪見です。

余計な欲(Abhijjhâ アビッジャー

Abhijjhâ とは、簡単に言いますと「余計な欲」という意味です。なぜ欲望の上に「余計」という語を付けるのかといいますと、一般的にどんな人にも欲はあります。そのような日常生活のなかで生まれる、ごく普通の欲は「余計な欲」とは言いません。でも、限度を超えてきりがなく欲が出てくると、それは「余計な欲」となるのです。

「普通の欲」の場合は、修行しない限りコントロールすることが難しいのですが、「余計な欲」の場合は、修行や瞑想をする以前から、あるいは仏教を学ぶ以前から、抑えておかなければならないものです。十悪は、仏教徒であろうかなかろうか、人間なら誰でも避けなければならないものであり、犯したら必ず罪になるのです。これは普遍的な法則ですから、宗教や信仰には関係がありません。仏教徒も、キリスト教徒も、イスラム教徒も、無宗教の人も、どんな人も、十悪の行為をしたら罪になるのです。たとえば他人の物を盗んだ場合、仏教徒は罪になりますが仏教徒以外の人は罪にならない、ということはありません。どんな人でも盗みを犯したら罪になるのです。動物も同じで、盗むと、罪になるのです。

巨大な欲(Mahicchatâ マヒッチャター

Abhijjh のほかに、欲望を表す言葉として「mahicchatâ」があります。これは mahâ と icchatâ の二つの語から成っています。Mahâ は、大きい。 icchatâ は、希望という意味です。希望といっても、ここでは悪い意味で使っていますから「欲望」となり、この二語を組み合わせて mahicchatâ は「大きな欲」「巨大な欲」という意味になります。

悪い欲(Papicchatâ パーピッチャター

これは pâpa と icchatâ から成っており、pâpa は、罪や悪。 icchatâ は、欲しがること、という意味。ですから、罪・悪+欲しがることで「罪になる欲」「悪い欲」という意味になります。

埋められない穴

今「abhijjhâ」「mahicchatâ」「pâpicchatâ」の三種類の欲をご紹介しましたが、なぜこれらは悪いもので罪になるのでしょうか、これから考えてみましょう。

世の中には、人が成長し成功するためには、ある程度の欲望が必要、という考え方があります。事業で成功したい、お金を儲けたい、地位や名誉、権力が欲しいなど、そういう欲望をバネにして、それに向かって邁進することにより、人は成長できると考えているのです。これは正しい考え方でしょうか?

仏教から見ますと、「あれも欲しい、これも欲しい、ああいうふうになりたい、こういうふうになりたい……」ということばかり考えている人の心のなかは、大きな穴がぽっかりとあいています。いわゆる空っぽ。悪い意味での空っぽです。何もありません。つまり精神的に満たされていないのです。さらに悪いことに abhijjhâ と mahicchatâ には、欲の穴に底がありません。底なしの穴なのです。ですから、モノをいくら入れても穴は埋まりません。埋められないのです。欲望には、そのような特色があります。いくらあっても足りない、満足しない、これが欲望なのです。

億万長者も心は貧乏

欲の深い人は、明るい性格ではありません。思考も暗いし、性格も暗い。皆さんは日常生活のなかでいろんな人とおつきあいしているでしょうから、本当かないか、ご自分で調べてみるといいでしょう。欲深い人の顔や生き方を見てみてください。機会があれば、そういう人の家を訪ねてみてください。ものすごく暗い影があることが見えると思います。四六時中、儲けたいとか、出世したいとか、誰かに勝ちたいとか、強くなりたいとか、美しくなりたいとか、ごちそうを食べたいとか、常に心が「欲しい」「~したい」という感情でいっぱいになっていますから、心に落ち着きや明るさがないのです。

そこでこういう欲深い人たちが何をするのかといいますと、破壊行為です。たとえば、お金にたいして貪欲な人は、とにかくどんな方法を使ってでもお金を得ようとします。手段は選びませんし、相手の気持ちも考えません。社会の秩序や平和といったことはまったく考えず、自分にお金が入ればいい、自分さえよければいい、としか考えないのです。そうするとどうなるでしょうか? 当然、社会の調和やバランスが崩れてしまうのです。それから、その人はお金をいっぱい儲けたからといって、明るく行動するかというと、それもしようとしません。なぜかというと、いつも「足りない、足りない」という気持ちでいますから、いくらあっても「足りない」と感じるのです。それでさらに貯め込もうとします。いっこうに他人や社会のために役立てよう、有効に生かそう、などとはしません。

ですから、貪欲な人が社会に一人でもいるということは、社会全体の調和を崩し、迷惑になります。そういうわけで、欲望は罪になるのです。

(次号に続きます)